〈ルポ〉遠藤周作『沈黙』の舞台、そして潜伏キリシタンの足跡を訪ねて
《第1回》“旅”の始まりは長崎「外海」―夕日の名所にたたずむ文学館
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潜伏キリシタンの聖地
長崎駅前のバス停から「桜の里ターミナル」行きに乗り、終点で「大瀬戸・板の浦」行きに乗り換える。路線バスに1時間20分ほど揺られて「道の駅(文学館入口)」で下車すると、眼下にきらめく海が広がった。
遠藤周作文学館は角力灘(すもうなだ)を見下ろす岬の突端に立っていた。
「外海」と書いて「そとめ」と読む。長崎市北西部の海岸部を言い表すこの一帯は、2005年まで外海町という自治体だった。出津(しつ)、大野の両集落は世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産。そして隣の黒崎集落は、遠藤周作の小説『沈黙』の主舞台である。
遠藤周作生誕100周年、さらに世界遺産登録5周年という節目の年に、潜伏キリシタンの足跡をたどる旅を思いつき、その出発点に選んだのが遠藤周作文学館。まずは同館の展示資料で遠藤と『沈黙』について基本を押さえておきたかったのだ。
病院のベッドの上で温めた想い
遠藤周作は1923年3月27日、東京市巣鴨(現・東京都豊島区)で生まれた。幼年期を旧満州・大連で過ごし、神戸に帰国後、11歳で兄と共にカトリックの洗礼を受ける。洗礼名はポール(パウロ)。
慶應義塾大学でフランス文学を学び、終戦後最初の留学生としてフランス・リヨン大学大学院に留学。帰国後、エッセイ集『フランスの大学生』で作家デビューを飾ると、55年、『白い人』で芥川賞を受賞する。
早々と文壇での地位を確立し、大学の後輩にあたる順子さんと結婚。公私とも順風満帆に見えた。ところが──留学時代に患った結核が再発し、38歳の時に肺を3度手術する大病に伏し、2年間の入院生活を送る。
病院のベッドに毎日を暮らしていると、いろいろなことを考える。私は少年のときにキリスト教の洗礼を受けさせられていたので、当然のことながら、西洋の宗教を信じるようになった日本人たち、また彼らを祖先に持った人びとについても考えた。そのことを戦国時代の切支丹たちのなかに探ってみたいとおもい、療養中、切支丹関係の本を手に入れては勉強をつづけていた。しかしそれを小説にしようという気持は、そのときの私にはまだ沸いていなかった。病気が回復した私は、まず、「明るいところへ行ってみたい」と思った。そして長崎に出かけたのだが、そのときは気軽な観光旅行のつもりであった。(遠藤周作『沈黙の声』)
1枚の踏絵との出会い
初夏の夕暮れ、大浦天主堂を訪れた遠藤は、観光客でにぎわう天主堂前を迂回して、脇道の坂を上っていった。
やがて「十六番館」と書かれた建物の前に出た。そこは資料館のようだった。時間つぶしのつもりでその木造西洋館に入ったのだが、そこで運命的な出会いが待っていた。
それは1枚の銅板の踏絵だった。
「ピエタ」と呼ばれる、十字架から降ろされたキリストを抱えた「嘆きの聖母」を銅版にして、木の枠の中にはめこんだもの。銅版を囲む木枠の部分には、それを踏んだ人間の足指の痕(あと)が残っていた。
長崎で見た時には何でもなかった踏絵が気になり出したのは帰京してからだった。
道を歩いているときや仕事をしているとき、ふと、木枠に残った黒い足の痕が胸に浮かんできた。それは一人の人間がつけたものではなく、たくさんの人間によってつけられた黒い痕にちがいなかった。あの黒い足指の痕を残した人びとはどういう人だったのか──と誰もが考えるように、私も考えた。自分の信ずるものを自分の足で踏んだとき、いったい彼らはどういう心情だったのだろう。私は戦争中に育った人間である。当然、自分の信念や思想を棄てて戦争のなかに死んでいかなければならなかった人間を数多く見ていた。つまり、人間が肉体的な暴力によって自分の信念や思想をたやすく曲げていったケースを私は目のあたりにしていたのである。だから踏絵に足をかけていった人びとの話は、私にとってけっして遠い話ではなかった。むしろ切実な問題だった 。(遠藤周作『沈黙の声』)
殉教者(強者)と転び者(弱者)
自らの信念と信仰をいかなる迫害や責苦に対しても守り続け、死んでいった強い人間──彼らは「殉教者」と呼ばれる。
だが遠藤は、彼らに畏敬と憧れを持ちながらも、強者になりえなかった「転び者」―幕府の拷問に屈し、キリストやマリアの像が描かれた板や紙に足を置いた“背信者”たちが、殉教者に対し抱いたであろう複雑な思い~負い目、羨望と嫉妬、そして憎悪~に心を惹かれた。
こうして小説『沈黙』へのスタート地点に立ったものの、すぐに失望せざるを得なかった。
殉教者になれなかった人間、つまり自分の弱さから棄教していった人びとについての記録など、どこの教会にも残っていなかったのである。信念を貫きとおした強者の記録は残されているものの、転んでいった者―いわば「腐ったリンゴ」については、当時の教会はほとんど触れていない。(遠藤周作『沈黙の声』)
遠藤は諦めなかった。「転び者ゆえに教会も語るを好まず、歴史からも抹殺された人間を、それら沈黙の中から再び生き返らせること、そして自らの心をそこに投影すること」──これこそが小説家としての自分の使命ではないか、と思ったのだ。
上智大学で教鞭を執るキリシタン研究の第一人者、フーベルト・チースリク神父を訪ねると、週に1回、彼の講義を受け、わずかではあるが史実に残された4人の弱者を知る。そして再び長崎を訪れ、取材を進める中で最終的に残ったのが「フェレイラ」だった。
クリストヴァン・フェレイラはポルトガル出身のイエズス会宣教師。キリスト教が全国的に禁教となった1614年以降、彼は日本における布教のリーダー的存在となっていたが、33年に捕縛され、キリシタン弾圧の責任者・井上筑後守の度重なる拷問に耐え切れず、棄教を受け入れる。その後は沢野忠庵と名乗って幕府の通詞(公式通訳者)を務め、捕えられた宣教師や信者の取り調べに協力し、彼らに棄教を勧めた。
殉教か背教かの縁に立たされた男
フェレイラが幕府の拷問を受けて“転んだ”(棄教した)といううわさは、当時、ローマ・カトリック教会のアジアにおける本拠地、ゴアやマニラにまで届いていた。だが、司祭や修道士たちの中にはそれを否定する者も多く、事実を確認するために何人かの若い神父たちが日本に派遣された。
結局、彼らもフェレイラ同様捕らえられ、殉教するか棄教してしまうのだが、遠藤はこの史実に注目し、次のような物語を編み出す。
時は島原・天草一揆(島原の乱)が鎮圧されて間もない頃。禁教下の日本にポルトガル人司祭ロドリゴが潜入する。その目的は消息不明となった宣教師フェレイラを見つけ出すこと。トモギ村に上陸し「隠れキリシタン」たちに出会うが、臆病者の信徒キチジローの裏切りから捕縛され、殉教か背教かの縁に立たされる……。
ローマ教会からの反発
『沈黙』は1966年に新潮社から刊行されると、69年には英訳された。これまで13カ国語に翻訳され、25カ国以上で出版されている。20世紀最大の作家の一人といわれるグレアム・グリーン(英国)をして、「遠藤は20世紀のキリスト教文学で最も重要な作家である」と言わしめ、戦後日本文学の代表作として高く評価されている。
その一方で、出版当初、ローマ・カトリック教会からは猛反発を受けた。司祭が踏絵を踏むという内容が物議を醸し、長崎では禁書に近い扱いをされたともいわれる。
遠藤周作文学館の常設展示室には、「遠藤周作生誕100年に寄せたメッセージ展」と題して、遠藤にゆかりのある各界著名人が思い出をつづっている。そこにアメリカ映画界の巨匠、マーティン・スコセッシ監督の名を見つけた。
イタリア・シチリア系の家庭に育ち、少年時代は司祭を目指していたというスコセッシ。彼においても信仰は重要なテーマで、『沈黙』に感銘を受けた彼は、1980年代後半より映画化を熱望。遠藤のメッセージをより忠実に表現しようと努め、28年の歳月をかけて2017年、公開にこぎ着けた。
沈みゆく夕日に思いをはせて
気がつくと閉館時間が迫っていた。私には最後にぜひ見ておきたい場所があった。
それは展示館に併設されたラウンジ「思索空間アンシャンテ」。扉を開けると、大きな窓一面に外海の絶景が広がった。
遠藤周作の愛用品、遺品、生原稿、蔵書などを展示し、彼の生涯と足跡を紹介する文学館がオープンしたのは2000年5月。遠藤が亡くなった4年後のこと。
独自の歴史と文化を持つ外海に魅せられた遠藤は、『沈黙』執筆後もこの地を何度も訪れ、「神様が僕のためにとっておいてくれた場所」と語っていたという。
なかでも愛したのが角力灘に沈む夕日であり、このラウンジからは誰でも、ゆったりとソファーに座ってその景色を楽しむことができる。
幸運なことに、この日は雲一つない快晴。刻一刻と日の入りが近づいている。
水平線を黄金色に染めてゆく夕日を見ていて思った。400年前も今も、この夕日の美しさは変わらない。フェレイラやロドリゴ、そして外海の潜伏キリシタンたちは毎日、いったい何を思い、何を祈って沈む太陽を見つめていたのだろう、と。
バナー写真:「遠藤周作文学館」の向こうにゆっくりと沈んでいく夕日 写真:天野久樹