品川(JY25): 実は新橋よりも先に仮開業した鉄道発祥の駅
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品川駅は山手線の起点
品川駅は横浜駅(現在のJR桜木町駅)とともに日本最古の駅だ。開業は品川―横浜間で旅客輸送がスタートした1872(明治5)年6月12日である。
『鉄道唱歌』の歌詞に「汽笛一声新橋を〜」とあるため、日本最初の駅は「新橋」と思っている方も多いだろうが、新橋駅の開業は同年10月14日で、実は品川駅より4カ月遅かった。
当初、新橋―横浜間で開通する予定だった路線のうち、新橋―品川間の工事が遅れたため、品川駅が「仮開業」として先行営業を開始したためだった。
初代の品川駅は、現在の駅から300メートルほど南、八ツ山下(やつやました)と呼ばれる場所にあった。『東京八ツ山下海岸蒸気車鉄道之図』を見ると、列車が海の上に敷かれた線路を走っている。1869(明治2)年、近代国家を目指した明治政府は急ピッチで海岸の埋め立てを進め、その上に線路と品川駅を建てたのである。品川駅は海沿いにあった。
その後、1896(明治29)年に現在の地に移転。移転後の駅の様子が、バナー写真(鉄道博物館所蔵)である。路線はすでに複線化されているが、相変わらず海沿いだ。現在の品川駅前からは想像もつかない景観である。
品川区のウェブサイトによると、大正時代に入って「八ッ山下海面などの埋立申請が続々と出され、昭和初期には大埋立地が出現した」(明治維新後の品川)という。
また、開業からしばらくは新橋―横浜間の停車駅だったため、山手線の駅ではなかった。山手線に組み入れられるのは1885(明治18)年3月、品川―赤羽間が開通したことによる。これで品川と東京の東部が1本につながり、さらに目黒駅や渋谷駅などを開設し、環状線を形作っていくのである。
なお、鉄道ファンの間では知られた話だが、品川駅は山手線の「起点」である。日本の鉄道を網羅した『鉄道要覧』(国土交通省監修)にも「品川駅が起点」で、渋谷・新宿・池袋駅を経由して「田端駅が終点」と載っている。実際、品川駅コンコースには山手線の起点を記す「0キロポスト」が設置されている。
このことから、一般に山手線と呼ばれる区間は、厳密には品川―田端間の20.6キロメートルであり、その他の田端―東京間は東北本線、東京―品川間は東海道本線の一部とされている。
品川駅が港区にあって品川区にない謎
もう一つ、有名な話が、品川駅があるのは「港区高輪3丁目」で、「品川区」ではないこと。そして、それはなぜ?ということ。
品川の駅名は、東海道の宿場町だった「品川宿」に由来する。日本橋から2里(約8キロメートル)にある交通の要衝地だった。
ところが品川「駅」は「宿」からはずいぶん離れた場所に建てられた。その距離、約1キロメール。旅行・鉄道関連の著作が多い内田宗治は、品川宿には宿泊施設や人家・商店も多く、線路と駅を建設するには立ち退き問題などが発生し、時間を要したためだろうと推測する。
1878年(明治11)年、東京が15の区に分割されると、品川駅は「芝区」の南端に組み入れられた。それに対して品川宿のあった場所は、東京の外の荏原郡に属することになった。駅と宿は、東京の内外に分かれてしまった。
その後、1932(昭和7)年に市域を拡張して20区を増設し35区となったものの、太平洋戦争で多くの犠牲者が出て人口が減少したため、各区の人口をできるだけ均等にしようと23区に再編された(1947/昭和22年8月)。このとき、すぐ南隣りに「品川区」があったにも関わらず、品川駅は港区に編入された。
このような一連の流れを経て、駅名は品川でありながら港区に立地するややこしい事態になったのである。
遅くとも13世紀には品川湊があった
一方、そもそも「品川」の語源は何なのか? 諸説あるが、おおむね次の2つである。
- 「品よき地形」であったため、隣り村の「高輪」に対して「品が輪」となった(新編武蔵風土記)
- 目黒川の古名が「下無川」だったので転じて品川(南向茶話)
(『続 駅名で読む江戸・東京』大石学、『東京の地名由来辞典』竹内誠編、『東京23区の地名由来』金子勤などを参照)
参考文献の多くは「下無川」説を有力視している。つまり、現段階では「川」という地形に由来した地名だった可能性が高い。
また、品川の地名の初出は『田代文書』(1184 / 元暦元年)にあり、この地を治めた豪族・品川氏の名も、1223(貞応2)年の『関東下知状』で確認できる(『東京の地名由来辞典』)
一般に品川は徳川家康が江戸に入って以降に発達したと考えられてきたが、歴史家の大石学はすでに12〜13世紀に品川湊(みなと)が存在し、戦国時代には後北条氏のもと、海上交通の拠点として成長をとげたと指摘している。
都市史研究家の鈴木理生も、東京には浅草湊・江戸湊・品川湊の3つの湊が13世紀からあり、『円覚寺文書』などは船30艘が寄港し、廻船問屋もあったことを記している点に触れている(『江戸・東京の地理と地名』)。
むしろ家康は、自分が入府する以前の江戸に品川という豊かな交易地があることを知っていて、それを最大限活用して町づくりを行ったとも考えられる。つまり品川がなければ、江戸の成長もなかった―そう考えて良いほど重要な地であり、だからこそ、その後、日本有数の宿場町として発展したといえるのではないだろうか。
幕末の志士に関連した史跡
そうした重要な地だけに、歴史上の重大な事件・人物とも深く関わっている。歴史家の安藤優一郎は、特に幕末に顕著な例が多いと述べている。
1862(文久2)年12月12日、品川駅の南にあった遊郭「土蔵相模(どぞうさがみ)」に長州藩の志士たちが集合した。高杉晋作と伊藤俊輔(のちに博文)の姿もあった。目的は、ここからほど近い地に建設中だった英国公使館を焼き討ちすることだった。
遊郭ゆえ人が多く、秘密裏に行動を起こす集合場所にはうってつけだったのだろうか。焼き討ちは成功し、集合場所には現在も「土蔵相模跡」の石碑が立っている。
品川駅から第一京浜沿いを川崎方面に歩くと、品川神社がある。その神社境内の奥に、板垣退助の墓所がある。土佐藩出身の志士で、明治に入ると自由民権運動を率いた人物だ。墓所の隣りには、刺客に襲われた際に口にしたといわれる名言「板垣死すとも自由は死せず」の石碑もある。
さらにもう一つ、品川宿場町の本陣跡にひっそりと佇む公園は、明治天皇に縁(ゆかり)ある場所で、名称を「聖蹟公園」という。
本陣は宿場町でも最も格式の高い宿泊施設である。1868(明治元)年、ここで休憩をとるために立ち寄ったのが、明治維新に伴う遷都により京都から東京に移る途上にあった明治天皇だった。公園の名称「聖蹟」とは、天皇が行幸の途中に立ち寄った「聖なる蹟(あと)」という意味である。
幕末・維新のファンにはたまらない歴史を刻んだ名所が、品川には多い。
【品川駅データ】
- 開業/ 1872(明治5)年6月12日
- 1日の平均乗車人員 / 24万8650人(30駅中第5位 / 2022年度・JR東日本調べ)
- 乗り入れている路線 / 京急本線、またJRでは山手線の他に東海道本線・京浜東北線・横須賀線・東海道新幹線の停車駅
【参考文献】
- 『明治維新後の品川 』 / 品川区
- 『地形を感じる駅名の秘密 東京周辺』内田宗治 / 実業之日本社
- 『東京の地名由来辞典』竹内誠編 / 東京堂出版
- 『続 駅名で読む江戸・東京』大石学 / PFH新書
- 『東京23区の地名由来』金子勤 / 幻冬舎
- 『江戸・東京の地理と地名』鈴木理生 / 日本実業出版社
- 『山手線お江戸めぐり』安藤優一郎 / 潮出版社
バナー写真:明治後期の品川駅。すぐ隣は海だった。この写真は1896(明治29)年、現在の地に移転したのちのもので、複数の線路が見える(鉄道博物館所蔵)