山手線「駅名」ストーリー

駒込(JY10): 「駒」はヤマトタケルが目にした馬か?

歴史 暮らし

1909(明治42)年に山手線と命名されて以来、「首都の大動脈」として東京の発展を支えてきた鉄道路線には、現在30の駅がある。それぞれの駅名の由来をたどると、知られざる歴史の宝庫だった。第13回は電車の発車メロディに「さくらさくら」が流れる駒込駅の歴史をたどった。タイトルの(JY10)はJR東日本の駅ナンバー。

武蔵野台地の東端に位置する駒込駅ホーム

駒込駅の誕生は1910(明治43)年11月15日だった。その4年前の1906(明治39)年、開業当時は私鉄だった日本鉄道が国有化され、品川・新橋など16の駅すべてを鉄道院が管轄下に置いた。また、それらの駅をつないだ路線の名称が正式に「山手線」に決まったのが1909(明治42)年。

国有化後、浜松町駅・田町駅(1909年)、有楽町駅、高田馬場駅(1910年)に続いて、駒込駅が営業を開始した。

駒込駅は武蔵野台地の東端に位置し、標高は約20メートル。駒込から一気に谷地に下り、道灌山トンネル(1925/大正14年に廃止)を通って標高約6メートルの田端駅に至っていた。

駒込駅のホームは現在もこの名残を留め、西側の巣鴨寄りが高く、田端寄りは低い斜面に立っている。文京区、豊島区、北区の区境がちょうど駒込駅の近くで接しており、ホーム大部分は豊島区だが、斜面になっている田端寄りの端が少しだけ北区に入っているのが面白い。

明治〜大正初期、駒込駅付近を走る山手線6100形電車。この頃の車両は1両だった(鉄道博物館所蔵)
明治〜大正初期、駒込駅付近を走る山手線6100形電車。この頃の車両は1両だった(鉄道博物館所蔵)

駒込の地名がいつ成立したかは不明

駒込の地名の由来については諸説あるが、「これが真説」と断言できるほどの決定打はないため、ここでは主なものを紹介しておこう。

〈ヤマトタケルの東征に由来〉

『古事記』『日本書紀』に登場する古代の英雄・ヤマトタケルが東征の際にこの地に来て、味方となった軍勢の駒(馬)の数が多いのを見て「駒混(込)みたり=集まっている」といったことに由来(『再校江戸砂子』『御府内備考』より)。本来の読み方は「こまごみ」であったと『新編武蔵風土記稿』は記す。

『再校江戸砂子』にはヤマトタケルに因んだ伝承が記されている(国立公文書館所蔵)
『再校江戸砂子』にはヤマトタケルに因んだ伝承が記されている(国立公文書館所蔵)

〈馬牧(うままき)があったことに由来〉

原野に馬の牧場があったとする説(『新編江戸志』)。東京には駒場・駒沢など「駒」、練馬・高田馬場など「馬」に因んだ地名が多く、駒込もその一つ。筆者はこの説が有力と考えるが、確証はない。

〈渡来人に由来〉

古代に渡来人の「高麗人」が住んでいたことから「高麗籠=こまごめ」と呼ばれ、駒込に転訛(てんか)したという説。この説は『東京の地名由来辞典』(東京堂出版)など複数の資料に掲載されてはいるものの、出典は不明。

現在のところ、駒込の地名が確認できる最古の文献は16世紀前半の『小田原衆所領役帳』である。「葛西在城番衆遠山弥九郎」なる人物の所領として「駒込」が確認でき、戦国時代には地名として成立していたといえる。

江戸時代に幕府が大名に命じて作成させた『正保国絵図』(1644年頃から作成開始)、『元禄国絵図』(1696〜1702作成)、『天保国絵図』(1835〜1838作成)のいずれにも「駒込村」は載っており、17世紀には定着していた地名だったことも分かる。

江戸時代に幕府主導で作成された絵図のひとつ、正保国絵図には「駒込村」の地名がある(国立公文書館所蔵)
江戸時代に幕府主導で作成された絵図のひとつ、正保国絵図には「駒込村」の地名がある(国立公文書館所蔵)

江戸期は、町奉行が支配する江戸御府内の「下駒込」と、代官が管理する農村地だった「上駒込」に分かれていた。下駒込はほぼ現在の文京区本駒込、上駒込が豊島区駒込に相当する。駒込はもともと御府内と農村を包括した広い範囲に及ぶ地名であり、それらを代表する形で命名されたのが山手線の「駒込駅」といえよう。

駅の開業当時の所在は、北豊島郡巣鴨町大字上駒込で、現在は豊島区駒込2丁目である。

なお下駒込(現・文京区)は、明治時代には「駒込曙町」「駒込浅嘉町」「駒込追分町」「駒込富士前町」など、駒込の名を冠した10以上の町があったが、昭和40年頃までにすべて廃止され、現在は文京区本駒込・千駄木・向丘・西片などの町名に変更されている。

駒込は茄子(なす)の名産地

このシリーズの「巣鴨」の回でも触れたが、江戸時代中期以降の巣鴨から駒込一帯は、植木職人が集住する花の名所として知られていた。特に「染井」という場所では幕末まで、代々伊兵衛の名を世襲した植木屋・伊藤家が活躍し、美しい菊やツツジを栽培する名人として有名だった。

現在も5月になると、駒込駅のホーム脇線路の花壇にツツジが咲き誇る。1911(明治44)年、前年の駅開業を記念して近隣の植木職人たちが植えたのが始まりで、今もその伝統が根づいている。

駒込駅に停車中の山手線と線路脇のツツジ(PIXTA)
駒込駅に停車中の山手線と線路脇のツツジ(PIXTA)

桜の品種・ソメイヨシノを開発したのも染井の職人たちだったといわれる。駒込駅を山手線が発車する際、ホームに流れるメロディが「さくらさくら」なのは、そのためである。

野菜の名産地でもあり、江戸三大青物市場のひとつ「駒込土物店(つちものだな)」もあった(他の2カ所は神田と千住)。「土物」とは、採ったばかりでまだ土が付着した新鮮な野菜を指し、前述の駒込浅嘉町をはじめ3つの場所に市がたったという。

『新編武蔵風土記』には「茄子土地に宜(よろしき)をもって世にも駒込茄子と称す」とあり、茄子が一種のブランドだったことを記している。

六義園と八百屋お七関連史跡

駒込駅南口を出るとレンガ造りの塀が目に入る。六義園だ。側用人・柳沢吉保が徳川5代将軍・綱吉から約4万6000坪の土地を拝領し、7年をかけて造営した日本庭園で、駒込の名所として真っ先に挙げられよう。

六義園は池を中心とした回遊式庭園 (PIXTA)
六義園は池を中心とした回遊式庭園 (PIXTA)

吉保は綱吉の12歳年下で、甲斐源氏武田氏の流れを汲む名門の出身と称していた。

綱吉が館林藩主だった頃から側近として仕え、将軍就任と同時にめざましい出世を遂げていく。1694(元禄7)年には石高7万2000石の大名となって川越藩主の座に就き、駒込に土地を賜ったのはその翌年である。

六義園の名にある「六」は、中国最古の詩集『詩経』にある6つの詩の分類「風=ふう」「雅=が」「頌=しょう」「賦=ふ「比(ひ)「興(きょう)」に基づき、それぞれが民謡・朝廷の正楽・祭りの歌などを指している。こうした意味を持つ文字を庭園の名に採用するあたりに、教養人としての吉保の一面がうかがえる。

大きな池の周囲を散策できる「回遊式庭園」で、春はしだれ桜、秋はライトアップされた紅葉が彩る風流な名所だ。

そうした雅な地がある一方で、悲劇を伝える史跡も残る。「八百屋お七」にまつわる伝承地だ。

1682(天和2)年、駒込の寺院が火元となって、死者3500余を出した大惨事「天和の大火」が発生した。

火事で焼け出された八百屋のお七の一家は同じく駒込にあった寺に身を寄せた。お七はそこで寺の小姓・庄之介と恋仲になるが、やがて八百屋が再開すると、一家は寺を引き払って行った。

恋人と会えなくなったお七は、庄之介のいる寺で暮らしたい一心で、放火の大罪を犯して捕縛され、死罪となった。

月岡芳年画『松竹梅湯嶋掛額』は歌舞伎の演目の錦絵。火の見櫓(やぐら)に上るお七を妖艶に描き出している(国立国会図書館所蔵)
月岡芳年画『松竹梅湯嶋掛額』は歌舞伎の演目の錦絵。火の見櫓(やぐら)に上るお七を妖艶に描き出している(国立国会図書館所蔵)

以上が伝承のあらましだ。

しかし、焼け出されたお七が身を寄せたとされる寺は当時の絵図に見当たらない。お七の年齢も15〜16歳と曖昧で、生家が八百屋だったことを示す確たる証拠もない。処刑された日付も見聞録『天和笑委集』では「天和三年三月二十八日」となっているのに対し、墓石には「三月二十九日」と刻まれているなどズレがある。つまり、不明な点が多い事件なのである。

一方、同じく見聞集の『御当代記』の天和3年の章に、「駒込のお七付火之事、此三月之事にて二十日時分よりさらされし也」とあり、お七という娘が放火犯として3月20日から晒し者となっていたのをうかがわせる。

ともあれ、駒込界隈(かいわい)の生まれ育ちだったことから、周辺にゆかりの地が集中している。
まず、駒込駅から本郷通りを南へ約1キロのところにある曹洞宗の寺・吉祥寺には、お七と恋人の碑「比翼塚」がある。

吉祥寺(文京区本郷)に立つお七と吉三郎の比翼塚(PIXTA)
吉祥寺(文京区本郷)に立つお七と吉三郎の比翼塚(PIXTA)

恋人の名が「吉三郎」となっているのは、同時代を生きた井原西鶴がお七を取り上げた『好色五人女』や、歌舞伎の演目で吉三郎となっているためだ。

そもそも吉祥寺に碑があるのも、お七と寺の小姓が出会った地を西鶴が吉祥寺と“特定”したからである。実はこれも信ぴょう性は薄いようだが…。

さらに南に700メートル行った大円寺の山門正面にあるお地蔵さまは1719(享保4)年、お七を供養するために寄進されたものだ。

大円寺から300メートルの場所には、お七の墓が立つ円乗寺がある。

墓石が3つ並び、真ん中はお七が処刑された当時の住職が建て、右は『松竹梅湯島掛額』のお七を当たり役とした歌舞伎役者5代目・岩井半四郎が1793(寛政5)年に建立。左は、昭和に入って近隣の住人たちが建てた。

実像がはっきりしないお七だが、駒込の地では長く愛されている。

【駒込駅データ】

  • 開業/1910(明治43)年11月15日
  • 1日の平均乗車人員 / 4万906人(30駅中26位 / 2022年度・JR東日本調べ)
  • 乗り入れている路線 / 東京メトロ南北線

【参考図書】

  • 『駅名で読む江戸・東京』大石学 / PHP新書
  • 『駅名学入門』今尾恵介 / 中公新書ラクレ
  • 『東京の地名由来時点』竹内誠編 / 東京堂出版
  • 『東京の地名由来辞典』竹内誠編 / 東京堂出版
  • 『豊島区史 通史編』/ 豊島区

バナー写真 : 1958(昭和33)年の駒込駅。手前は本郷通り。『甦った東京』国立国会図書館所蔵

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