山手線「駅名」ストーリー

田端(JY09): 山の手と下町の境界に位置する「端」の駅

暮らし 歴史

1909(明治42)年に山手線と命名されて以来、「首都の大動脈」として東京の発展を支えてきた鉄道路線には、現在30の駅がある。それぞれの駅名の由来をたどると、知られざる歴史の宝庫だった。第14回は「田端駅」。駅名にある「端」の文字に、重要な意味があった。タイトルの(JY09)はJR東日本の駅ナンバー。

田端は山手線の「終点」

田端駅の開業は1896(明治29)年4月1日だった。品川・新橋・上野・渋谷・新宿・目黒・目白・秋葉原に次いで9番目に誕生した駅だった。

『鉄道要覧』では、山手線の「終点」となっている。山手線は品川を「起点」として新宿・池袋を経由し、田端へと至る20.6キロメートルが正式な区間であり、田端-東京間は東北本線、東京-品川間は東海道本線に分類される。つまり、私たちが山手線と呼ぶ環状線は、実は運行上の通称なのである。

田端の地名の由来は単純だ。

  • 田んぼの端に拓いた集落
  • 集落の田畑が半分ずつだった

などの説が、同駅が立地する東京都北区編纂の『北区史』に掲載されており、「田」に「畑」または「端」を組み合わせた地名と考えていい。

実際、江戸時代には「田畑」と記した例も散見され、『江戸名所図会』はこの表記である。一方、『新編武蔵風土記稿』は武蔵国豊島郡岩淵領に属していた「田端村」と記載しており、『江戸紀聞』(天正年間[1573]以降の江戸の風聞を聞き書きした書)は「田端説が有力」と解説している。

開業当初は列車がスイッチバックで入ってきた

「端」の字は、田端駅が成立・発展する上でも重要な意味を持っていた。

駅開業当初の所在は「北豊島郡滝野川村大字田端字峡附」。「峡附」の読み方は不明だが、約2キロ東に「荒川区立峡田(はけた)小学校」があることから、「はけつき」と読むだろうと地図研究家の今尾恵介はいう。

「峡」には「崖」の意味がある。

田端から上野方面に向かう山手線外回りに乗車すると、右側は切り立った「崖」になっている。崖の上が武蔵野台地で「山の手」、崖の下が「下町」だ。山の手と下町のちょうど境界──つまり、「端」にあるのが田端駅だ。

田端の語源は「田んぼの端」だが、同時に地形的な境界という特徴を持った地で、それゆえ田端駅は他とは異なる歴史を刻んできた。

田端駅はそもそも、土浦を出発して牛久・取手(いずれも茨城県)を経由して首都・東京に至る日本鉄道「土浦線」の駅として誕生した。福島県富岡町から茨城県日立市にかけて広がっていた常磐炭田から石炭を運搬するための貨物線だった。

列車は茨城方面の低地からやって来て、境界の中腹に建設された田端駅に「登る」ルートだったが、重い燃料や資材を積んでいるため、当初はスイッチバック方式を採用していた。

田端駅の開業前、山を切り崩して工事している最中を捉えた写真。かなりの高低差があったことがうかがえる。このため線路はスイッチバックとなった。『日本国有鉄道百年史』国立国会図書館所蔵
田端駅の開業前、山を切り崩して工事している最中を捉えた写真。かなりの高低差があったことがうかがえる。このため線路はスイッチバックとなった。『日本国有鉄道百年史』国立国会図書館所蔵

スイッチバックとは、急勾配に敷設した線路に鋭角的な折り返し点を設け、電車が折り返し点まで前進すると、次は後退しながら登っていく方式で、現在も箱根登山鉄道などに見られる。

だが、当時は蒸気機関車である。折り返すたびに先頭の蒸気機関車を切り離し、また最後尾に機関車を連結するなど、時間を要して不便だった。

そこで日本鉄道は1905(明治38)年、スイッチバックを廃止して新たに日暮里駅を開業し、土浦から来た列車は日暮里へ向かうことになった。この土浦-日暮里が現在の常磐線であり、田端駅はルートから除外されたわけだ。

また、話は前後するが1883(明治16)年には、熊谷(埼玉県)から上野に伸びる路線も開設されていた。現在の東北本線と高崎線である。そこに田端駅が完成したため、上野-田端-熊谷がつながった。現在も山手線と東北本線(京浜東北線)の分岐駅となっている。

つまり田端は本来、常磐線、東北本線が乗り入れるターミナルとして計画された駅だったのである。しかし前述の通り、常磐線の「駅」には適していなかった。

一方、常磐線の線路はそもそも低地にあったため、1912(大正元)年からこれを少し延伸し、田端駅の隣の広大な敷地に貨物操車場を建設する計画が始まった。完成は1917(大正6)年。面積は約6万坪。当時にあって最新式の操車場で、夜間にも対応できるよう投光器が煌々と闇を照らしていた。

大正時代、田端操車場には投光器が設置され、夜も灯りが闇を照らしていた。『マツダ新報』(1916)国立国会図書館所蔵
大正時代、田端操車場には投光器が設置され、夜も灯りが闇を照らしていた。『マツダ新報』(1916)国立国会図書館所蔵

この操車場が「田端信号場駅」となり、現在も常磐線貨物支線や山手貨物線などが入ってくる、JR貨物の集積地である。「端」の駅は東京の流通を支える上でなくてはならない場所となり、今も貨物の中継地として存在感を示している。

信号場駅の西側には東北新幹線の車両基地・東京新幹線車両センターもある。貨物列車や新幹線など多くの列車が停車するこの一体を、「鉄道の聖地」として注目する人も少なくない。

大正〜昭和初期は文士たちのサロンがあった

現在の田端駅は、1930(昭和5)年に開業の地から約200メートル南東に移設されたもので、北口と南口の2つの改札口がある。北口は表玄関だが、南口は武蔵野台地の上に立ち、自動改札が設置してあるだけで駅員もいない。まるでローカル線と思えるほど簡素な駅舎で、駅前広場もない隠れた名所である。

田端駅南口には駅前広場もなく、山手線の改札口とはとても思えない(PIXTA)
駅前ロータリーもなく、山手線の改札口とはとても思えない南口改札(PIXTA)

南口の標高は約20メートル。対して北口は約6メートルだ。南口から見下ろすと、田端駅が台地の下にあることが一目瞭然。このため、周辺には江戸坂・上の坂(かみのさか)・不動坂といった「坂」が多く、これらを巡るのも田端散策の楽しみのひとつだ。

不動坂は南口近くにある石の階段で、案内板によると「かつて付近に石造不動明王立像が安置され、不動の滝があったことによる」とある。不動明王像は現在、約800メートル西に移され、田端不動尊となっている。

上の坂には文豪・芥川龍之介の旧邸跡がある。芥川は1914(大正3)年、田端に移り住んだ。すると室生犀星・菊池寛・萩原朔太郎・堀辰雄・平塚雷鳥らも続いて転居してきて、 いつしか田端は「文士村」と呼ばれるようになった。それに伴いレストランやテニスコートができ、芸術サロンとしてにぎわった。現代まで読み継がれる芥川の「羅生門」「鼻」「河童」などの作品は、田端時代に書いたものだ。

ところが1927(昭和2)年、芥川が自殺すると、翌年には犀星が田端を離れ、文士村は終焉に向かっていった。

北口駅前にある「田端文士村記念館」は、そうした文士たちの歴史を振り返ることができるミュージアムで、旧芥川邸の復元模型や関係資料が展示されている。10月5日からは芥川の転入110周年を記念し、『作家・芥川龍之介のはじまり~書斎「我鬼窟」誕生までの物語~』の企画展を催す。

田端文士村記念館(PIXTA)
田端文士村記念館(PIXTA)

時代はさかのぼって、鎌倉時代に関連した史跡も紹介しよう。北口から徒歩10分ほどのところにある上田端八幡神社である。

江戸時代の田端は台地を上田端村、崖下を下田端村と呼んでいたが、八幡神社は上田端の鎮守だった。

1189(文治5)年、源頼朝がこの地の豪族・豊島氏と一緒に奥州藤原氏を平定した帰路に、立ち寄り勧請したと伝わる。祭神は品陀別命(ほんだわけのみこと)=第15代・応神天皇。軍神である。

『江戸名所図会』には田畑(端)八幡宮が描かれている(上部の赤枠箇所)。国立国会図書館所蔵
『江戸名所図会』には田畑(端)八幡宮が描かれている(上部の赤枠箇所)。国立国会図書館所蔵

境内の別宮・白髭神社の付近には、頼朝の御家人・畠山重忠ゆかりの「争いの杉」といわれる大木もあったという。高さ約8メートル、幹の太さ約3メートルの巨木で、「これは松の木か、それとも杉か」を、重忠と家臣が言い争ったというのだ。現在の白髭神社には、小さな祠(ほこら)が立っているだけだ。

似た伝承が室町時代後期の武将・太田道灌にもある。田端の近隣に道灌山と呼ばれる高台が今もあるが、そこにあった巨木を道灌と侍者とが「松か杉か」で言い争ったというもの。伝説が次第に変容していく、そうした例のひとつではないだろうか。

【田端駅データ】

  • 開業 / 1896(明治29)年4月1日
  • 1日の平均乗車人員 / 3万7291人(30駅中27位 / 2022年度・JR東日本調べ)
  • 乗り入れている路線 / JR京浜東北線、他社路線の乗り入れはなし

【参考図書】

  • 『東京の地名由来辞典』竹内誠編 / 東京堂出版
  • 『北区史』/ 北区
  • 『山手線 駅と町の歴史探訪』小林祐一 / 交通新聞社新書
  • 『駅名学入門』今尾恵介 / 中公新書ラクレ
  • 『山手線お江戸めぐり』安藤優一郎 / 潮出版社

バナー写真 : 1920(大正9)年頃の田端駅。右に見えるのがホーム。左には操車場へ向かう蒸気機関車が写っている(鉄道博物館所蔵)

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