
徳川家康の女性観 : 後家好みだったのか? 賢女好みだったのか?
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乳幼児の生存率が低い時代
権力者は、自分が持つ権勢や財力を子どもに受け継がせたいと願う。
かつて生まれた子の生存率は低かった。一例だが江戸時代中期〜後期、1歳未満乳幼児の死亡率は10%台後半だった(『人口から読む日本の歴史』講談社学術文庫)。この数字は濃尾地方(愛知・岐阜・三重県にまたがる平野部)におけるものだが、他地域もほぼ同じだったろう。
医療・治安・食料事情が劣悪だった戦国期は、さらに死亡率が高かったはずだ。たとえ成長しても、戦で討ち死にすることもある。そこで、権力者は多く子を持とうとした。たくさん子どもがいれば、生き残る者もそれだけ多い。
天下を統一し、江戸幕府を開いた徳川家康もまた、後継ぎ候補を確保する重要性をよく知っていた人物である。系図や史料で確認できる子どもの数は16人に上る。正室の築山殿が産んだのは1男1女。継室の朝日姫(豊臣秀吉妹)との間に子はなし。残る14人(男児10人、女児4人)は、19人いた側室のうちの10人が産んだ(側室と子どもの数は諸説あり)。このうち何人かは夭折し、正室の築山殿とその子・信康は、家康自らが粛清してしまった。妻子を見捨てた背景には、長年敵対していた武田氏との関係を巡って、あくまで武田と戦う意向の家康派と、対武田を見直そうとする信康・築山殿派の路線対立があったという。
このため、側室との間に生まれた子たちが、徳川の次代を担うことになる。後の2代将軍・秀忠をはじめ、福井(福井県)・尾張(愛知県)・紀伊(和歌山)・水戸(茨城)の各藩の藩祖を産んだのは、側室である。娘たちも有力大名家に嫁いだ。
徳川の繁栄に、側室たちが果たした役割は大きかった。
山梨県早川町のお万の方の銅像。家康との間にもうけた2人の息子、頼宣と頼房はそれぞれ紀州藩と水戸藩の藩祖となった。後の御三家のうちの二家は、お万の方の血を引いている (PIXTA)
聡明な側室・阿茶局とお梶の方
家康の側室は、敵対する大名家から徳川に取り込んだ家臣の娘や、神官の娘、関東の名門大名家出身など、さまざまな出自を持つ。側室の顔ぶれから、家康は後家好みだったとの説もある。
家康の側室と子どもたち
黄色ハイライトは側室となる前に出産経験のある女性
【側室】名前 / 出自 | 【子ども】出生順・名前(成長後) |
---|---|
西郡局 / 敵対した鵜殿長持の娘 | 2女 督姫(池田輝政妻) |
小督局 / 三河国の神官の娘 | 2男 結城秀康(福井藩藩祖) |
西郷局 / 今川氏家臣・戸塚氏の娘 | 3男 徳川秀忠(2代将軍) 4男 松平忠吉 (清州藩主) |
お竹 / 武田氏家臣の娘 | 3女 振姫(蒲生家妻→浅野家妻) |
お都摩 / 穴山信君養女 | 5男 武田信吉 (21歳で死去) |
茶阿局 / 出自不明 | 6男 松平忠輝 (家康死後に配流) 7男 松千代(夭折) |
お亀 / 石清水八幡宮神職の分家の娘 | 8男 仙千代 (他家へ養子、夭折) 9男 義直(尾張藩藩祖) |
お久 / 北条氏家臣の娘 | 4女 松姫(夭折) |
お万 / 正木頼忠の娘 | 10男 頼宣(紀伊藩藩祖) 11男 頼房(水戸藩藩祖) |
お梶 / 関東名門の遠山氏の娘(?) | 5女 市姫(伊達政宗の息子と婚約も夭折) |
お富 / 出自不明 | なし |
お夏 / 伊勢北畠氏家臣の娘 | なし |
お六 / 今川氏家臣・黒田氏の娘 | なし |
お仙 / 武田氏家臣の娘 | なし |
お梅 / 豊臣氏家臣の娘 | なし |
阿茶局 / 武田氏家臣の娘 | なし |
お牟須 / 武田氏家臣の娘 | なし |
お松 / 出自不明 | なし(家康との間に落胤ありとの説も) |
三条氏 / 出自不明 | なし(家康との間に落胤ありとの説も) |
確かに、戦乱の世を生き抜く中で、後継ぎを確保することを重視して後家を選んだ可能性も否定はできないが、上表にある通り、西郷局・茶阿局・お亀の方・阿茶局らが寡婦だった時に家康の側室となった程度で、ことさら「後家好み」と決めつけるのも無理がありそうだ。
むしろ公私両面で支えとなる気丈夫で頭脳明晰な女性を好んだと見ていい。そこに、家康の女性観の特徴がある。
代表格が阿茶局だ。この女性は家康の側室となる前に婚歴があり、すでに子もいたが、夫と死別後、家康に見初められた。
家康からの信頼は厚く、戦場にまで連れていったという逸話もある。また、2代将軍・秀忠と家康4男・松平忠吉の養育係を務めている。1614(慶長19)年の大坂冬の陣では、徳川方の使者として和議の交渉を担うなど、外交手腕にも長けていた。
不運にも懐妊しなかったが、それでも家康は寵愛した。女性に望むことは、決して子作りだけではなかったのである。
一方、後家の女性ではないが、お梶の方の聡明さを物語るエピソードが、『故老諸談』(ころうしょだん)に所収されている。
家康から「いちばんおいしい食べ物は何か?」と問われたお梶の方は、「塩」と答えた。
「塩がないとどんな料理も味を調えられず、おいしくできません」。さらに続けて、「どんなにおいしい物も、塩を入れすぎると食べられません」
「男だったら、さぞや優秀な大将になったであろう」と、家康をうならせたという。
お梶の方の「塩」のエピソードを掲載した『故老諸談』。国立公文書館所蔵
家康はお梶の方が生んだ市姫(5女)を伊達政宗の嫡男と婚約させるが、わずか数え4歳で夭折した。他に子はできなかった。だが、11男・頼房の実母・お万の方が亡くなると、家康は頼房をお梶の養子にして教育も指示した。頼房はのちに御三家の水戸藩を創設することになる。お梶は倹約家で、小袖が洗いざらしでも新調しなかったと伝わる(『戦国おんな史談』潮出版社)。
待望した男児を産まなくとも、阿茶局とお梶という極めて聡明な2人の側室を家康は重用したのである。
晩年は若い女性に好みが変わった?
一方、晩年になると若い側室をそばに置きたがったようだ。
お夏は17歳で56歳の家康に仕え、大坂夏の陣に帯同するなど、寵愛を受けた。
お梅は15歳の時、59歳の家康の側室に迎えられた。前出のお梶も、市姫を産んだのは1607(慶長12年)で、家康はすでに60代だった。
戦国の世を戦い抜いてきた男が、老齢にさしかかって女性観に変化が現れ、年若い女性に癒しを求めたとしても不思議はない。
最後に、1836〜1837(天保7~8)年に成立したといわれる『披沙揀金』(ひさかんきん)に記された、家康の女性観について触れよう。この文献は家康・秀忠・家光の幕府黎明期3代の言行録だ。
「武士の女房は、公家の女性などと同じでなく、顔つき多少荒々しくみえるが良し」
「戦国の女は今時の男子より、かいがい敷(しく)働あり」
戦国時代を回顧した発言とされるから、晩年のものだろう。
後世に創作された言行といえるかもしれない。だが、美女を見れば見境なく関係を結ぼうとしたといわれる太閤・豊臣秀吉と、明らかに違う——と、少なくとも天保期には、家康はそのような女性観を持つ男と、語り継がれていたと見ていい。
現代とは家族観も女性観も異なる時代のことではあるが、天下を取った男は、容姿より内面、働き者でかいがいしい女性に内助の功を求めたのかもしれない。
バナー写真 : 阿茶局が開基した雲光院(東京都江東区)所蔵の肖像画。家康の死後も出家せず、2代・秀忠、3代・家光に仕え、幕府と朝廷の融和政策を進めるなど手腕を発揮し、1637(寛永14)年、83歳で逝去した。(筆者撮影)