G7首脳を迎えるヒロシマ

リニューアルした広島平和記念資料館:被爆資料・遺品が語る「魂の叫び」を感じる

社会

原爆投下から75年を前にした2019年、広島平和記念資料館(原爆資料館)の展示が全面的に更新された。主要7カ国(G7)首脳も足を運ぶであろう、被爆地ヒロシマにとっての最重要施設。リニューアルの狙いや、その存在意義をあらためて探った。

原爆ドームと原爆死没者慰霊碑(正式名称は広島平和都市慰霊碑)、そして資料館(本館)が一直線上に並ぶ広島市中区の平和記念公園は、名実ともに被爆地ヒロシマのシンボルだ。取材に訪れた4月上旬、小雨の平日午前中にもかかわらず、資料館の入館を待つ行列は50メートル以上となっていた。その9割近くが外国人とみられることに驚く。案内ボランティアをする地元市民は「こんなに外国人観光客の姿を見るのはしばらくなかった。桜の季節は外国人の訪問が多く、5月から6月にかけては修学旅行生が取って代わります」と話した。

原爆資料館本館から見る平和記念公園の中心部(撮影:堂畝紘子)
原爆資料館本館から見る平和記念公園の中心部(撮影:堂畝紘子)

「被爆者の視点」を第一に

1955年の開館以来、最大規模となった展示更新。その狙いについて、豆谷(とうや)利宏副館長は「遺品や、8月6日の原爆投下直後に撮影された写真の数々を中心に置き、被爆者である人間の被害により焦点を当てるのが主眼です。われわれは『被爆の実相』という言葉を使いますが、つまりあの日、きのこ雲の下でどのような惨状があったのか。それを伝えることに重きをおくということです」と話した。

広島平和記念資料館の豆谷利宏副館長(撮影:堂畝紘子)
広島平和記念資料館の豆谷利宏副館長(撮影:堂畝紘子)

広島への原爆投下で多くの人が真っ先に頭に浮かぶのは、米軍が上空から撮影した巨大なきのこ雲(原子雲)の写真だろう。また、原爆の恐ろしさは、その桁外れの威力、爆発力の側面から語られることが多い。しかし、リニューアル後の展示ではあくまでも「被爆者からの視線」「人間の被害」を表現することを基本方針とした。

このため、展示の順序も一新した。「日本人入館者の場合、平均の滞在時間は40分から45分ほど。以前は前半に原爆開発や投下までの経緯などの展示を詰め込んでいたため、遺品や被爆資料を十分に見ることができないケースも多くあった」(豆谷副館長)。現在は、被爆前後の広島を撮影したパノラマ写真、原爆投下と爆発をイメージで再現するCG(コンピューターグラフィックス)映像だけを導入展示として置き、入館者はすぐに本館の「被害の実相」展示に触れることになる。

導入展示のCG映像を見る見学者(撮影:堂畝紘子)
導入展示のCG映像を見る見学者(撮影:堂畝紘子)

資料と遺品で「8月6日の惨状」伝える

「被爆者からの視線」。この展示テーマの象徴と言えるのが、本館に入ってすぐの写真パネル。カメラマンの松重美人氏が8月6日の原爆投下から3時間ほど経過した午前11時ごろ、爆心地から2.3キロ南の御幸橋付近でシャッターを切った、あまりにも有名な2枚の写真だ。頭髪が焼け縮れ、全身にやけどを負った人々。背後の建物の屋根や窓ガラスは吹き飛んでいる。このパネルは来館者が見て最も臨場感がある大きさで配置されている。その次にあるきのこ雲の写真は、いずれも地上から撮影したもの。あえて米軍撮影の写真を使わず、「被爆者が見た光景」にこだわった。

松重美人氏撮影の写真(撮影:堂畝紘子)
松重美人氏撮影の写真(撮影:堂畝紘子)

もう一つの特徴的なコーナーは、一瞬にして破壊された町の様子を示した「集合展示」。被爆建物のレンガ塀やガラス片の突き刺さった壁、折れ曲がった鉄骨の梁(はり)、火災による高熱で溶けた金属の塊などの大型資料がむき出しで置かれ、周囲には被爆者がその日の惨状を描いた「原爆の絵」も配置されている。中央のガラスケースの中には、建物疎開作業中に被爆、死亡した中学生たちが当時着ていた衣服、カバンなどが30点余り、がれきに横たわるかのように配置されている。ここではあえて説明は行わず、入館者は遺品の出所や意味について自ら思いを巡らすことになる。

中学生の衣服が多く置かれた展示(撮影:堂畝紘子)
中学生の衣服が多く置かれた展示(撮影:堂畝紘子)

被爆者一人ひとりに物語が

先に進むと、死亡した被爆者の個人の暮らしに、その遺品や遺影を通じて思いをはせる展示がある。「魂の叫び」と呼ばれるコーナー。苦しみながら死んでいった人々の無念と、遺族の深い悲しみが、遺品とそれを巡るエピソードからおのずと伝わってくる。

展示品の中には、そのエピソードが子ども向けの絵本になり、日本中に知られるようになったものもある。代表的な遺品をいくつか紹介する。

銕谷信男寄贈、広島平和記念資料館所蔵
銕谷信男寄贈、広島平和記念資料館所蔵

三輪車

銕谷(てつたに)伸一ちゃん(当時3歳11カ月)は三輪車で遊んでいるときに被爆し、大やけど、大けがを負って「みず、みず…」とうめきながら亡くなった。父親は、伸一ちゃんが死んでからも遊べるようにと、三輪車を遺体とともに庭に埋めた。40年後、父親が遺骨を墓所に移すことを決め、掘り起こした三輪車は資料館に寄贈した。

折免シゲコ寄贈、広島平和記念資料館所蔵
折免シゲコ寄贈、広島平和記念資料館所蔵

弁当箱

県立広島二中1年生の折免滋(おりめん・しげる)さん(当時13歳)は、建物疎開の作業現場で被爆し、亡くなった。骨になった滋さんの遺体を母親が見つけ出した時、この弁当箱が遺体の下にあった。お弁当の中身は、米・麦・大豆の混合ごはんと千切りにしたじゃがいもの油炒めだったが、真っ黒に炭化していた。

朝日輝一寄贈、広島平和記念資料館所蔵
朝日輝一寄贈、広島平和記念資料館所蔵

中学生の服

県立広島二中1年生の朝日俊明さん(当時13歳)は、建物疎開の作業中に被爆。現場にいた教師・生徒はほとんど全滅。重傷の朝日さんは避難中、奇跡的に知人に発見されて自宅に戻ったが、9日朝に「お世話になりました」と言い残して、母親の膝の上で死亡した。着衣は、爆風と熱線で、下に着ていた白シャツまで両肩が引き裂け、制服の両そではちぎれている。(2023年5月現在、この服は展示していません)

本館にはこのほか、原爆投下直後に市内に降った、放射性物質を含んだ「黒い雨」、被爆から10年後に白血病で死亡し、「原爆の子の像」建設の契機となった佐々木禎子さん(死亡当時12歳)の関連資料などが展示されている。

佐々木禎子さんがつくった折り鶴。薬の包み紙で折られている(梅田頼子寄贈、広島平和記念資料館所蔵)
佐々木禎子さんがつくった折り鶴。薬の包み紙で折られている(梅田頼子寄贈、広島平和記念資料館所蔵)

今も増え続ける収蔵資料

資料館が収蔵する資料は、約2万点に上る。被爆した石や瓦、建物の一部のほか、被爆者の遺品、被爆者が描いた「原爆の絵」、当時使われた医薬品、ケロイドなどの人体標本類など、内容は多岐に及ぶ。驚くべきことに、被爆から80年近くなった今でも、一般家庭からの資料寄贈は年50件から60件ほどあるという。

被爆者の子どもや孫が「形見」として持っていた遺品を、自身が代替わりすれば散逸してしまうのではないかと考えて、資料館に相談を持ちかけてくる。変わったケースでは近年、爆心地近くで理髪店を営み、6人全員が命を奪われた一家の詳細な家族アルバムが寄贈され、世に知られることになった。写真好きで膨大な記録を残していた理髪店の主人は当時、空襲による火事を心配し、アルバムを親せきに預けていたのだった。

豆谷副館長は「よほどのことがない限り、寄贈を希望する遺族、親族には詳細な聞き取りをして収蔵資料に加える。できるだけ多くの資料を公開し、被爆の記憶を永久に人々の中にとどめることが、館の使命です」と話す。

政治家は事実と向き合い、発信を

G7サミットが前回日本で開催された2016年、当時のオバマ米大統領は現職の大統領として初めて被爆地広島を訪問。平和公園で17分にわたりスピーチし、米国を含む核保有国が「恐怖の論理から脱却し、核兵器のない世界を追求する勇気を持たなければならない」と述べた。

今回、サミットに集う各国の首脳は広島で何を感じ、どのようなメッセージを発出するのか。オバマ大統領の訪問時に資料館館長だった志賀賢治氏(現・広島大学原爆放射線医科学研究所客員教授)は当時を振り返り、「最も強く記憶にあるのはその前段の、4月のG7外相会談だった」と打ち明けた。

志賀賢治さん(撮影:石井雅仁)
志賀賢治さん(撮影:石井雅仁)

当時の日本の外相は、岸田文雄・現首相。外相一行は岸田氏が案内役となり、慰霊碑献花の前に資料館を訪れた。「岸田首相が先頭に立って、私は最後尾にいた。ところが、米国のケリー国務長官、英国のハモンド外相の2人が一行からどんどん遅れていく。明らかに資料館の展示に引き付けられ、一個人として遺品や被爆資料にじっくり向き合っていることが見て取れました」。

ケリー氏はまた、予定の見学コースを外れて原爆ドームの近くまで歩いていき、警備当局を慌てさせた。その後の記者会見では、資料館見学の印象を熱弁したという。

「ケリー氏にこの時付き添いながら思ったのは、オバマ大統領は必ず広島にやってくる、ケリー氏が確実にそれを後押しするだろうということです。謙虚に向き合えば、遺品や被爆資料は必ず人の心を動かす。今回広島を訪れる首脳らは、時間をかけて資料館を見学してほしい。そして、そこで得た率直な思いを自国のメディアを通じて発信してほしいというのが私の願いです」。

(遺品の説明は、資料館の総合図録から引用しました)

バナー写真:中学生の遺品の衣服が並ぶ原爆資料館の「集合展示」(撮影:堂畝紘子)

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