山手線「駅名」ストーリー

大塚(JY12): 大塚の「塚」は古墳か、櫓(やぐら)か、一里塚か?

歴史 都市

1909(明治42)年に山手線と命名されて以来、「首都の大動脈」として東京の発展を支えてきた鉄道路線には、現在30の駅がある。それぞれの駅名の由来をたどると、知られざる歴史の宝庫だった。第11回は「大塚」。駅名にある「塚」とは何か、また「塚」はどこにあったのかなどを解説し、駅名の由来をたどっていきたい。タイトルの(JY12)はJR東日本の駅ナンバー。

大塚の「駅名」をめぐる混乱

山手線大塚駅の開業は1903(明治36)年4月1日だった。日本鉄道の田端〜池袋間の駅として、池袋駅・巣鴨駅と同じ日に誕生した。下の写真は1925(大正14)年のホームで、明治時代に欧米から輸入した古いレールを柱として使用し、屋根を支えていたという。

1925(大正14)年のホーム。鉄道博物館所蔵
1925(大正14)年のホーム / 鉄道博物館所蔵

日本鉄道の田端〜池袋間は当初、現在の山手線とは異なるルートに線路を敷設する計画だった(『日本鉄道池袋停車場設置経緯に関する考察』伊藤暢直/『生活と文化:豊島区立郷土資料館研究紀要』に所収)。

計画通りに工事が進めば、目白駅から伸びる線路は池袋駅の手前で東に折れ、現在の東京メトロ丸ノ内線「新大塚」駅辺りに設置する予定だった大塚駅を経由し、巣鴨へと延びるはずだった。ところが池袋駅の開業が決まったため、ルートは北側に膨らむ形となり、大塚駅の建設地も当初の予定よりも北側の現在の場所になった。

緑の太線が当初計画されていた山手線の線路の想定図。目白を出ると池袋駅の南にある通称“びっくりガード”で東へ折れ、現在の新大塚駅辺りと直線で結ぶ予定だった

「大塚」という駅名がまた、大変ややこしい。

というのも、駅の開業当時の町名は「北豊島郡巣鴨村大字巣鴨字宮仲」で、本来であれば、「巣鴨」駅の西に位置することから「西巣鴨」駅、あるいは地名の末尾をとって「宮仲」駅あたりが妥当だったのではないか。

宮仲の地名の由来は不明だが、「宮=神社」と考えれば、おそらく巣鴨村の鎮守・天祖神社(豊島区南大塚3丁目)のことだろう。宮仲は現在の地名としては残っておらず、大塚-池袋間の山手線の上に架かる小さな陸橋「宮仲橋」と、上池袋にある小さな児童公園「宮仲公園」にその名を留めている。

では、「大塚」の駅名はどこから来たのか?

「大塚」駅は豊島区にあるが、“本家・大塚”は文京区にある。「大塚」駅から約700メートル南下した、丸ノ内線「新大塚」駅からさらに南側のエリアが文京区大塚1〜6丁目で、お茶の水女子大学とその付属校や、筑波大学東京キャンパスと付属校、跡見女子大学などがひしめく文教ゾーンだ。護国寺と皇族の豊島岡墓地もある。

大塚3丁目の東京メトロ丸ノ内線茗荷谷駅のほど近くには、「地名『大塚』発祥の地」の碑まで立っている。碑は1971(昭和46) 年、帝国女子専門学校(現相模女子大学)の跡地に建てられたもので、碑文は東京大学名誉教授で中国哲学の研究者・宇野哲人(故人)の撰文(碑文などの文章を作成すること)とある。なお、碑文については詳しくは後述する。

どういう経緯かは不明だが、本来の地名のエリアからは離れた場所に建設した山手線の駅名に「大塚」が採用されてしまったのだ。

現在は山手線大塚駅の北側の町名が「豊島区北大塚」、南側は「豊島区南大塚」。駅をはさんだ位置関係が明確で合理的なようだが、「豊島区南大塚」は、「文京区大塚」の北側に接しているので、なんとも複雑である。

地図研究家の今尾恵介によると、豊島区北大塚、同南大塚の町名が誕生したのは1969(昭和44)年。このとき、文京区には、すでに大塚の町名があった。それにもかかわらず名づけてしまったことを指して、「(区の)担当者間で情報交換が行われなかったのだろうか、地名政策のお粗末な一典型」と手厳しい(『駅名学入門』中公新書ラクレ)。

実際、東京の地名のトリビアが話題になる際、大塚は決まって取り上げられる。

『南総里見八犬伝』登場人物の故郷

大塚の地名は古くは『新編武蔵風土記稿』にある。1697(元禄10)年、巣鴨・雑司ヶ谷・小石川の各村の一部を割き、護国寺の寺領として「大塚村」が誕生したと記している。

また、文化年間(1804〜1818)に曲亭馬琴が著した『南総里見八犬伝』では、八犬士のひとり、犬塚信乃(いぬづか・しの)が「武蔵国(関東)大塚の里」の生まれという設定になっており、江戸時代後期には広く知られた地であったと想像できる。

八犬士の犬塚信乃を描いた錦絵。『木曽六十九驛 垂井金蓮寺 犬塚信乃』 / 国立国会図書館所蔵
八犬士の犬塚信乃を描いた錦絵。『木曽六十九驛 垂井金蓮寺 犬塚信乃』 / 国立国会図書館所蔵

「大塚」の意味は、文字通りにとれば「大きい塚」だが、塚の意味するところは「古墳」「櫓(やぐら)」など諸説ある。また「一里塚」説もあり、どうも真相がはっきりしない。

【古墳説】

前述の「地名『大塚』発祥の碑」の碑文に刻まれている。かつて発祥の地に樹木に囲まれた小祠(しょうし/神職が常駐しない小さな神社)があり、先史時代の古墳といわれ、それが大きな塚、略して「大塚」と呼ばれるようになったとある。

【櫓説】

室町時代後期の武将・太田道灌(おおた・どうかん/1432〜1486)が戦いに備えて築いた7つの物見櫓のひとつとする説(『江戸図説』より)。道灌は徳川家康が入府する以前に、江戸城の基礎を築いた人物。

【一里塚説】

江戸時代の大名屋敷の敷地に、旅人のための一里塚が立っていたことに由来するという説。大塚の近辺には、鶏声ヶ窪(現在の駒込)に古河藩(茨城県)土井家、小日向に生実藩(おゆみはん/千葉県)森川家が屋敷を賜っていた。そのどちらか、あるいは両方に一里塚があったというのだが(『南向茶話』『御府内備考』より)、詳細は不明だ。また、一里塚があったのは御三家の水戸藩邸の敷地だったという説もある(『江戸名所図会』より)。

確証はないが、著者は「古墳説」を推したい。その理由は、そもそも「塚」は「墓」の意味を持っているからだ。実際に埼玉県秩父郡、大阪府豊中市、岡山県倉敷市には「大塚」と名づけられた古墳がある。そうであるなら、東京にも権力者を埋葬した古墳「大塚」があったとしても、不思議ではないだろう。

余談だが、文京区大塚のお茶の水女子大学は、1932(昭和7)年に御茶ノ水から大塚に移転してきた学校で、移転当時の校名は東京女子高等師範学校だった。1949(昭和24)年、校名を改称する際、大塚にあるのに「大塚女子大学」とせず、創立地の御茶ノ水の名を冠した。「塚」に墓の意味があるため、学校関係者が難色を示したからだという(『地形を感じる! 駅名の秘密 東京周辺』内田宗治/実業之日本社)。

「三業地」に残る社会事業家の碑

JR山手線大塚駅に話を戻し、周辺の知られざる名所を紹介しよう。

にわかには信じがたいが、戦前の大塚駅周辺は、池袋より栄えた地区だった。1911(明治44)年、王子電気軌道(王子電車)の路面電車停留所が大塚駅の隣にでき、交通の便が飛躍的に良くなり、歓楽地として発展したのである。

路面電車と接続している山手線の駅は現在は大塚だけで、この停留所が現在の東京さくらトラム(都電荒川線)の「大塚駅前」である。

JRの高架下にさくらトラム「大塚駅前」(PIXTA)
JRの高架下にさくらトラム「大塚駅前」(PIXTA)

大塚の繁華街は「三業地」と呼ばれた。「三業」とは料理屋・待合(貸座敷)・芸妓屋の3つの業種のことで、これがそろったのが花街だ。現在も大塚駅南口を出て東に行った所に「大塚三業通り」があり、すし屋や割烹などの飲食店がわずかながら営業している。

その通りの一角に南大塚一丁目児童公園があり、小さな碑が立っている。「丸山ちよ(千代)顕彰碑」だ。

丸山千代は大正から昭和にかけて、託児所経営と聾唖(ろうあ)教育に生涯を捧げた社会事業家だった。1913(大正2)年に小石川に託児所を設立し、自ら園長となった。1928(昭和3)年、託児所を「西窓学園」と改称し、三業地に移転した。のちに南大塚一丁目児童公園が開園する場所から、100メートルほどしか離れていなかった。

児童公園の碑には、こう刻まれている。「この街で おおくの子らの母であった 丸山ちよ先生」

おそらく三業地で働く女性の子たちも、託児所で預かっていたと考えられる。

一方、駅を出て西に行くと、山手線の陸橋「空蝉橋(うつせみはし)」がある。大塚の老人が語り伝えた「宮仲界隈むかし話」(「巣鴨のむかし 第3集」所収/(巣鴨の昔を語り合う会編)によると、空蝉とは蝉の抜け殻だという。

空蝉橋は山手線に架かる陸橋で、北大塚と南大塚をつないでいる(PIXTA)
空蝉橋は山手線に架かる陸橋で、北大塚と南大塚をつないでいる(PIXTA)

当時は見晴らしの良い原っぱで、富士山や筑波山まで見えるので、歌詠みや絵描きが来たそうで、その人たちが赤松の木に付いていた蝉の抜け殻を、洒落(しゃれ)て(空蝉と)呼んだのではないでしょうか

赤松は空蝉橋から200メートルの場所にある「出世稲荷神社」に立っていて、俗説では明治天皇が立ち寄り、蝉の抜け殻を見て「空蝉」と名づけたともいうが、天皇が行幸するような地とは、とても思えない。つまり、こちらの俗説の真偽のほどは分からない。

明治天皇は確かに「うつせみの 代々木の里はしづかにて 都のほかのここちこそすれ」という歌を詠んでいる。だが、代々木にあった旧井伊家の庭園を詠んだもので、この地は現在の明治神宮である。この和歌の「うつせみ」が、大塚の空蝉橋と混同されたのではないだろうか。

空蝉というはかない名は魅力的で、人の心をつかむ。隠れ名所のひとつとして挙げておきたい。

【大塚駅データ】

  • 開業 / 1903(明治36)年4月1日
  • 1日の平均乗車人員 / 4万8509人(30駅中24位 / 2022年度・JR東日本調べ)
  • 接続している路線と駅 / 東京さくらトラム(都電荒川線)大塚駅前

【参考文献】

  • 『駅名学入門』今尾恵介 / 中公新書ラクレ
  • 『日本鉄道池袋停車場設置経緯に関する考察』伊藤暢直 /『生活と文化:豊島区立郷土資料館研究紀要』
  • 『巣鴨のむかし 第3集』/ 巣鴨の昔を語り合う会編
  • 『東京の地名由来辞典』竹内誠編 / 東京堂出版
  • 『東京・江戸 地名の由来を歩く』谷川彰英 / KKベストセラーズ

バナー写真:1967(昭和42)年に撮影された大塚駅南口。左側に見える線路が山手線。その手前(左下)にあるのが大塚駅南口で、この駅舎は2009(平成21)年に解体されるまで山手線では貴重な木造駅舎だった。『甦った東京』 / 国立国会図書館所蔵

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