豊臣体制の解体へと家康が利用した「征夷大将軍」という権威
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大名の領地は実質的に家康から与えられるもの
関ヶ原の戦いで勝利を収めた家康は、さっそく戦後処理にとりかかった。ポイントは主に3つあった。
① 論功行賞による諸大名の領国替え
関ヶ原で西軍にくみした大名の領地を没収・減封し、家康とともに東軍で戦って功をあげた者たちに配分。
② 鉱山の直轄化
佐渡相川金山(佐渡)・黒川金山(甲斐)・石見銀山(石見)・生野銀山(但馬)を手中にし、徳川の財政に組み入れた。これらの鉱山の権益も、そもそもは豊臣にあった。
秀吉時代の豊臣の直轄鉱山 (青色網掛けは徳川家に移ったもの)
佐渡相川金山 | 佐渡 |
久慈金山 | 常陸 |
黒川金山 | 甲斐 |
井川金山 | 駿河 |
茂住金山 | 飛騨 |
北袋銀山 | 越前 |
多田銀山 | 播磨 |
生野銀山 | 但馬 |
中瀬金山 | 播磨・但馬 |
石見銀山 | 石見 |
③ 京都の掌握
京都所司代を置いて治安維持をはかり、同時に天皇・朝廷と西国(西日本)の大名を監視。もっとも警戒したのが豊臣の本拠地・大坂だった。
どの政策にも、根底には豊臣体制の解体という狙いが共通していたが、特に重要なのは①だ。
領国替えは、領地宛行(りょうちあてがい)と言い、「おまえは○○の国を治めて石高は○○石」と大名に命じる。この権限を有していた天下人が豊臣で、諸大名が臣下という、主従関係を明確に示すものだった。
領地宛行には花押(署名)の入った宛行状(文書)を発給するのが通例だったが、この時は文書が出ず、家康の使者が口頭で伝えたという。
これが何を意味するかというと、この時点ではまだ、家康には文書を発給する権限がなく、あくまで秀頼の「名代」だったということだ。家康は勝手に文書を出すような横暴は控え、豊臣に対して一定の配慮を示したと考えられる。
とはいえ、たとえ口頭であろうが、家康から伝えられたという事実は、すなわち「領地は家康から与えられるもの」という認識を、大名たちに植えつけたはずだ。
同時にこの時、豊臣秀頼が秀吉から受け継いだ、日本の石高の12%にあたる所領220万石を、摂津・河内・和泉の3カ国65万石に削減している。秀頼は関ヶ原に出陣せず、戦功を挙げていないからである。このことに対して豊臣から横やりが入った様子はない。
また、家康は豊臣が世襲していた関白の職を、朝廷に取りはからって公家の九条家に還させた。これも横やりは入らなかった。秀頼の母・淀殿が、あくまで秀頼が成人するまでの一時的な措置と考えていたからだろうが、家康は一時的とは考えていなかった。豊臣体制の解体を狙った布石だった。
あとは、家康が公的な権威を身につけることが必要だった。この時代の権威とは、天皇から与えられた役職にある。それが「征夷大将軍」だった。
「将軍」とは幕府を開く権限を持つ者
征夷大将軍とはどんな役職なのか、歴史を簡単にひも解いてみよう。
征夷大将軍というと、坂上田村麻呂(さかのうえの・たむらまろ)を思い起こす人も多いだろう。田村麻呂は791(延暦10)年から開始された蝦夷(えみし / 東北地方にあって中央政府に属さなかった集団)征討に参加し、797(同16)年に桓武天皇から征夷大将軍に任命された。
当時は関東でさえ未開の地だった。そのさらに北の東北に至っては情報がほとんどなく、それゆえ、反乱に備えて軍を整える必要があり、征夷大将軍は軍を統括する役職だった。
ところが、後に鎌倉幕府を開いた征夷大将軍・源頼朝の本拠地が、東国の鎌倉にあったため、いつしか東国の支配者=征夷大将軍=源氏の棟梁(とうりょう / 指導者)という俗説が定着していく。
しかし、鎌倉幕府の4〜5代将軍は朝廷から招いた藤原氏の子息が「摂家将軍」として就いているし、6代以降は皇族がその座にあって「宮将軍」と呼ばれた。1333年(元弘3)年の建武の新政では、後醍醐天皇の皇子・護良(もりよし)親王が征夷大将軍だった。
征夷大将軍は必ずしも「源氏」に限られていたわけではないが、源頼朝と室町幕府を開いた足利尊氏は共に「源氏」だったことに家康は注目した。征夷大将軍に就けば開府でき、それには源氏である必要があると、家康は考えたのだ。
事実、1603(同8)年2月12日の征夷大将軍宣旨の際、家康は天皇から「源氏長者」(源氏のトップとして多くの権限を持つ)としても認められている。ここに天下の支配者=征夷大将軍=源氏という俗説が既成事実化されることになった。
このことは法令化されていたわけではない。征夷大将軍が幕府を開いているという歴史的事実に着目し、利用したのである。
家康が鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』を熱心に研究していたことは知られているが、将軍宣下を受ける10日前には、家康に協力的な公卿だった山科言経(やましな・ときつね)と会い、『吾妻鏡』をもとに「将軍の儀についた談合した」と、山科の日記『言経卿記』にある。征夷大将軍と開府について、綿密に計画していた節がうかがえる。
そして満を持して、2月12日に将軍宣下を受ける。
さらに3月には、諸大名を動員して江戸の市街地を造成する工事が開始され、家康の号令のもとで天下普請(天下人が命じた土木工事)が急ピッチで進んだ。幕府を開くことによって、名実ともに「徳川公儀」(公権力が徳川のあること)が確立したのである。
将軍世襲制によって秀頼の天下は絶たれた
家康は征夷大将軍の座に就くと同時に、従一位・右大臣にも任官された。豊臣秀頼は1602(慶長7)年に正二位、家康の将軍就任後に内大臣に叙任されたが、いずれも家康の官位より下位であり、両者は序列も逆転した。
そうなるとドライなものだ。「歳首(さいしゅ/年の初め)」のあいさつのため、家康は大坂城の秀頼のもとに出向いていたはずだったが、それも取りやめた。諸大名もまず秀頼のもとに向かい、その後に家康にあいさつしていたが、家康に忖度し、秀頼のもとへ行かなくなった。
家康が将軍の座にあったのは、わずか2年弱。早々に将軍の座を息子の秀忠に譲り、1605(慶長10)年に2代将軍が誕生した。秀忠の将軍就任の意味は大きかった。これによって武家のトップである征夷大将軍は、徳川の世襲であると宣言されたからである。
一方、豊臣秀頼が天下人となって号令を下すという望みは、完全に霧散した。秀頼が父・秀吉と同じ関白となる道も絶たれた。関白就任には朝廷の許しを得る必要があるが、もはや朝廷も家康に牛耳られていたからだ。関白秀頼の誕生を、家康が認めるはずがない。
秀忠の将軍就任に合わせ、家康は京都の徳川の拠点・伏見城へ上洛するよう、秀頼に要請している。このことは、「徳川に臣下の礼をとれ」といったに等しい。『当代記』には、それを知った秀頼の母・淀殿が怒り、こう言い放ったとある。
「秀頼公母台、是非ともその儀これあるまじく、もしたってその儀に於ては、秀頼を生害せしめ、その身にも自害あるべき由」
徳川の臣下として振る舞うような事態になるなら、秀頼を自害させ、私も死ぬ——。
淀殿は屈服しなかった。
時代が徳川の世に移っているにも関わらず、断固として抵抗した。乱世の最終決戦、大坂の陣が近づきつつあった。
[参考文献]
- 『誤解だらけの徳川家康』渡邊大門 / 幻冬舎
- 『徳川家康の決断』本多隆成 / 中公新書
- 『徳川家康』柴裕之 / 平凡社
- 『「将軍」の日本史』本郷和人 / 中公新書クラレ
- 『徳川家康』藤井譲治 / 吉川弘文館
- 『征夷大将軍研究の最前線』関口崇史編 / 洋泉社
バナー写真:『千代田之御表 将軍宣下』は、江戸城に朝廷からの勅使を招いて将軍が宣下を受ける姿を描いているが、家康・秀忠・家光の草創期3代と、15代慶喜は京都で宣下を受けた。江戸城で行われたのは、4〜14代である。東京都立中央図書館特別文庫室所蔵