太平の世に花開いた日本の数学“和算” : ノーベル賞学者よりも100年先んじていた寒川神社の算額
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2023年9月のある週末。岐阜県の大垣駅で私は、米北東部メイン州のベイツカレッジの数学教授ピーター・ワン氏と合流した。大垣市内にある明星輪寺(みょうじょうりんじ)の「算額(さんがく)」を見に行くためである。
算額は、江戸時代に発展した日本独自の数学「和算」の難問を解いた証と記念に寺や神社に奉納した絵馬のこと。古文書とともに和算の足跡を今に伝える貴重な史料で、今も国内に約1000面が現存する。トポロジー(位相幾何学)の専門家であるワン教授は、算額の研究にも情熱を注ぐ。今回は7度目の来日で約3週間滞在し、各地の算額を見に行ったり和算研究家と会ったりした。
実は、ワン教授のように和算と算額に魅せられた外国の研究者は少なくない。その背景には、「独自で高かった水準」「女性や子どもも担い手」「都市部でも地方でも」という3つの特徴があると考えられる。
「6球連鎖の定理」100年余も早かった寒川神社の算額
権威ある科学誌ネイチャーは1936年の138号に、英国の化学者フレデリック・ソディ―が寄せた一篇の詩「The Hexlet」を掲載した。「6つの=hex」「小さなもの=let」というタイトルは、後に彼の名を冠した「6球連鎖の定理」と呼ばれる発見の「初出」であった。
正確を期すために、和算の研究家でブルガリア科学アカデミーから博士号を授与された元高校数学教師の深川英俊氏と米ハーバード大学などで教鞭を執っていた理論物理学者トニー・ロスマン氏の共著『聖なる数学:算額』(森北出版)から、定理の内容や発見の経緯を紹介しよう。
定理は「1つの球の中に互いに外接する2つの球が内接しているとき、これらの隙間に連結して入る半径の異なる球からなるネックレスの個数はちょうど6個に限る。また、それぞれの球の半径の間には1/r1+1/r4=1/r2+1/r5という関係がある」というもの。
ソディ―はイオン結合を調べる化学者として、大きな円の中に半径の異なる円柱や円をどれくらい敷き詰められるかという「充填問題」に関心を持っていた。彼はニュージーランド出身の物理化学者アーネスト・ラザフォードと共に放射線崩壊による元素の核変換を発見し、アイソトープ(同位元素)の発見で1921年にノーベル化学賞を受賞した大家。こうしたこともあり、この定理は一般に「ソディ―の6球連鎖の定理」と呼ばれている。
日本各地の算額を調査した深川氏によると、まったく同じ内容を記した算額が1822年に、相州(現神奈川県)の寒川神社に奉納されていたという。奉納したのは入澤新太郎博篤。近江・日野商人の子孫で、「日野屋」として漢方薬の材料やお茶、綿織物などを扱うかたわら和算を学んでいた。入澤の算額は失われたが、師匠に当たる和算家・内田五観(いつみ)が弟子たちの算額を記録した「古今算鑑(ここんさんかん)」(1832年刊)にその内容が記されている。
京都大学理学研究科数学教室図書室所蔵「古今算鑑」のデジタルアーカイブから、算額の6球連鎖に該当するページを抜粋転載した。右ページの5行目「今有」からが問題と答え、解説だ。
深川氏の現代語訳によると、算額は「図のように外球の内に、互いに外接する2つの球(日球と月球)を内接させ、その隙間に互いに連結する球の鎖を作る。外球の直径は30寸、日球の直径は10寸、月球の直径は6寸、甲球の直径が5寸であるとき、他の球の直径を求めよ」と尋ねている。答では、甲の次の2個目の乙球から順に6個目の己球までの値を示した後、「7個目からは元に戻るので止め」と書いている。まさに6球連鎖そのものだ。
ノーベル賞受賞者がテーマの1つとして探求し発見した定理に、日本の商家の主が1世紀余り先んじてたどり着いていたということである。趣味の領域を超える好奇心と言うべきか。和算は、こうした「庶民」の知的エネルギーにも支えられていた。
「算聖」関孝和 ライプニッツに先行した「行列式」の概念
和算を語る上で絶対に外すことができないのが関孝和だ。松尾芭蕉=俳聖、千利休=茶聖にならい、「算聖」とも呼ばれる和算の最高峰だ。生年は1640年ごろで没年は1708年。微積分を体系化した英国のアイザック・ニュートン(1642-1727年)やドイツのゴットフリート・ライプニッツ(1646-1716年)と同時代に生きた侍である。長く甲府藩の勘定方を務めた、いわば数字のプロだ。
彼はそれまでに伝え遺された和算の問題に解を与えるなど様々な業績を上げたが、注目すべきは「行列式」の概念の導入と、「ベルヌーイ数」の発見であろう。関自身が存命中に刊行した書籍は「発微(はつび)算法」だけだが、没後に弟子が刊行した「括要(かつよう)算法」(4巻、1712年)や多数ある写本に業績が記されている。
関は和算の問題と方程式を「解見題」「解隠題」「解伏題」に分類してそれぞれ解法を示した。「解見題」は算術(加減乗除)計算で解ける問題、「解隠題」は未知数が1個の方程式、「解伏題」は未知数が2個以上の連立方程式で、このうちの解伏題の解法として考案した「交式」と「斜乗」という計算法が「行列式」の展開法だった。関はこの方法を1683年に発表したという。
一方のライプニッツは、1693年にフランスの数学者ギョーム・ド・ロピタルに送った手紙に行列式の着想を書いたとされているが、詳細は不明。西洋で関の計算法と同じ3次行列式の計算法が公表されたのはフランスの数学者ピエール・F・サリュー(サラス)の1846年の書物が最初だ。こうしてみると、行列式の概念の導入は関がライプニッツに少なくとも10年先行したことになる。
「数学は苦手だった!」「連立方程式なんて無理!」という人も、この写真を見れば、関の算聖ぶりが理解できるのではないだろうか。日本学士院所蔵の「解伏題之法」の「交式」と「斜乗」を説明したページにある図は、現代の数学の教科書にも載っているサリュー(サラス)の公式と全く同じである。
「早かった」「遅かった」の議論に終始するのは避けたいが、もう1つだけ、関が「競り勝った」事例を挙げておこう。「ベルヌーイ数」と呼ばれるものだ。ざっくりと、1+2+3+…や12+22+32+…、13+23+33+…、1k+2k+3k+…のような足し算の答えを求める公式に使われる特殊な数の集団と考えればよい。
ベルヌーイ数は今では足し算の答えを求めるのに有効なだけではなく、数学のその他の様々な分野に関わっていることが分かっている。この数の集団は1713年にスイスの数学者ヤコブ・ベルヌーイが発表した「Ars Conjectandi」(推測術)で世に広まったため「ベルヌーイ数」と呼ばれる。
関も同じ数の集団が存在することを発見していて、上記「括要算法」に記した「朶積(だせき)術」で紹介しているのだ。関が1年早かったことになる。
江戸幕府の鎖国政策によって諸外国との往来がほとんどなかった時代に、関とベルヌーイが同じアプローチで真実にたどりついたことは一目瞭然である。
高次方程式を解き円周率も数十桁計算
関やそれ以降の和算家たちは上記の業績以外にも、西洋数学より早かったり遅かったりしながら独自に数学的真理に行き着いていた。項目だけ挙げると「デカルトの円定理」「マルファッティの定理」「テイラー展開」「円周率の計算」「高次方程式の近似解」などなど。特に円周率では関の高弟・建部賢弘(たけべかたひろ)が小数点以下41桁まで計算した。和算家の中には1458次というとてつもない高次の方程式の近似解を求めた人物もいたという。いずれも算盤(さんばん)に算木という「コンピューター」を駆使できたからこそである。
日本では「和算」が小学校の算数レベルのものだという先入観が強いので、それを打ち破る意味を込めて、和算の「先行事例」を列挙した。しかし、本当に、多くの人に知ってもらいたいのは、閉じられていた国の中で人々が数学を楽しみながら発展させたということだ。冒頭のピーター・ワン教授は中国系で、和算が発展したことについてこう語ったのが印象に残っている。
「中国やアジアの他の国を見てほしい。日本のように260年もの間、庶民が戦に巻き込まれなかったところはない。幸運なことに日本の人たちは文化に熱中することができたのです」