知っているようで知らない徳川家康

秀吉の策略か? 家康の慧眼か?―徳川が江戸を本拠とした理由

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1590(天正18)年、家康は住み慣れた東海の地を離れ、江戸にやって来た。以来、江戸を本拠と定めて城下の整備を進め、現在の東京の礎を築いていく。だが、なぜ江戸転封を受け入れたのか、意外と知られていない。

家康「関東転封」の諸説

1590年2〜7月、関白・豊臣秀吉は北条氏の小田原城を総勢20万余の大軍勢で包囲した。小田原征伐である。秀吉に臣従していた家康も従軍した。7月5日、北条が降伏して戦いは終わった。

家康を関東へ転封(領地替え)させる—秀吉がそう内示を出したのは、この戦の最中の5月27日とされる。また、6月28日には拠点が江戸に決定した。すべて秀吉の指示だった。内示が公になったのは、北条が降伏した日と同日だったという。

転封の理由は諸説ある。主だったものを列挙しよう。

①秀吉による関東・奥両国惣無事令(そうぶじれい)の一環

秀吉は1587(天正15)年、「関東奥(東北)惣無事令」を出している。惣無事令は大名の私闘を禁じるというお達しだ。しかし、伊達政宗は秀吉に拝謁に現れず、小田原征伐にも遅参して参陣するなど、それまでの態度が曖昧だった。北条も上野にある城をめぐって私戦を起こすなど反抗の姿勢を見せたため、秀吉は小田原征伐で北条氏を滅ぼした。これは、惣無事令が徹底されていなかったことを意味する。

今後、また再発する可能性があった。しかし、大坂に本拠を置く秀吉が関東・奥まで直接差配するのは難しい。そこで、関東各地及び東北へ向かう街道の起点に位置する要所・江戸に、家康を置いたとする説である。

②秀吉の謀略

『徳川実紀』によると、秀吉は「江戸は形勝(けいしょう)の地」であると、家康に強く奨めたという。形勝とは景観が良く、また、そこに立つ城は防御に勝るという意味だ。そうしたメリットの多い地ということを理由に、転封を強要したとする説。それまで北条が治めていた江戸に新参の家康が入った場合、領民の一揆なども起こり得る。反乱を鎮圧するには兵も資金も使わざるを得ず、その結果、家康の力は削がれる。徳川の弱体化を狙ったと捉えることもできる。

小田原市にある笠懸山(石垣山)から望む太平洋。『徳川実紀』によると、秀吉は小田原征伐のある日、笠懸山の陣で家康に江戸行きを奨めたとある。(PIXTA)
小田原市にある笠懸山(石垣山)から望む太平洋。『徳川実紀』によると、秀吉は小田原征伐のある日、笠懸山の陣で家康に江戸行きを奨めたとある。(PIXTA)

③海運ルートの確保

江戸は伊勢湾と鎌倉に海路でつながる、海運の要衝だったからという説。家康を江戸に置けば、豊臣が関東の海の要衝を確保できるという意図があった。

④家康も転封に前向き

家康自身も以前から、交通の要衝である江戸が持つ可能性に大きな関心を寄せ、転封に前向きだった。

現在、有力なのは①③④を複合した説だ。家康を江戸に配置することによって関東一円及び東北ににらみを利かせ、同時に海運の要衝も押さえたかった秀吉と、転封を前向きにとらえていた家康の思惑が、一致したというものである。

いずれにせよ、関白・秀吉の命に背くことはできない。小田原征伐以前に家康が治めていたのは三河・遠江・駿河・信濃・甲斐の5カ国。新しい領地は上野・下野・武蔵・上総・下総・相模・伊豆で、石高は240万石に加増されてもいた。この石高は豊臣配下の大名のトップだった。そして、新領地の中心が江戸だったのである。

江戸城の基礎を築いた太田道灌

その江戸だが、これまでは家康が入府する以前は湿地帯の多い寂れた漁村に過ぎなかったといわれていたが、最近では前述の通り海運の要衝地であり、十分な都市機能も備わっていたと分かってきた。寒村だった城下の開発を最初に進めたのは家康とする説は、「神君」家康の功績をことさら強調するため、後世に創作された可能性が指摘されている。

では、家康以前の江戸はどのような地だったのか、江戸の歴史を概観してみよう。

まず江戸の地名だが、これは「江の門戸」の意味で、入り江の出入り口であると、江戸中期の学者・荻生徂徠(おぎゅう・そらい)が随筆集『南留別志(なるべし)』で述べている。つまり、湊(港)である。この入り江が「日比谷入江」で、おしゃれな商業ビルが立ち並ぶ日比谷・有楽町一体は、かつては海だったのである。

「江の門戸」を名字として同地を支配したのが、鎌倉幕府の御家人だった江戸氏だ。源頼朝に仕えた江戸重長(しげなが)が知られる。

戦国時代の端緒となった享徳の乱(1454〜83)では、太田道灌(おおた・どうかん)が江戸に進出してくる。道灌は相模の守護を務めた扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)家の家宰(家政を取り仕切ること)だった人物で、1457(長禄元)年に築城したのが、江戸城の原型である。

JR日暮里駅前(東京都荒川区)に立つ太田道灌の銅像。(PIXTA)
JR日暮里駅前(東京都荒川区)に立つ太田道灌の銅像。(PIXTA)

さらに、このときの江戸城は、道灌だけでなく扇谷上杉が総力をあげ、「数年秘曲を尽くして相構えた」と、『松陰私語』(しょういんしご)という戦記にある。秘曲は「秘伝」の意味もあり、築城の極意を尽くして建てたと読める。

1476(文明8)年に江戸を訪れた僧侶が、江戸の様子をこのような詩に詠んでいる。
「艫綱(ともづな/船を陸につなぎとめる綱)をつなぎ、櫂(かい)をかき、日々市を成せり」(寄題江戸城静勝軒詩序)。

多くの船が湊に浮かび、市が開かれ活況だった—と。なお、静勝軒とは江戸城の高楼のことである。

『永禄江戸圖』は北条が支配していた時代の江戸を推測して描かれたと考えられる絵図。①江戸城 ②日比谷入江。島根大学附属図書館デジタルアーカイブより
『永禄江戸圖』は北条が支配していた時代の江戸を推測して描かれたと考えられる絵図。①江戸城 ②日比谷入江。島根大学附属図書館デジタルアーカイブより

その後、1524(大永4)年に扇谷上杉を破った北条の支配下となり、北条は道灌が築いた江戸城を引き続き活用し、代官を置いた。それが、北条滅亡によって家康が手中に収めた。家康が江戸に来て入った城は、元をたどれば道灌が築いた城だった。

それほどの地を寒村だったとするのは、無理があるといえよう。

家康は江戸の可能性に賭けた

家康の事績をまとめた史料『落穂集(おちぼしゆう)追加』は、彼が入った当時の江戸城をこう記している。

「(城には)二の丸、三の丸、外郭にある家までそのまま残っていた。(中略)だが、ことのほか古い家屋だったため、本多佐渡守(さどのかみ / 正信)が『これは見苦しい』と言上したところ、(家康は)笑って家づくりにはかまわず、本丸と二の丸の間の堀を埋めて、城の普請を急いだ」

戦乱はまだ続くと予想されたため、城の修築を急いだということだろう。

一方、商船が頻繁に日比谷入江に来航し、城下には商人が集い、民家もあり、利根川や荒川などの河川が海に続いていたため、船を利用した水運は盛んだったと考えられる。陸上交通の面でも、鎌倉・八王子・川越などに連なる街道があった。だからこそ道灌は城を築き、北条がそれを引き継いだ。江戸はすでに発展していたというのが、近年、有力視されている説なのである。

1602(慶長7)年作成の『慶長江戸図』は、②『永禄江戸圖』より時代が下った江戸。江戸城拡張(赤枠)が始まっていたが、日比谷入江はまだ海だ。のちに埋め立て工事が始まる。東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
1602(慶長7)年作成の『慶長江戸図』は、②『永禄江戸圖』より時代が下った江戸。江戸城拡張(赤枠)が始まっていたが、日比谷入江はまだ海だ。のちに埋め立て工事が始まる。東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

それでも、開発はまだ不十分だった。家康は江戸が持つ可能性に賭け、さらに成長させようと考えた—これが江戸を選んだ理由、そう捉えていいのではなかろうか。

その後、江戸が巨大都市に発展していくのを見れば、慧眼の持ち主だったといえる。

[参考文献]

  • 『都市計画家 徳川家康』谷口榮 / MdN新書
  • 『家康の都市計画』谷口榮 / 宝島社
  • 『徳川家康「関東国替え」の真実』安藤優一郎 / 有隣堂
  • 『家康はなぜ江戸を選んだか』(江戸東京ライブラリー9)岡野友彦 / 教育出版
  • 『江戸 平安時代から家康の建設へ』齋藤慎一 / 中公新書

バナー写真:現在の皇居(かつての江戸城)の空撮(PIXTA)

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