原宿(JY19): 「宿場」を示す古くからの地名が地図から消え、駅名にだけ残った
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伝統と海外カルチャーが混在する地
原宿駅の木造駅舎は東京を代表するレトロな西欧建造物として知られていたが、2020年3月に新駅舎にバトンを引き継いだ。歴史ある駅舎の引退を惜しむ声は少なくなかったが、耐火基準を満たしていなかったためやむを得なかった。26年に完成予定の新しい商業施設の一部に旧駅舎を再現する予定だという。
原宿駅は1906(明治39)年、現在より500メートルほど北で営業を開始した。最初は旅客輸送より貨物を主体としていたが、1924(大正13)年、明治神宮の造営に伴い現在地に移った。解体されたレトロな駅舎は実は2代目だった。
移転によって明治神宮への入り口となったことで、乗降客が1日4000人に急増した。初代駅舎の頃は650人で、しかも大半が代々木練兵場(代々木公園)に勤務する兵隊だったという。つまり一般には馴染みの薄い駅だったのである(『渋谷のおはなし』関根光男/東京女学館小学校)。
原宿駅の歴史は明治神宮と切っても切れない。明治天皇と昭憲皇太后(明治天皇の皇后)をご祭神とする同社は、広さ約22万坪。江戸時代は彦根藩(井伊家)の下屋敷だったが、明治政府が買い上げて御領地とし、1920(大正9)年に神宮が創建された。
10万本の木を植樹し、「鎮守の森」として保存する計画も進んだ。植樹したのちは人の手を加えず、自然のまま成長させるという理念のもと、東京最大規模の「聖域」「パワースポット」となった。国内の神社仏閣の中で屈指の初詣参拝客数を誇り、2009年には三が日で319万人を記録した。
一方、商業地「表参道」は明治神宮の参拝道だが、第二次大戦後の占領下、代々木公園に米軍兵舎と家族居住区の「ワシントンハイツ」ができた影響を強く受け、アメリカナイズドされた施設や店舗が立ち並ぶようになった。同潤会アパート(2003年に解体)はその代表格だった。
1970年代半ばから、竹下通りの商店街化が進んだ。1965年までこの地に残っていた旧町名「竹下町」に由来したストリートで、「竹の下」つまり低地を意味している。通りの入り口が下り坂になっているのが、その証拠である。1979年には派手で奇抜なファッションで踊る「竹の子族」が出現してそのパフォーマンスに注目が集まるなど、若者文化の発信地として存在感を示した。
原宿は信仰の対象である神宮と米軍の居住区が隣り合わせ、伝統と若者文化、聖と俗が融合する個性的で不思議な場所だったといえよう。その玄関口である原宿駅は、100年近くにわたって木造の駅舎を守り続けてきた。そのような異彩を放つ山手線の駅は、原宿をおいて他にない。
原宿に忍者が住んでいた?
原宿は「宿」の文字があることからも分かるように、本来は「宿駅」(宿場)だった。といっても五街道ではない。鎌倉幕府の拠点・相模国(神奈川県)と、武蔵国(東京・埼玉)を結ぶ古道・鎌倉街道の宿駅だった。
『新編武蔵風土記稿』は「鎌倉から奥州方面に至る鎌倉道が通り宿駅が置かれていたことから原宿と名づけた」と記している。「原」の字は一帯が萱(かや)やススキが生い茂る「原っぱ」だったことに由来するとされるが、明確にそれを記す文献は見当たらない。
鎌倉との関連でいうと、鎌倉幕府の創始者・源頼朝の高祖父・義家は、原宿にゆかりある人物である。奥州の内乱を鎮めよと京都の朝廷に命じられた義家が、関東の兵を集め、閲兵したのが竜岩寺の門前だったとの伝承がある。それが現在の龍巌寺で、原宿駅から東へ1.2キロの場所にある。
義家が奥州に出陣したのは1083(永保3)年の「後三年の役」だったから、おそらくそのときの出来事を指しているのだろう。
時代は移り、後北条氏が関東を支配した16世紀半ばになると、『小田原衆所領役帳』に「江戸原宿」の文字が載っており、戦国時代には地名として成立していたことが分かる(『渋谷区史』渋谷区編)。
続いて江戸前期に入ると、伊賀衆が集住していたらしい形跡がある。1582(天正10)年、本能寺の変の後、徳川家康が京都から脱出して本領の三河国を目指す「伊賀越え」を支援したのが、伊賀国(三重県西部)の武士団・伊賀衆だった。
家康は開幕後に伊賀衆を江戸に呼び寄せ、恩賞として原宿村の一部を与え、そこが「隠田(おんでん)村」になったという。「隠田」とは、隠れた地——一般に伊賀衆は「忍者」と認知されているので、後世になって秘匿性をほのめかす地名になったと考えられる。現在も原宿駅の北、徒歩約15分の地に穏田神社がある。
明治に入ってからの正式な地名は「豊多摩郡千駄ヶ谷村大字原宿」で、原宿駅が建った場所は「大字原宿字石田」。だが、昭和40年代初頭の住居表示変更によって、原宿は前記の隠田とともに「神宮前」となり、地図上から姿を消し、駅名だけが残ったのである。
表参道に善光寺があるって知ってた?
原宿駅には、最近まで山手線の他にホームがふたつあり、いずれも山手線の車窓から望むことができる名所だった。
ひとつは正月三が日、初詣客でホームが混雑するのを緩和する目的で備えた臨時ホームで、改札が明治神宮に直結していた。駅舎改築に伴い2020(令和2)年を最後に臨時ホームとしての役割を負え、山手線外回り電車のホームとなった。
もうひとつが皇室専用乗降場、通称「宮廷ホーム」である。山手線ホームから200メートルほど北東にあり、こちらは今も残っている。1925(大正14)年に完成し、昭和天皇は静養や公務で地方に列車で向かう際に、ここから乗車した。
宮廷ホームからの専用列車の運行には貨物線の線路を利用していたが、近年、山手貨物線は埼京線や湘南新宿ライン、成田エクスプレスなどの運行に使われ、ダイヤが過密化している。また、東北新幹線、上越新幹線などの開通で東京駅からの乗車が便利になったことから、2001(平成13)年を最後に宮廷ホームは利用されていない。改札に入る門も固く閉ざされている。
それでも廃止されないのは、国賓が地方に赴く際などに利用する可能性を宮内庁が示唆しているからだという(朝日新聞2010年8月31日)。
もうひとつ、知られざる仏閣を紹介しよう。表参道と青山通りの交差点裏手にある善光寺(港区北青山3丁目)は、長野の善光寺の別院である。創建は1601(慶長6/ただし当初は谷中にあった)年。表参道ヒルズから約280メートルの地に、400年以上の歴史を持つ古刹がある。
信州の本山から上人(住職)が江戸に来たときの宿泊所であり、上人はここから江戸城に出仕、将軍に拝謁したという。また、江戸城大奥の女性たちも帰依した由緒ある寺院でもあった(『山手線お江戸めぐり』安藤優一郎/潮出版社)。
ここには、幕末の蘭学者・高野長英(たかの・ちょうえい)の顕彰碑もある。シーボルトの門下生だった長英は時の幕府の海防政策を批判し、永牢(えいろう/終身禁固)に処された。いわゆる「蛮社の獄」(1839/天保10年)である。
長英はその後、脱獄し各地を転々とし、青山善光寺の近くに隠棲したが、1850(嘉永3)年、奉行所の役人に見つかり自害した。明治時代に入ってから長英の功績を讃える動きが起き、名誉は回復され、善光寺に碑が立てられた。碑に記された撰文を寄せたのは、勝海舟である。
最先端の流行を発信する原宿は、意外にも歴史に満ちた街である。
【原宿駅データ】
- 開業/ 1906(明治39)年10月30日
- 1日の平均乗車人員 / 5万 7724人(30駅中21位/2022年度・JR東日本調べ)
- 接続している路線 / 東京メトロ千代田線・副都心線の明治神宮前駅に接続
【参考文献】
- 『渋谷のおはなし』関根光男/東京女学館小学校
- 『渋谷区史』/渋谷区編
- 『駅名で読む江戸・東京』大石学/PHP新書
- 『山手線お江戸めぐり』安藤優一郎/潮出版社
- 『まるまる山手線めぐり』DJ鉄ぶら編集部編/交通新聞社
バナー写真:現在の場所に移動した直後の原宿駅 (写真提供 : 鉄道博物館)