
つらい経験を社会を変える一歩に:養護施設・里親のもとで育った若者たちが4年越しでつくった「権利章典」
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養護施設や里親など「社会的養護」の環境で育ち、そこから巣立った“ケアリーバー”の若者たちが「子ども・若者の権利章典」を完成させた。子ども政策に当事者の子どもの声は届きにくい。中でも、保護者のいない子どもの声はほとんど行政や政治に届くことはなかったが、ここ数年、当事者たちが声をあげ始めた。2024年春施行の改正児童福祉法では、保護下の子どもが自分に関わる大事な決定に参加できる仕組みが定められた。
子ども時代に奪われていた“権利”
第2条 社会的養護を必要とする子ども・若者には、本章典で示されている権利について、児童福祉司から、年齢的にも発達的にも適切な方法で説明を受ける権利がある…第11条 子どもは措置決定および措置変更や自立支援計画を含む、自分自身のケースにかかわる過程において説明を受けることができ、意見を伝えることができる…
施設や里親家庭で育った日米の若者らでつくるNPO・International Foster Care Alliance(IFCA)の日本のメンバーが、「社会的養護の子ども・若者の権利章典」をまとめた。
2001年に米国カリフォルニア州のケアリーバーの若者らが起草し、全米20州で採択された “California Foster Youth Bill of Rights”を参考に、日本の状況に合わせ翻訳・修正したものだ。米国メンバーと意見を交わし、弁護士らを招いて学習会を開いて4年越しで完成させた。
この権利章典にはいくつか特徴的な条項がある。「監視・盗聴されることなく電話やメールを送ったり受けたりできること」「児童福祉関係者以外の多様な人たちとの出会いと交流が持てること」「常に学校に通えること。できる限り転校しないこと」―などだ。こうした一見当たり前の権利を、社会的養護下の子どもたちはしばしば奪われてきた。今は小さな子ども向けのバージョンを作成中で、将来は絵本にして当事者の子どもや支援者らに広く読んでほしいという。
IFCAジャパン理事長の永野咲さんは10月に日本のメンバーと米国コロラド州を訪れ、社会的養護に特化した権利章典が養護施設などで生活に浸透している状況を見てきた。「日本でもこの章典の活用が実現するようアクションを続けたい」と話す。
自分の人生なのに何が起きているか分からない
権利章典づくりのリーダー役の20代の女性は、「小さな子でも、社会的養護の生活に入ると同時に自分の権利について知ってほしい。育ってきた世界しか知らないと、置かれた状況は変えられないとあきらめてしまうから」と話す。
この女性は15歳の時、父親から虐待を受け児童相談所(児相)に保護された。生まれ育った町を離れて父と父の再婚相手と暮らしていた時のことだ。父には理想の子ども像があり、意に沿わないと容赦なく女性に暴力を振るった。ゴルフクラブで殴られた時は、痛くて数日は椅子に座れなかったが、背中や尻など服に隠れる場所だったため、誰にも虐待に気付いてもらえなかった。
何度か逃げようとした。下着1枚で家から閉め出された時は一晩帰らなかった。だが引っ越したばかりで友人も頼れる人もいなかった。近所を夜通し歩き、警察の姿を見ると隠れた。「助けを求めるという発想はなかった。父からは逃げられないし、怒られる自分も悪いとあきらめていました」。児相の存在さえも知らなかった。
「暴力が始まると自分はそこからいなくなり、他人が殴られているのを第三者として見ている感覚だった」と言う。「あまりにつらくて体と意識を切り離す術(すべ)を覚えたんです。よく生きていたと思います」
高校1年の時、友人親子の親しげな会話を聴いて「親子ってこんなふうに話すのか」と驚き、「うちは父が気に入らないとボコボコにされる」と初めて打ち明けた。ある日、友人の家にいる時に父から何度も携帯電話に着信があった。留守録に残っていた父の怒声を聴いた友人の母親は「帰らなくていい」と一晩泊めてくれ、翌朝、児相に同行してくれた。その場で保護が決まった。
3カ月ほど里親の家から高校に通い、その後空きが出た施設に移った。支援の方針は児相など行政機関が決める。知らされるのはいつも突然で、なぜそうなったのか、今後どうなるかの説明はほとんどなかった。「自分の人生なのに何が起きているか分からない。だから何も感じないようにしていた。怒りも不安もあったはずなのに、当時の気持ちを思い出せないんです」と女性は話す。
施設での生活は子ども時代を取り戻す時間となった。夜中に職員や寮生とおしゃべりしたり、年下の子たちと近所に買い物に行ったりする日常が楽しかった。ある時、職員の勧めで外資系企業のボランティア育成研修に参加した。英語のレッスンを受け、京都で外国人観光客を案内するボランティアをするものだ。学校と施設以外で初めて出会った大人は輝いて見えた。自分も大学に行ってこんなふうに輝きたい。
経済的な理由で周囲が反対する中、1人の職員が「君ならできる」と奨学金を見つけてくれた。見事合格して施設を“卒業”したが、保証人が見つからずアパートを借りるところから苦労し、学費や生活費を工面するためバイト掛け持ちしながら授業に出た。そんな状況を変えたいと、今はIFCAで後輩たちを支える側にまわる。
「僕らは管理の対象でしかないんだ」
「これで助かった、と思いました」。神奈川県内で不動産業を営む池田累さん(35)は、小学3年で児相に保護された時のことをこう振り返る。小1の時に父と別れた母親に連れられ、継父と3歳上の異父兄と暮らした。池田さんだけが継父から日常的に暴力を振るわれ、食事も満足に与えられなかった。
投げ飛ばされて窓ガラスが割れ、3階の部屋から転落しそうになったこともある。「毎日父親が帰ってくる頃になると、今日はどうやってしのごうかと。その日を生きるのに必死でした」。社会的養護で命をつないだといえる。
遠く離れた施設への入所が決まり、施設内の小学校に転校して野球を始めた。日に3度の食事ができ、暴力におびえることもない。安全と安心は手に入れたが、規則ずくめの生活にはなじめなかった。中学はバス通学が原則で、体力をつけようと走って登校していると「規則違反だ」と禁止された。「あれもダメ、これもダメ。頭ごなしに否定され、言い分は一切聞いてもらえない。僕らは管理の対象でしかないと感じ、ここを出なきゃダメだと思った」と池田さんは言う。
「長く施設にいるほど外の世界の常識と溝が開いていく。外の世界と接点を持つことがとても大事」だと池田さんは言う。
里親制度を知り、「里親と暮らしたい」と何年も言い続けた。最後は自ら児相に面談を申し入れ、中学3年で願いがかなう。「初めて自分の部屋を持ち、手作りのごはんが食べられて。めちゃくちゃうれしかった」。高校の3年間は川崎市に住むベテラン里親のもとで暮らし、部活動の野球に打ち込んだ。里親は毎朝5時に起きて弁当を作ってくれ、試合の応援にも来てくれた。今も家族同様の付き合いが続いている。
ただ大学進学の願いはかなわなかった。希望の大学は年間数百万円の学費がかかった。「球団職員や教員になって野球に関わる夢を描いたけれど、ここまでか、と」。社会的養護で育つ若者は就職と同時に自立を迫られる。頼れる家族がなく、部屋を借りるのにも苦労する。衣食住の「住」でつまずくことが多いことを知った池田さんは不動産業に目標を転じ、企業の営業職などを経て2年前に起業した。
いつか様々な世代が安心して集える居場所を地域につくりたいという。「僕にとっては里親さんの家がそういう場所だった。社会に出る前にいろいろな人と出会い、縁をつないできたことが今につながっている」。子どもたちには、「あきらめたらそこで終わり。自分の未来をあきらめるな」と伝えたいという。
児童福祉の “失われた40年”
1989年に国連で採択された子どもの権利条約を日本は1994年に批准したが、子どもの権利に対する取り組みは先進国の中でも周回遅れだ。英国のケアリーバーの権利擁護に詳しい津崎哲雄・京都府立大学名誉教授によると、英国では1970年代に施設や里親出身の若者たちが、自らが受ける処遇への異議申し立てを冊子で発表。国は専門職を育成して集団養育から里親や養子縁組など家庭養育への移行を進め、自治体は大人と子どもを一体で扱う「個別社会サービス部」を創設して対人支援を進めたという。
「児童福祉はいま生きている子どもの問題。未来の大人のために何年か後の対策を議論するのでは意味がない」と津崎さんは話す
日本の場合、社会的養護は民間の社会福祉法人が営む大規模施設に頼り、施設には入所者数に応じて国から措置費が支給されてきた。津崎教授は「施設での集団養育では自立の基盤となる人間関係を体験しがたい。子どもは大人と同等の権利と人格を持つ社会的存在だという考え自体、日本の社会で理解されにくかった」と話す。
日本でも1990年代に施設で暮らす高校生たちが状況の改善を求めて声をあげたが、施設側の反発は強く、当時の社会の関心も低かったため権利擁護の機運は停滞した。
「英国で70年代に起きた児童福祉の改革は、日本では子どもを“権利の主体”と明確に位置付けた2016年の改正児童福祉法から始まった。児童福祉の“失われた40年”です」と津崎教授は言う。22年の改正では行政が子どもに関する重大な決定をする時は子ども本人の意見を聴くことを義務付け、ケアリーバーの生活支援への取り組みも進む。
権利を学ぶ前に心のケアが必要
一方、保護が必要な子を緊急避難的に預かる児相の一時保護施設(保護所)は社会的養護の最前線で、子どもたちの権利保障への取り組みが遅れていた現場でもある。保護所の心理担当職員で、子ども中心の支援を研究する目白大学専任講師の阪無勇士さん(臨床心理士・公認心理師)は、「権利侵害を受けた子どもが自ら意見表明するには、その前段となる適切な心理的ケアが必要です」と指摘する。
目白大学の学園祭で子ども虐待防止のオレンジリボン運動を展開するNPO関係者に「子ども中心の関わり」を来場者に説明する阪無さん
保護所に来た子どもが受けた虐待による心の傷は、様々な問題行動に表れる。「子ども時代に過酷な経験がある人ほど、困った時に『助けて』と言うことに抵抗感があったり、支配や服従によって安心を得る術を学んでいたりする。権利教育の前に、大人は子どもが “意見を上手く言えない状態” にあることを共に受け止め、寄り添いながら意見形成を支えていく必要がある」と阪無さんは言う。
だが現実には、職員の多くは専門的なケアの知識や技術を十分に学ぶ機会を得られず、人員不足や入所定員数の超過などから疲弊している。
阪無さんは現場の子どもと職員の声を集め、研究と実践を繰り返す中で、子ども・職員双方のケアと成長に役立つ具体的な関わり方として「子ども中心の関わり」を提唱してきた。「子どもが自らの人生を主体的に生きているという感覚を持てるよう、子ども中心の意味を正しく理解することが、心理ケアや権利教育の第一歩です」(阪無さん)。国も近年、保護所での心理ケアや権利教育の重要性を認め、調査研究に乗り出し始めたばかりだ。
「子どもの権利章典」全文はこちらからお読みいただけます
編集協力:POWER NEWS編集部