高田馬場(JY15): 駅名の由来となった弓馬の練習場は江戸名所の一つだった
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本当は「たかたのばば」?
山手線高田馬場駅は1910(明治43)年に誕生した。駅名は、江戸時代に武士が乗馬や弓を訓練した「馬場」が「高田」という場所にあり、「高田馬場」と呼ばれたことに由来する。
馬場は、駅から距離にして約1キロメートル、徒歩15分の場所にあった。現在の住所では西早稲田3丁目。早稲田大学教育学部にほど近い。つまり、駅名として採用するにはやや距離がある。
駅近くの地名は豊多摩郡戸塚村であり、本来は「戸塚」を駅名にするはずだった。しかし、1887(明治20)年、東海道本線の駅名として「戸塚」は採用済みだった。東海道の戸塚宿があった場所で、箱根駅伝の中継地点としてもおなじみである。
そこで「上戸塚」や、諏訪神社があった諏訪村にあやかった「諏訪」などが、駅名候補に挙がったというが、地図研究家の今尾恵介によると、鉄道省が江戸時代からの名所である高田馬場なら人口に膾炙(かいしゃ)する(=広く世間に知られる)と判断したという。
駅名は「たかだのばば」だが、もともとは「たかた」で、「だ」と濁らなかったという。歌川広重画『名所江戸百景 高田馬場』にも、「通称たかたのばば」とある(国立国会図書館に資料より)。
なぜ「だ」と濁ったのか──史跡・高田馬場があった下戸塚村の住民が、1キロも離れた場所の駅名に使うなと反発したためだと、地名研究家の谷川彰英はいう。それなら「たかだ」にすれば馬場と関係ないだろうと、鉄道省がごり押しした──役所の屁理屈は今も昔も変わらない。
一方、「高田」の由来には諸説ある。『東京の地名由来辞典』(東京堂出版)は、『新編武蔵風土記稿』の以下の記載を引用している。
- 徳川家康の側室で六男の松平忠輝を産んだ茶阿局が通称・高田の君と呼ばれ、彼女がこの辺りを遊覧したことによる
- 一帯が高田村と呼ばれていた
- ただし詳細は不明
この他、『江戸名所図会』には馬場についてこんな説も。
- 源頼朝が馬揃え(武士の軍事パレード)を行った地
- 武田信玄が北条氏と戦う際に馬を試した跡
明確な答えはない。ただし北条氏との関係でいうと、16世紀半ばに北条を率いた氏康が、一族・家臣の氏名・地位・俸禄(給料)の分限帳『小田原衆所領役帳』を作成しており、その中に江戸の「高田」を所領としていた家臣が認められる。
茶阿局が高田の君と呼ばれるのは、氏康が没してから30~40年後のことだ。そうなると、茶阿局以前に「高田」の地名はあったことになる。
将軍が流鏑馬神事を奉納
武士が鍛錬を積んだ高田馬場とは、どんな場所だったのか。
高田馬場は1636(寛永13年)、徳川3代将軍・家光が、旗本に弓馬の訓練をさせるため、かつ流鏑馬(やぶさめ)の競技場として造営したという。1849(嘉永2)年〜1862(文久2)年作成の『江戸切絵図 大久保絵図』にも記されている。
馬を走らせるため敷地は長く、短冊の形をしていた。距離は六町(約655メートル)、幅は三十間(約55メートル)。享保期(1716〜1736)には、北側に風除けの松並木を植樹するなど、本格的な施設だった。
将軍肝いりの馬場だったことから、家光以降の歴代将軍が流鏑馬神事を奉納したとも、神事となったのは8代・吉宗が子どもの病気平癒のために始めてからで、以来、将軍家に男児が誕生した際の慣習となったなど、これも諸説ある。
いずれにせよ、武士たちの勇ましい姿を見ることができる江戸の名所のひとつだったのは疑いない。『元文三年高田馬場流鏑馬之圖』には、多くの人が見物する様子も描かれている。また、馬場の脇に茶屋も営業しており、人が頻繁に訪れる行楽地でもあったようだ。
江戸は7割が武家地、すなわち武士の居住区だった。天下泰平の時代とはいえ武士の鍛錬は奨励されており、確認できるだけでも19カ所に馬場があった。三番町(千代田区九段北)、平河町(千代田区平河町)、馬喰町(中央区日本橋馬喰町)、十番(港区東麻布)、小日向(新宿区西五軒町)、小石川(文京区白山)などの馬場が代表的だ。
なかでも高田馬場は最も知られた施設であり、だからこそ明治に入ってからも駅名として存続し、1975(昭和50)年には駅名に引っ張られる形で駅周辺の町名も高田馬場1~4丁目に変更されたのである。
武士の護り神・穴八幡宮
名所としてまず挙げられるのも、流鏑馬とゆかり深い神社・穴八幡宮である。馬場があった地の南に今もある。
正式名称は「牛込高田鎮座 穴八幡宮」。社伝は康平年間(1058〜1065)、源頼朝の高祖父である源義家が創建したと伝える。1641(寛永18)年には、弓矢の守護神として京都の岩清水八幡宮を勧請した。
由緒ある武士の聖地といえよう。将軍家が保護し、流鏑馬を奉納したのも納得できる。
また、8代・吉宗が世継ぎの病気平癒を祈願したとの話が残ることから、庶民にも蟲(むし)封じの神社として親しまれた。蟲とは、幼児が消化不良を起こしたり、体内に寄生虫が入り込んだりしたことによって機嫌が悪くなる症状で、現在も疳(かん)の虫といわれる。これを、祈祷によって封じるとされたのが穴八幡宮だった。
熟年世代には、「高田馬場の決闘」をご存知の方もいるだろう。元禄時代(1688〜1704)の江戸に、中山武庸(なかやま・たけつね)という男がいた。父は越後国新発田藩士だったが、藩を追われ浪人となった。父の没後、武庸は江戸に来て剣術道場に入門。剣の腕は天性のもので、たちまち頭角を現した。
平穏な生活を送っていたところ、同門の菅野六郎左衛門が、ひょんなことから果し合いをすることになってしまった、武庸は六郎左衛門と親しく、六郎左衛門が叔父、武庸が甥の立場で義理を結んでいたため、加勢に駆けつけ、敵方を次々と斬った。
この武勇を聞いた赤穂藩の江戸詰め藩士・堀部弥兵衛が、主君の浅野内匠頭長矩(あさの・たくみのかみ・ながのり)に推薦し、娘の婿(むこ)とした。名を堀部安兵衛(ほりべ・やすべえ)に変えた武庸は、正式に赤穂藩士となった。
この堀部安兵衛が8年後の元禄15年12月14日、四十七士のひとりとして吉良上野介の屋敷に討ち入るのである。
高田馬場の決闘の碑が、早稲田大学の西にある水稲荷神社に残り、江戸時代の剣豪の生涯を讃えている。碑が建てられたのは1910(明治43)年。奇しくも高田馬場駅の開業と同じ年である。
【高田馬場駅データ】
- 開業 / 1910(明治43)年9月15日
- 1日の平均乗車人員 / 16万7265人(30駅中第8位 / 2022年度・JR東日本調べ)
- 乗り入れ路線 / 西武新宿線・東京メトロ東西線
【参考文献】
- 『東京の地名由来辞典』竹内誠編 / 東京堂出版
- 『東京・江戸 地名の由来を歩く』谷川彰英 / KKベストセラーズ
- 『東京の地理と地名がわかる辞典』浅井建爾 / 日本実業出版社
- 『東京の歴史地図帳』谷川彰英監修 / 宝島社
バナー写真:1960(昭和35)年頃の高田馬場駅前。新宿歴史博物館所蔵