家康の宗教観―三河一向一揆と本願寺への対処、キリスト教禁教
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宗教勢力の強さを見せつけられた三河一向一揆
戦国時代の権力者と宗教の関係には、2つの特徴が見られる。
- 信仰は権力と切り離し、独立したものであることを容認
- 一方で、強硬なまでに権力に従わない時は弾圧
基本的には容認し、柔軟な姿勢で対処するのが、戦国大名の宗教政策だった。比叡山や大坂本願寺を徹底的に弾圧した織田信長でさえ、柔軟策を併せ持っていた。弾圧したのは、信長と妥協せず敵対の姿勢を崩さなかったからである。
戦国時代は「聖=信仰」と「俗=政治権力」がすみ分けされており、大名たちも基本的には宗教を保護し、政治的に対立した時だけ弾圧が行われたという(『徳川家康』柴裕之 /平凡社)
一方、若き日の家康は経験不足から、上記の考え方を持っていなかった。だが、知見を得るきっかけとなる出来事があった。1563(永禄6)年に起きた三河一向一揆との戦いである。
この時、家康は三河国(現在の愛知県東部)を平定する戦いの渦中にあり、兵糧(戦時における軍の食料、米のこと)が必要だった。不足を補うため、一向宗の寺院から強引に徴収した。この無謀な強硬策が僧侶・信徒との対立を招き、ついに戦闘に突入したのである。
一向宗とは当時の「浄土真宗本願寺派」のことで、親鸞を宗祖とする浄土真宗の宗派だ。家康が生きた戦国時代は最大規模の宗教武装勢力でもあり、寺院は戦国大名も容易に手を出せない、いわば治外法権だった。
家康は、そうした一大勢力を敵に回した。戦いは家康の「三大危機」の1つに数えられるほど熾烈だった。家康の家臣にも一向宗信徒がおり、彼らが離反して本願寺派に付くなど分断された。戦いは短期間では収まらず、一進一退を繰り返すものの、長引く戦いに次第に一揆勢は疲弊していく。
そこで家康は、一揆側が持ち出した寺の不入権と僧・信徒の助命を条件とする和睦案をのみ、武装を解除させた。その後、和議を反故にして寺を破却。三河から僧と信徒を追放するという謀略を用いて決着した。
以降20年、本願寺との関係を絶った。よほど懲りたのだろう。三河一向一揆は宗教勢力の恐ろしさ、手強さを家康に見せつけた。
なお、本願寺は現在、京都・西本願寺を本山とし、文化庁『宗教年鑑』令和4年版によれば信者数779万人で、仏教系ではトップである。
宗教勢力を利用し、力を削ぐ
ところが20年後、家康は本願寺派の力を利用しようと画策し始める。
1583(天正11)年12月、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と対立して一触即発の状態に陥った家康は、本願寺派門徒を許し、三河領内での寺院再興を認めた。秀吉と戦うには、本願寺派武装勢力が必要だったからだ。だが、本願寺派はこの時、すでに秀吉と通じていたため、家康の計画は頓挫する。
しかし、その後も本願寺派との融和を進めた。あれほど嫌っていた宗教勢力を懐柔し、なんとしても味方に付けたかったのである。実益最優先の家康の資質は、この頃には顕著になっていたといえる。
本願寺派を懐柔していたのは秀吉も同じだったが、秀吉も没し、家康が天下を狙い始めると、異変が起きる。
一向一揆が嵐のように吹き荒れた16世紀半ば、本願寺の宗主は11世・顕如(けんにょ)。教団は顕如の時代に最盛期を迎えたが、顕如の子で12世だった教如(きょうにょ)は1603(慶長8)年頃、本願寺を出て御影堂(祖師などの御影を安置する堂)を建立する。つまり、別宗派を立てた。
本願寺派は2つに割れ、以降現在まで西本願寺と東本願寺が並列する形となった。
この分断劇は、三河一向一揆に苦しめられた家康が本願寺を弱体化させるため教如を推して画策したとの説がある。それを証明する史料は存在しないため断定はできないが、可能性は否定できない。
だが、東西分裂の真相がどうであれ、家康が天下を取ると、戦国時代の「聖」「俗」のすみわけは消え、本願寺は幕府の支配下に置かれることになっていく。ここに、それまでの権力者とは違った、宗教観の特徴があるだろう。
キリスト教には慎重に対応し、最後は禁教
宗教家との関係は、天台宗の天海(てんかい)大僧正と、臨済宗の金地院崇伝(こんちいん・すうでん)も見逃せない。2人は家康が文治政策のブレーンとして登用した人物だが、影響は宗教政策にも少なからず及んだ。キリスト教の禁教である。
家康は、幕府を開府した当初の1603(慶長8)年頃は、キリスト教の布教を認めていた。海外との貿易によって利益を確保するためには、布教活動も認めざるを得なかったからだ。経験を積んだ家康には、戦国時代の大名の政策を踏襲する柔軟性があった。
だが、キリスト教は神の下で万民の平等を説くなど、封建社会においては危険思想でもあった。さらに1606(慶長11)年の1年間で8000人が洗礼を受けるなど、看過できない状況となってきた。家康はキリスト教を怖れた。
仏教の指導者である天海や崇伝らは、そもそも異教であるキリスト教と相容れない。おそらく2人は禁教を支持し、家康に薦めたろう。1612(慶長17)年、江戸・駿府・京都・長崎に禁教令が出され、翌年には全国に拡大した。
イスパニアの使節が「貿易に向いた港を探すことを許してほしい」と、江戸から東北にかけて海岸線を調査したことも、禁教に拍車をかけた。
調査の目的は港ではなく、実は金銀の採掘場を探すことにあった。イスパニアの狙いは貿易のみならず、領土的野心であると、家康は気づいたのである(小和田哲男『徳川家康大全』KKロングセラーズ)
キリスト教との関係においては、柔軟な対応から一転して強硬策に出て、最終的には貿易による実利のみコントロールする体制を築いた。家康の用心深さが、ここにも見られる。
〔参考文献〕
- 『徳川家康 境界の領主から天下人へ』柴裕之 / 平凡社
- 『徳川家康大全』小和田哲男 / KKロンクセラーズ
- 『徳川家康 知られざる実像』小和田哲男 / 静岡新聞社
- 『本願寺はなぜ東西に分裂したのか』武田鏡村 / 扶桑社新書
バナー写真 : 家康が兵糧を強引に徴収したのが、三河国の上宮寺。これをきっかけに、三河の一向宗は蜂起する。この画像はのちの「長島一向一揆」(1570〜1574年)を描いた『上宮寺絵伝』の一部だが、三河一向一揆でもこのように、僧侶が甲冑を身に付け家康の軍と戦ったと考えられる。上宮寺旧蔵 / 岡崎市美術博物館提供