恵比寿(JY21): 「ビール」の商品名に由来する全国でも珍しい駅名
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ビールを出荷する貨物専用駅としてスタート
恵比寿駅の駅名は、サッポロビールの商品「ヱビスビール」に由来する。
現在の恵比寿ガーデンプレイスの場所には、かつてサッポロビールの前身である日本麦酒醸造の工場があり、1890(明治23)年に発売されたビールが「惠比壽麦酒」だった。
もともと恵比寿という地名があったわけではない。商売繁盛の神である恵比寿様にあやかってビールの商品名とし、それがやがて駅名につながったという珍しいケースなのである。
また、恵比寿様を祀(まつ)る神社があったわけでもない。ガーデンプレイスのサッポロビール本社脇に恵比寿神社があるが、この社(やしろ)はビールが発売されたのちの1893(明治26)年、日本麦酒醸造が恵比寿総本宮の西宮神社から勧請して創建したものだ。
駅の西にも恵比寿神社がある。こちらも1959(昭和34)年、区画整理に伴って現在の地に移転する際、恵比寿を合祀して社名を改名したもので、そもそもの名称は天津(あまつ)神社といった。2つの神社の由緒も、もとをたどればヱビスビールだった。
駅の開業は1901(明治34)年2月25日。当初は民営の日本鉄道が運営するビール出荷のための貨物専用駅だった。貨物駅は豊多摩郡渋谷村大字下渋谷字にあり、この時点では恵比寿の地名はどこにもない。
1906(明治39)年に駅が300メートルほど移転し、同年、日本鉄道が国有化されたのを機に旅客輸送を開始。山手線の駅に編入されたのは、その3年後の1909(明治42)年だった。
1928(昭和3)年になると、地名に恵比寿が正式に採用され、「恵比寿通」という名称の通りが登場する。その後、恵比寿○丁目などの番地が周辺に広がっていくことになる。
豊田(愛知県)や日立(茨城県)など、企業名が地名となった例はあるが、商品名が駅名となり、さらに地名にまで発展するのは、とても珍しい。最近ではヘアケア商品の製造・販売を手掛ける会社が、銚子電鉄(千葉県)の駅のネーミングライツを取得し、「髪毛黒生(かみのけくろはえ)駅」という奇抜な駅名が誕生したが、ヱビスビールのようなブランドとしての浸透力はない。
大名の下屋敷がわずかに2軒あっただけの寒村
では、そもそも恵比寿はどういう地だったのか。歴史を振り返ってみたい。
駅が建った地が豊多摩郡渋谷村大字下渋谷だったのは前述の通りだが、ここにある「下渋谷」は、寛文年間(1661〜1673)に成立した地名だ。
江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』は、「地域犬牙(けんが)して四隣及び広域の町数は弁別しがたし」――つまり、村の境が犬の牙のように互いに入り組んでいて、下渋谷村の範囲がどこなのか、はっきりと識別できないと記している。
このことから、渋谷村から独立した一村ではあったものの、広さなどは曖昧な地区だったろうと、歴史家の大石学は分析している。(『駅名で読む江戸・東京』PHP新書)
続いて元禄年間(1688〜1704)に入ると、幕府領・旗本領・寺社領の相給村落(あいきゅうそんらく / 一つの村落に複数の領主が割り当てられている)となり、石高は116石だったという(同書)。
これといって特徴のない農村だったせいか、武家屋敷は少なかったが、1704(宝永元)年には、赤穂藩森家の下屋敷が現在の恵比寿1丁目にあった。
この赤穂藩は、浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかった松の廊下事件(元禄14/1701年)によって改易されたのち、紆余曲折を経て森家が治めた藩だった。森家は本能寺の変で織田信長とともに討ち死にした森蘭丸の子孫である。
もう一つが、宇和島藩伊達家の下屋敷。現在の恵比寿3丁目にあった。この一帯の旧町名が「伊達町」であったことが、そのことを今に伝える。また恵比寿駅の東約700メートルには、伊達坂という坂道が今もある。
旗本領だったことから旗本屋敷も2軒あったといわれるものの、江戸城のお堀沿いの丸の内や紀尾井町など、大名屋敷が連なったエリアに比べ、明らかに閑散とした田園地帯だった。
恵比寿は郊外の寂れた農村のまま明治維新を迎え、近世になってから発展したエリアなのである。その成長に、サッポロビール本社と工場が果たした役割は、決して小さくなかった。
名所もビールと名水に関連している
名所もビールにまつわる。そもそも、なぜ恵比寿にビール工場を建てたのか――三田分水が流れており、その水がビールの醸造に適していたからだった。
三田分水は羽村を起点とした玉川上水が、下北沢村(世田谷区北沢)で分水し、恵比寿を経て三田方面に流れる用水路だった。農地の宅地化が進むに連れて次第に暗渠となったため、現在では遺構も少ないが、恵比寿駅から東へ3.5キロの目黒区三田1丁目に「三田用水跡」のモニュメントがある。
モニュメントには、こう解説が記されている。「農耕・製粉・精米の水車などに用いられた用水も、明治以降は工業用水やビール工場の用水など、用途を変更し利用されてきたが、やがてそれも不用となり、1975年にその流れを完全に止め、約300年にわたる歴史の幕を閉じた」
なお、ビール工場は千葉県船橋市に移る1988(昭和63)年まで、恵比寿で操業を続けた。
今年4月にオープンした「YEBISU BREWERY TOKYO」では36年ぶりに整備した醸造施設で、厳選したビール酵母を使った造りたてのビールを試飲できる。ヱビスビールの130年以上にわたる歴史の資料写真やかつての恵比寿の風景写真の展示コーナーもあり、大人の社会科見学を楽しめるミュージアムといえる。
一方、近世より前の歴史を知りたいなら、祥雲寺(しょううんじ)がおすすめ。臨済宗大徳寺派の寺院である。
福岡藩黒田家が創建した寺で、最初は赤坂溜池の黒田藩中屋敷の敷地にあったという。それが何回か移転したのち、1668(寛文8)年、現在の地に落ち着いた。黒田藩をはじめ、久留米藩有馬家、狭山藩北条家、柳本藩織田家などの墓がある。
黒田家は豊臣秀吉に仕えた軍師・官兵衛と息子・長政が知られ、有馬家は摂津出身の戦国武将・豊氏が久留米藩を興した。ともに外様の有力大名である。
北条家は武田信玄や上杉謙信、徳川家康と争った相模の後北条氏の末裔で、江戸時代に狭山藩を立藩し、明治維新まで存続した。織田家は信長の弟・有楽斎の流れを汲み、こちらも明治維新後の版籍奉還により知藩事となった家柄だ。北条も織田も名門である。
なぜ、これほどの大名たちの墓所が祥雲寺に揃っているかというと、寺社奉行と寺院との間を仲介する「触頭(ふれがしら)」の役目を担い、「独礼(どくれい)」つまり単独で将軍に拝謁できる寺院だからだった。有力大名が墓所を置くのにふさわしい「格」を備えていたのである。
明治より前の時代を伝える歴史遺産が少ない恵比寿にあって、貴重な寺といえるだろう。
【恵比寿駅データ】
- 開業 / 1901(明治34)年2月25日(ただし貨物の駅として。旅客輸送の開始は1906 / 明治39年10月30日)
- 1日の平均乗車人員 / 11万2602人(30駅中第13位/2022年度・JR東日本調べ)
- 乗り入れ路線 / 東京メトロ日比谷線、またJR埼京線・湘南新宿ラインの停車駅
【参考文献】
- 『駅名で読む江戸・東京』大石学 / PHP新書
- 『東京の歴史地図帳』谷川彰英 / 宝島社
- 『駅名学入門』今尾恵介 / 中公新書ラクレ
バナー写真:1938(昭和13)年の恵比寿駅東口。提供:渋谷区