知っているようで知らない徳川家康

戦国時代屈指の戦いを描いた「長篠合戦図屏風」

歴史 文化 政治・外交

1575(天正3)年、織田信長・徳川家康連合軍と、武田勝頼との間で起きた長篠の戦いは、戦国時代屈指の合戦といわれ、これまで多くの映画やドラマの題材となってきた。その模様を描いた図屏風が、激戦を今に伝える。

数千挺の鉄砲で武田をせん滅

長篠の戦いは1575(天正3)年4月、武田勝頼1万5000(兵数は諸説あり)の大軍が徳川家康の支配下にあった長篠城(愛知県新城市)に攻め込んだことによって始まった。長篠城に籠城した兵は、わずか500弱。落城は時間の問題と思われたが、20日間近く武田の包囲をしぶとくしのいだ。その間に、織田信長が3万の軍勢を率いて家康の支援に動いた。家康軍8000と合わせて、総勢3万8000となり(こちらの兵数も諸説あり)、設楽原(したらがはら)という南北に長い窪地に布陣した。

武田も引っ張り出されるように設楽原に陣を張り、5月21日、両軍は激突した。結果は、武田軍の壊滅で終わった。信長は3000挺(ちょう)ともいわれる大量の火縄銃を用意し、武田の騎馬隊を打ち破った。

もっとも、この3000という数字は曖昧で、一次史料である信長の一代記『信長公記』(しんちょうこうき)でさえ1000挺、3000挺など、写本によって数字が異なる。『信長公記』などを元にした二次史料『当代記』では、紀州(和歌山)の傭兵軍団である根来・雑賀衆(ねごろ・さいかしゅう)が2000挺の鉄砲を携えて参陣したとの記載もあり、実数は判然としない。

いずれにしろ、最新鋭の武器である火縄銃を数千挺準備する力を、信長は持っていた。火縄銃の集積地・堺(大阪府)を支配し、着々と鉄砲隊を組織していたのである。

歴史家の平山優氏によると、実は武田も鉄砲を多く揃えていたが、銃弾と火薬が不足していたという。海外貿易の要衝である堺を押さえていた信長は弾・火薬の原料となる鉛や硝石(しょうせき)が手に入りやすかったが、内陸の甲斐国(山梨)を本拠とする武田は欠いていた。平山氏は信長が経済封鎖していた可能性も指摘している。圧倒的な物量の差の前に、歴戦の勇士で編成された武田騎馬軍団は屈した。

その激戦の様子を描いた絵画が、『長篠合戦図屏風』である。

『長篠合戦図屏風』犬山城白帝文庫所蔵
『長篠合戦図屏風』犬山城白帝文庫所蔵

『長篠合戦図屏風』は代表的なものだけでも10点近くが現存するが、今回は犬山城白帝文庫所蔵の『成瀬本』(後の徳川御三家尾張藩の家老・成瀬家に伝来したもの)を紹介したい。

元和元(1620)年に没した成瀬家当主・正一の指示によって制作されたという。その後に制作される図屏風の祖型と考えられている作品だ。

戦国三英傑が1枚の図屏風に登場

『長篠合戦図屏風』の最大の特徴は、織田信長・羽柴(豊臣)秀吉・徳川家康の「戦国三英傑」が、1枚の屏風に揃って登場している点にある。後に代わるがわる天下人となる3人が一同に会していたことからも、この合戦の重要性が分かる。

信長は最も左、つまり最後尾を悠々と進軍している。先導する弓持ちが抱える矢入れに、信長の家紋「織田木瓜(もっこう)」が見える。他にも数種類の家紋があり、このことから信長が複数の紋を使っていたことが分かる。

『長篠合戦図屏風』より織田信長を描いた部分を拡大 / 犬山城白帝文庫所蔵
『長篠合戦図屏風』より織田信長を描いた部分を拡大 / 犬山城白帝文庫所蔵

旗印には「永楽通宝」の紋だ。『信長公記』を元に書かれた江戸時代初期の『甫庵信長記』(ほあんしんちょうき)は、信長が「永楽通宝」の紋を使っていたことを記している。近習の背中には、「十五葉菊」(15枚の花弁を持つ菊)がある。菊紋は天皇家の紋であり、『寛政重修諸家譜』(大名や旗本の家系図)の織田家の章には、「(菊紋を)禁裏(天皇の住む所)よりたまふ」とある。

一大決戦にあたって、経済力(通貨)と権威(天皇)の象徴である紋を見せつけようとしたのだろうか。絶対に勝つという、信長の並々ならぬ意志を垣間見ることができるようだ。ただし、大阪城天守閣所蔵の長篠合戦図屏風には菊紋は描かれていない。

秀吉は信長の右斜め上、設楽原の南側にいる。代名詞ともいえる「金の瓢箪(ひょうたん)」の馬印もある。ただし、秀吉は『信長公記』によればもっと前線にいたとされており、この位置だとやや後方に下がっている。

『長篠合戦図屏風』より羽柴秀吉を描いた部分を拡大 / 犬山城白帝文庫所蔵
『長篠合戦図屏風』より羽柴秀吉を描いた部分を拡大 / 犬山城白帝文庫所蔵

家康軍は右翼(北側)を担っていた。正面には武田の主力がいた。武田の狙いは、まず徳川を崩すことだったと考えられる。黒い馬に乗っているのが家康だ。旗にある「五」の文字は、国を守護する5人の仏「五大力菩薩」を意味している。

なお、馬上の人物の左上に「植村庄右衛門」の名前があるが、犬山城白帝文庫はこの人物が家康であると認定している。

『長篠合戦図屏風』より徳川家康を描いた部分を拡大 / 犬山城白帝文庫所蔵
『長篠合戦図屏風』より徳川家康を描いた部分を拡大 / 犬山城白帝文庫所蔵

家康隊には、当時の徳川家臣団の実力者が勢ぞろいしている。①石川数正、②鳥居元忠、③平岩親吉、④本多忠勝、⑤大久保忠世である。特に大久保隊は前線におり、武田軍の⑥山県昌景(やまがた・まさかげ)の部隊に相対している。昌景隊は武具などを朱色で統一した「赤備え」と呼ばれ、武田の精鋭部隊だった。

『長篠合戦図屏風』より徳川の家臣たちと戦死した山形昌景を描いた部分を拡大 / 犬山城白帝文庫所蔵
『長篠合戦図屏風』より徳川の家臣たちと戦死した山形昌景を描いた部分を拡大 / 犬山城白帝文庫所蔵

そして、昌景は銃弾に倒れる。図屏風には絶命した昌景の首を敵に奪われまいとして、⑦家臣が首を落として自陣に待ち帰ろうとする姿があり、戦場の凄惨さを伝えている。

馬防柵と鉄砲三段撃ちの謎

織田・徳川軍は設楽原に武田騎馬隊の突進を防ぐ馬防柵を築き、さらに数千の鉄砲を「三段撃ち」する戦法を用いたといわれてきた。

『長篠合戦図屏風』より馬防柵の内側から銃弾を浴びせる織田軍を描いた部分を拡大 / 犬山城白帝文庫所蔵
『長篠合戦図屏風』より馬防柵の内側から銃弾を浴びせる織田軍を描いた部分を拡大 / 犬山城白帝文庫所蔵

しかし、馬防柵は3日間の突貫工事で2キロに渡って作ったといわれるだけあって、屏風図で見る限り、いかにも急ごしらえで、ぜい弱で耐久性に劣るように見える。

また、馬防柵が馬の突撃を食い止めるためなら、鉄砲隊は柵の内側にいるべきだが、柵の外にいる兵も少なくない。ここから、実は防御に見せかけた「罠」だったとの説がある。わざとみすぼらしく見せることで、武田騎馬隊の突進を促したのではないか、というわけだ。

鉄砲三段撃ちにも疑問が呈せられた。三段撃ちというからには、鉄砲隊は3列に並んで銃撃体制をとっていたと考えがちだが、3列はどこにもない。2列に並んでいるのが、わずかに1カ所あるだけだ。また、そもそも設楽原は鉄砲隊が3列に重なって並ぶことが可能な地形ではないという。

実際には列をなして銃撃するのではなく、足軽が3人1組で、1人が撃ったらいつでも次の者が撃てるように備えていたのではないか、と考えられるようになった。これならば、発射までに時間を要する火縄銃を効率的に使える。さらに、柵だけではなく空堀など掘削し、堀からも鉄砲を撃っただろう。『信長公記』には「鉄砲散々に打ち立て」とあり、無数の銃撃によって武田軍が壊滅したのは事実と考えていい。

武田の総大将・勝頼は次第に圧倒されるなか、撤退を決意する。宿老たちは勝頼の退却を助けるため、山県昌景の他、原昌胤(はら・まさたね)、土屋昌続(つちや・まさつぐ)らが相次いで戦死した。

『長篠合戦図屏風』より武田勝頼を描いた部分を拡大 / 犬山城白帝文庫所蔵
『長篠合戦図屏風』より武田勝頼を描いた部分を拡大 / 犬山城白帝文庫所蔵

武田軍の殿(しんがり)を務め、勝頼を逃すのに貢献した馬場信春(ばば・のぶはる)も討ち死にした。彼も信玄以来の宿老だった。

勝頼が信長に追い詰められて自刃し、武田が滅亡するのは、この合戦の7年後である。

〔参考文献〕

  • 『徳川家康と武田勝頼』平山優 / 幻冬舎新書
  • 『絵で知る日本史 長篠合戦図屏風』 / 集英社
  • 『「合戦図屏風」で読み解く! 戦国合戦の謎』小和田哲男 / 青春出版社

バナー写真 : 『長篠合戦図屛風』の家康陣営の部分。画像は犬山城白帝文庫所蔵

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