目黒(JY22)と目白(JY14):江戸を護るお不動さんにちなむ不思議なつながり
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実は「目赤」「目青」「目黄」もある
目黒駅と目白駅の開業は、ともに1885(明治18)年3月16日。同年3月1日には渋谷駅と新宿駅が開業しており、渋谷の南に目黒、新宿の北に目白を置くのは、路線を延長するうえで不可欠だったと考えられる。それゆえ、山手線の駅としては早い時期に誕生した。
山手線の駅で「色」の名称がつくのは目黒と目白だけ。両駅にはもう一つ共通項がある。目黒の瀧泉寺、目白の金乗院はともに不動明王を本尊とし、それぞれ目黒不動尊、目白不動尊として親しまれている。明治時代は寺院への参拝がレジャーのひとつだったため、駅開業は行楽地として発展するのに貢献したという。ちなみに、目白駅開業当時は、新長谷(しんちょうこく)寺に目白不動がまつられていたが、第二次大戦で焼失し、現在の金乗院に本尊が移された。
実は東京には「黒」「白」に加え、「赤」「青」「黄」の5つの不動尊があり、これを「江戸五色(ごしき)不動」という。東京23区の周縁部に点在しており、結界を構成しているかに見える。
五色不動は、自然界のあらゆるものは木・火・土・金・水の5つが循環しながら成立すると説く、中国の陰陽五行思想にちなみ、白・黒・赤・青・黄の不動尊に置き換えたものだ。目黒は水、目白は金、目赤は火、目青は木、目黄は土に相当し、天下太平を祈願するため安置されていた。
江戸の安寧を願うこのプランは徳川家康のブレーンだった天海大僧正の発案といわれるが、最初は天海が黒・白・赤・青の4つの寺を四神相応(しじんそうおう / 大地を守る四方の方角)として選び、のちに3代将軍・家光が黄を加えたなど、諸説ある。
五色不動の呼称が定着したのは明治時代に入ってからとの見解もあり、成り立ちははっきりしない。黄だけが複数あるのも謎で、地名研究家の谷川彰英は、何度か移転があったため、その名残である可能性を示唆している。
ともあれ山手線の目黒・目白両駅の「駅名」は不動尊に由来し、ふたつの寺は現在も都民に愛されている。
「目」の語源はそもそも「馬」だった?
「駅名」は明治に付けられたものだが、そもそも目黒・目白の「地名」は何に由来するのだろう。例えば、一般に目黒の「地名」も目黒不動尊に由来するとの俗説が流布しているが、さまざまな文献をひも解く限り、どうも怪しい。『東京の地名由来辞典』(東京堂出版)をもとに見ていきたい。
文化・文政期(1804〜1830年)成立の地誌『新編武蔵風土記稿』は、目黒の「村名の起こりは詳(つまびら)かならず」=「はっきりしない」と記したうえで、以下の諸説を挙げた。
〈目黒不動尊の称号を村名に使用〉
〈同地にいた馬の目の色、毛の色が黒かった〉
〈かつては「免畔」(めぐろ)だった〉
不動尊に由来するのは一説に過ぎないとの見解を、江戸後期にすでに強調している。
ここで使われている「免畔」の「畔」は「あぜ」のこと。つまり田んぼのあぜ道と考えられ、実際にほかの文献にも「馬畔」と書いて「めぐろ」と読む例がある。
「馬」と「畔」は、農耕馬を使って田を耕す田園地帯を思い起こさせる。そもそも龍泉寺に残る『目黒不動縁起』でも、もとは「妻驪」(めぐろ)だったとしている。「妻」の語源は不明だが、「驪」は黒い馬のことだ。
目白も諸説ある。
〈この地で白い馬が誕生し「馬白( めじろ)」と呼んだ / 随筆『南向茶話』〉
〈家光が鷹狩りの際に「目黒」に対して「目白」と呼ぶよう命じた / 『江戸図説』〉
〈目白不動尊に由来 / 『江戸名所記』〉
…やはり、ここにも馬がいる。
どうも地名は、「馬」に関連している可能性がある。
馬との関連性が、より強いと考えられるのは目黒だ。昔、関東には馬の牧場が多くあり、目黒周辺にも駒場、駒沢、上馬、下馬などの馬に関係する地名が多く残っている。「馬」が「目」に転訛して「目黒不動尊」の名が誕生し、少し北にある寺院・新長谷寺を四神相応のひとつにしたことで、「黒」が「白」に変わり、「目白不動尊」となった─こう考えるのが自然に思える。
なお、出典は確認できなかったが、目白には鳥の「メジロ」を語源とする説もある。群棲の鳥で、並んで木にとまる姿をメジロ押しという。それを不動尊の参拝客が押し合いへし合いしている様子と重ねて、地名が「目白」となったというのだが、珍説とみていいだろう。
将軍の鷹狩場だった目白のおとめ山
目黒・目白駅周辺の名所の話題に進めよう。
瀧泉寺(目黒不動尊)の境内に、偉人の墓所がある。「甘藷(かんしょ)先生」と呼ばれ、江戸時代にサツマイモの普及に貢献した青木昆陽(あおき・こんよう)の墓だ。飢饉の際の救荒食(きゅうきょうしょく)として江戸・上総・下総でサツマイモを試作した人物として知られている。
目黒に屋敷を持っていたことにちなみ死後、瀧泉寺に葬られた。10月12日の命日を偲び、同月28日には甘藷まつりが開かれる。
目黒駅から西に400メートルほど伸びる坂が、権之助坂。江戸時代の名主(村の長)・菅沼権之助(すがぬま・ごんのすけ)の名を冠した坂だ。坂を下り切ったところに橋があり、そのたもとに権之助の碑がある。
碑はこう刻んでいる。
「行人坂を通る下り道が急で、荷を運ぶ人々が苦労したため、(権之助によって)この坂道(権之助坂)がつくられた」
義人とも言える人物だが、実は、坂道は江戸に敵が侵攻してきた際の妨げとなるように造った防衛上必要な道路だったのだ。元禄(1688~1704年)の頃、幕府に無断で、傾斜の緩やかな道を造成してしまうのは大罪だった。権之助は処刑されたという。
だが、1924(大正13)年刊『目黒町誌』は異なる話を掲載している。権之助が処刑されたのは悪行によるもので、死罪の直前にひと目、自分の家を見たいと懇願したという。家があった場所が権之助坂だった。ちなみにどういった悪行を働いたかは記していないが、坂の造成が罪に問われたのだろうか…。
庶民から見れば義人、幕府から見たら悪人。谷川彰英は「人間は見方によって善人にも悪人にもなる。(中略)現在の感覚からすれば、偉人だったのではないか」と述べている。
一方の目白の名所は、面影橋があげられよう。現在、目白不動尊が鎮座する金乗院にほど近い、神田川に架かった橋だ。別名「姿見の橋」。歌人の在原業平が橋を渡った際、自分の姿が川面に映ったからという伝承による。
ただし、歌川広重画『名所江戸百景 高田姿見のはし俤(おもかげ)の橋砂利場』は、「姿見のはし」「俤の橋」を別々に描いており、二つの橋を混同した俗説という指摘もある(そもそも業平がここに来た証拠もない)。
目白駅から高田馬場駅へと伸びる山手線の線路沿いには、おとめ山公園がある。歴史学者の安藤優一郎によると、「おとめ山」というロマンチックな名称は、実は「御禁止山」または「御留山」だった。つまり、立ち入りが禁止されていた。理由は徳川将軍の鷹狩場だったからだ。
狩りをするには、獲物となる鳥獣が棲息する環境を保持しなければならず、そのため人の立ち入りを禁じていたわけだ。
農民にとっては難儀な問題だった。鳥獣には猪など害獣もいた。狩場の中にいてくれれば良いが、外に出れば田畑を荒らした。しかし、将軍の獲物である以上、農民は駆除できなかった。
猪がいた狩場が、現在は都民の憩いの場となっている。都心を走る山手線の沿線には、そんな地もある。
【目黒駅データ】
- 開業 / 1885(明治18)年3月16日
- 1日の平均乗車人員 / 8万3770人(30駅中第18位 / 2022年度・JR東日本調べ)
- 乗り入れ路線 / 東急目黒線・東京メトロ南北線・都営地下鉄三田線
【目白駅データ】
- 開業 / 1885(明治18)年3月16日
- 1日の平均乗車人員 / 3万840人(30駅中第28位 / 2022年度・JR東日本調べ)
- 乗り入れ路線 / なし
【参考文献】
- 『東京の地名由来辞典』竹内誠編 / 東京堂出版
- 『東京23区の地名由来』金子勤 / 幻冬舎
- 『東京・江戸 地名の由来を歩く』谷川彰英 / KKベストセラーズ
- 『地形を感じる! 駅名の秘密 東京周辺』内田宗治 / 実業之日本社
- 『山手線お江戸めぐり』安藤優一郎 / 潮出版社
バナー写真 : 1924(大正14)年に改修した後の目黒駅ホーム(鉄道博物館所蔵)