知っているようで知らない徳川家康

家康は武田信玄との合戦に一度も勝てなかった

歴史 文化 政治・外交

徳川家康には、命を落としかねない危機が何度かあった。その1つが武田信玄との戦いだ。家康はこと戦(いくさ)では、信玄に歯が立たなかった。最強の敵といっていい。だが、乱世に終止符を打ち、最終的な覇者となったのは家康である。家康と信玄、いったい何が違っていたのか。

信玄との直接対決は家康の2分6敗

後に天下人となる家康を苦しめた武田信玄。

2人は1571-73(元亀2-4)年にかけて8回にわたって直接対決している。戦績は家康の2分6敗。

この数字だけを見ると、家康が戦下手に思えるかもしれないが、決してそうではない。家康が合戦に負けたのは、生涯で10回だけ。そのうち、6回が信玄に苦杯を喫したものであり、信玄の息子・勝頼にも1回負けているので、武田は不倶戴天の敵だったのだ。

信玄は、甲斐源氏の名門の出である。最近の研究では父・信虎が甲斐国(山梨県)に強固な地盤を築いており、信玄がそれを受け継いだことも分かってきた。信玄は生まれながらにして、指導的な支配層に属していた。

一方の家康も、まがりなりにも戦国大名の家の嫡男ではあったが、生まれた当時は東海地方の弱小勢力に過ぎなかった。

つまり、生まれながらの戦国エリートと日陰に根を張る雑草というほどスタートラインは違っていた。

「太平記英勇伝 武田大膳大夫晴信入道信玄」東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
「太平記英勇伝 武田大膳大夫晴信入道信玄」東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

三方ヶ原の戦いを生き抜いた幸運

歴史に「if」は禁物だが、もしあの時、家康が死んでいたら、江戸に幕府は誕生せず、世界有数の大都市となる東京もなかったかもしれないという出来事が1573年1月25日(元亀3年12月22日)の三方ヶ原の戦いである。信玄に喫した6敗の中で、家康が最も大きな危機に直面した合戦だった。

この戦いはこれまで、信玄が室町幕府15代将軍・足利義昭の命に応じて上洛する途上の浜松城近辺で起きたといわれてきた。家康は当初、浜松城に籠城して信玄を迎え撃つ予定だったが、信玄の策に乗せられ、おびき出される形で三方ヶ原で野戦に及んだともいう。

近年、信玄は京を目指していたわけではなく、遠江(とおとうみ/ 静岡県西部)を手中に収めるのが目的の軍事行動だったとの新説が提示された。遠江は家康が治める三河(愛知県東部)に隣接している。ここを押さえられるのを、家康は何としても避けたかった。さらに、家康はおびき出されたわけでもなく、徳川軍の偵察隊が武田軍と偶発的に衝突したことで始まったとも言われる。つまり開戦は「不慮」(『当代記』)の出来事であり、この説にのっとれば、家康は野戦に及ぶ準備ができていなかったことになる。

いずれにせよ、両軍の戦力は武田軍約2万7000に対して徳川軍約1万1000だったといわれ、数の上で徳川の劣勢は明らかだった。序盤は奮闘したが、武田軍の反撃にあうと、ついに総崩れとなった。

家康も討ち死寸前まで追い込まれ、必死で逃げた。からくも浜松城に帰還できたのは、夏目広次や本多忠真ら、多くの家臣が命を投げうってまで家康を守ったからだった。手痛い敗北だった。これによって遠江の支配権は信玄に奪われた。

三方ヶ原では、眼前で重臣たちが次々と討ち死にするのを見て、家康が恐怖のあまり糞尿を漏らしながら逃亡したという逸話が残されている。「徳川家康三方ヶ原戦役画像」は無謀な野戦に挑んだ自らを戒めるため、恐怖に歪んだ顔をあえて絵師に描かせたとされている。

実は、この絵を三方ヶ原の戦いに関連づける根拠はなく、家康が描かせたというエピソードも怪しいと学術的には否定されている。しかし、堂々とした正装の東照大権現像とは違い、頬がこけ、憔悴しきった表情で足を組む姿が印象的なためか、一般には「慢心を戒めるの図」として人気だ。最近では、ソフトバンクグループの孫正義会長兼社長が大赤字決算を発表する際の背景に映し出し、話題になった。

足を組み、苦しい表情を浮かべる家康の姿を描いたといわれる「しかみ像」の複製=愛知県岡崎市の「三河武士のやかた家康館」(共同イメージズ)
足を組み、苦しい表情を浮かべる家康の姿を描いたといわれる「しかみ像」の複製=愛知県岡崎市の「三河武士のやかた家康館」(共同イメージズ)

三方ヶ原の戦い後の1573(元亀4)年2月、わずか30キロ南西にある三河野田城をめぐって、家康と信玄は再び、あいまみえた。結果は、またも徳川の苦敗。家康の拠点・三河の岡崎は、いよいよ丸裸同然となった。

ところがその2カ月後。病を得ていた信玄の病状が悪化し、武田軍は進軍を止め、甲斐に引き返す。その途上、信玄は没した。53歳だった。

最強の敵の死によって、家康は危機を脱した。命を失いかねない場面で、なぜか、突然に道が開ける—家康の人生の特徴でもある。

家康の全盛期は信玄の死後

信玄は1521年12月1日(大永元年11月3日)生まれである。大永年間は、当時の日本の政治機構・室町幕府の12代将軍・足利義晴(あしかが・よしはる)が京都を逐(お)われるなど、幕府の権威失墜が顕在化しつつある時代だった。一方の家康は、1543年1月31日(天文11年12月26日)生まれ。天文年間は幕府の失速を尻目に、関東や東海の戦国武将が激しい戦いを繰り広げていた時代だった。

2人は親子ほども年齢が離れていたのだ。20歳以上の年齢差があれば、寿命が尽きるのは信玄の方が早い。

信玄は川中島を舞台に、上杉謙信と数度にわたって激闘を繰り広げた、屈指のレジェンドだが、これらの戦いは信濃(長野県)の支配をめぐる局地戦である。彼の全盛期は、まだ各地で武将たちが局地戦に没頭していた頃だった。信玄の没後の時代は違う。織田信長、豊臣秀吉が天下取りを目指して広範囲で戦いを展開した。家康も関ヶ原の戦いなど、局地戦とは規模の違う天下を二分する大戦をリーダーの立場で勝ち抜き、日本を統一する。最終的な覇者は家康だった。

仮に信玄が長生きしていれば、天下は武田のものだったかもしれない―といわれることもある。だが、江戸幕府の創設によって安定した政治・経済を築き、さらに徳川の治世がその後、約260年続くなど、後世に多大な影響力を残したのは、皮肉にも直接対決で信玄にまったく歯が立たなかった家康だった。

最終的に雑草・家康が勝者となれたのは、全盛期を迎えるのが信玄の死後だったからである。

〔参考文献〕

  • 黒田基樹が教える徳川家康のリアル / エムディエヌコーポレーション
  • 徳川家康のすべて / ワン・パブリッシング

バナー写真 : 三方ヶ原の戦いを描いた「元亀三年十二月味方ヶ原戦争之図」。(左上)馬上で刀を振るうのが家康。(右)白馬に乗っているのが信玄。浜松市文化遺産デジタルアーカイブより

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