幕末の16歳少女が大学数学専攻以上の難問を解く : 庶民も担った “知の探究” を今に伝える算額
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【シリーズ1回目 「太平の世に花開いた日本の数学 “和算”」の記事はこちら】
岐阜県大垣市の明星輪寺には、幕末に奉納された算額が今に伝わる。そこには、2人の女性と少年が掲げた問題が描かれている。和算の担い手が成人男性ばかりではなく、女性や子どもも少なからずいたことを示す貴重な証の一つだ。
明星輪寺の算額に名を連ねた少年・少女
明星輪寺の算額は1865年に「浅野孝光門人浅野源十郎他」が奉納した。この算額の3番目の問題は「河合澤女」という名前の女性によるものと記されている。年齢は16歳。和算・算額研究家でブルガリア科学アカデミーから博士号を授与された元高校教諭の深川英俊氏によると、問題と答の内容は以下の通りだ。
「今、図のように直線上に楕円及び赤青黄白の円がある。ただしこれら各色の円は楕円の周に接していて、さらに赤白円は楕円をはさんで接している。青円の直径が最大に与えられたとき黄色円の直径はどう求めるか。(図は深川氏の解説を元に作成。算額の図は正確な楕円ではないため見た目が異なっているが、問題文とは一致している)。答は、青円の直径をそろばんの上に置き、これを3で割ればよい」。
深川氏は「算額の図の一番上の白円は、青円が最大になると消えるので描かないほうがいいが、答は正しい。レベルは現代の大学の数学専攻以上で、これだけの難問を16歳の少女が勉強していたとは驚きだ」と話す。このほか上の算額の右から6番目は「奥田津女」という女性(年齢は記載なし)、10番目は「田邊捨次重利」という15歳の少年が提示した問題だ。それぞれの経歴は残念ながら分からないが、大人の男たちに交じって女性も少女も少年も和算に打ち込み、実力が認められて算額に名を連ねた。
侍たちにまじって女性が高次方程式を解く算額
実は、こうしたことは大垣に限った特殊なことではなかった。下の算額は、現岡山市北区にある惣爪(そうづめ)八幡宮に地元の算法塾の門人たちが1861年に奉納した算額。深川氏によると、中央に座っているのが先生で門人たちが先生の指導を受けながらそろばんと算木、算盤を使って高次方程式を解いている様子だという。門人の中には日本髪の女性二人とそろばんを見つめている少年も含まれている。画面左下に鼻をかむ侍が描かれているのはご愛嬌だ。
画中の衝立(ついたて)の左右に書かれているのは以下の3問。
① 面積が85000の正方形の1辺を求めよ
② 3辺が10、17、21の三角形の内接円の直径を求めよ
③ 体積が1881676371789154860897069の立方体の1辺を求めよ
現代風に解けば、
① x2-85000=0、答 291.5…
② ヘロンの公式(※から三角形の面積Sを求め、円の半径rはr=2S/(a+b+c)から求められる。答 2r=7
③ x3-1881676371789154860897069=0、答 x=123456789となる。
問題②のヘロンの公式は三角形の3辺a、b、cが分かっているときに面積Sを求めるもので S=√(s(s-a)(s-b)(s-c) ) ただし s=(a+b+c)/2 という形。現代では高校で習うことが多いが、和算家たちはこの公式をすでに知っていた。
少年や女性たちが侍に交じって問題に挑戦し、ヘロンの公式やそろばん、算木を駆使して面積や桁数の非常に多い三次方程式も解いていたことを物語る貴重な算額である。
町医者の娘が編さん? 江戸中期の和算書『算法少女』
『算法少女』と聞いて、何を思い浮かべるだろうか。小説やコミックで読んだ人もいるだろうが、本家本元は今から250年近く前の1775(安永4)年に江戸で刊行された3巻構成の和算書である。著者は壺中隠者(こちゅうのいんじゃ)と名乗り、序文に「自分は大阪出身の医者で、自分が口述した算術の中身を娘の平章子(たいらあきこ)がまとめたのがこの書である。それ故に書名には “少女”という言葉を用いるのがふさわしい」と記している。
この時代に活躍した和算家・会田安明(あいだやすあき)がこの本に触れた文章が残っており、それによって著者の本名は千葉桃三(とうぞう)、大阪出身、江戸在住の町医者で関流の免許皆伝の和算愛好家だということは確認できている。
本の内容を、東大寺学園中・高の元数学教諭で和算研究家の小寺裕(こてらひろし)氏が著した「和算書『算法少女』を読む」(ちくま学芸文庫)を頼りに見ていこう。
最初に円周率の計算法を紹介している。まずは円に内接する正多角形で近似する方法で、角数を4、8、16、…とどんどん増やし、正10万余(!)角形になったところで円周÷直径=355÷113=3.14159202…が得られることを示す。ただこれでもまだ正しくないので、秘術の無限級数で表す方法を巻末で教える、といささかもったいぶって書いている。
現代もスーパーコンピューターの性能を示す尺度の一つとして円周率の計算を使うが、当時も和算家にとって重要課題であったことから、これを冒頭に持ってきたのは、自分の技量を見せる上で必要なことだった。以降、現代の数学用語でいえば等比級数、三角形と内接円、5次方程式、分数の最小公倍数、組み合わせなど様々なタイプの問題が和文と漢文で書かれ、下巻まで数十問続く。
すべての問題を検証した小寺氏は、概して和文問題は初級、漢文問題は中級以上が多いと分析する。数学的な誤りもあり、一般的な和算書からは少し外れた位置にあるという。では、この書をまとめた「章子」とはどんな少女だったのか。残念ながらこの書のほかに痕跡はない。小寺氏によると、会田安明も言及していない。架空の人物という説もあるが、謎のまま。「算法少女」を巡っては、会田が千葉桃三に好意的だったのに対し、同世代のライバル和算家・藤田貞資(さだすけ)が感情的なまでの酷評をわざわざ「算法少女之評」という本にして出している。謎の「少女」は長年の両者の確執をヒートアップさせた格好だ。
謎から生まれた小説で「少女」は活躍
こうした史実にインスピレーションを受け、小説にして「少女」に命を吹き込んだのが作家の遠藤寛子氏だ。和算書と同名の『算法少女』は1973年に岩崎書店から刊行され、2006年にちくま学芸文庫で復刊された。主人公・あきは町医者の父から算術の手ほどきを受ける娘という設定は原本そのままだ。実在した和算家を絡めながら、有名和算道場の塾生である高慢な若侍が掲げた算額の誤りを指摘したり、長屋の貧乏な子供たちに九九など数の計算法を教える教室を開いたりなどと、あきが活躍する様子を描く。
小説を書くに当たって遠藤氏は数学史の本をあさり、専門家から数学の解説を受け、当時の日本の数学事情を踏まえるなど入念に準備をしたという。その意味でも江戸中期の人々が和算とどんな関わりかたをしていたのかを知る上で興味深い。小説は秋月めぐる氏の画でコミック化され2012年にリイド社から刊行された。また、2015年には外村史郎(とむらしろう)氏・監督、制作工房赤の女王・企画制作でアニメーション映画にもなっている。
少年の活躍にも触れておこう。深川氏の「例題で知る日本の数学と算額」(森北出版)によれば、9~15歳の15人の名前が岡山県や京都府、滋賀県、岐阜県、東京都、千葉県、群馬県に掲げられた算額に記されていることが、現存算額や記録文書で確認できる。大学生レベル以上の問題が目立つという。算額には通常年齢を書かないが、わざわざ表記しているのは大人たちが若い才能を鼓舞しようとしたからだと深川氏はみる。
ドイツの女性研究者、「ヒューマンネットワーク」に驚き
早稲田大学高等研究所の准教授として2023年4月から日本で算額の研究を始めたアントニア・カライスル博士は、哲学と科学の関わりの歴史を専門とする。日本との関係は、大航海時代のキリスト教宣教師が宗教のほかに何を伝えたかを探ることに端を発する。中でもユークリッド幾何学。これがどう日本に伝わり広まったかを調べようとしたが、形跡を見つけられなかったという。不思議に思って調べると、日本では独自に数学が発展したことが理由だと分かった。
深川氏とロスマン氏の『聖なる数学:算額』(英語版、プリンストン大学出版)など和算関係書を読み、和算と算額は、専門家だけでなく庶民も含んだヒューマンネットワークによって発展したと確信した。
「こうしたヒューマンネットワークは西洋にはありません。農民も子どもも女性も担い手で、しかも250年余り続いたんですよ。信じられますか」
カライスル博士は算額をじかに見ながら研究したいと来日を決意。早大の高等研究所の公募に「Japanese sangaku and Euclidean geometry: A history of tangents or parallel lines?」(日本の算額とユークリッド幾何学:接線それとも平行線の歴史?)の研究テーマで応募し採用された。
任期は3年間。世界の研究者たちにこの伝統を知ってもらうために、英語でも解説した算額資料の集積をしようと走り回る。深川氏と会い、算額写真や関係資料の提供も受けた。これまでに長崎県や岩手県、三重県などに足を運んだ。明星輪寺の算額ももちろん見た。カライスル博士はこう印象を語った。
「男性とともに女性や少年、少女が知の探究に情熱を捧げた作品は美しい。とても感動しました」