
徳川家康のルーツを探る : 「源氏」の出という説は実は曖昧
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徳川発祥の地は群馬県?
徳川家康のルーツは、実ははっきりと分かっていない。歴史家がこの謎をひも解こうとしたが、確固たる史料がないのだ。現存する史料はいずれも後世、意図的に家康の功績を賞賛するように編纂(へんさん)した「伝記」のたぐいで、信ぴょう性に欠けるのである。
そうした史料の1つに『三河物語』がある。徳川の有力な家臣だった大久保忠教(おおくぼ・ただあつ)が著した書だ。成立は1626~32(寛永3~9)年頃。ここに、徳川のルーツが載っている。
徳川の名字は家康が名乗りはじめたもので、以前は「松平」だった。『三河物語』は、その松平の始祖を松平親氏(まつだいら・ちかうじ)とする。幕末まで日本を支配する徳川は、この親氏から始まるのだが、親氏が松平を称するまでの経緯が面白い。
愛知県豊田市松平町の松平郷園地に立つ親氏の銅像。1993年に建てられた(PIXTA)
親氏は、上野国にあった新田荘世良田村(にったのしょうせらだむら)の徳川郷(得川とする説もある)で生まれた。現在の群馬県太田市だ。
親氏の系図をさかのぼると、新田義季(にった・よしすえ)という人物に行き当たり、さらに義季の父は源義重(みなもとの・よししげ)。「源」が意味するのは、武家の名門・清和源氏の流れをくむということだ。
親氏は出家して時宗(じしゅう/浄土宗の一派)の僧侶となり、諸国を巡る修行に出る。流れ着いた三河国(現在の愛知県)松平郷で、跡継ぎのいなかった土豪の松平太郎左衛門尉信重(まつだいら・たろうざえもんのじょう・のぶしげ)の娘婿となり、松平を継いだ。
『三河物語』の親氏が松平の後継ぎとなる場面。①「松平」の②「独媛(ひとりひめ=ひとり娘)に、③「徳阿弥(とくあみ)」という僧が④「婿(むこ)入り」し、「親氏」と名乗ったと記している。徳阿弥とは親氏の僧名。国立公文書館所蔵
あくまで『三河物語』の記述であり、鵜呑みにはできないが、これが家康の祖先だ。
現在、群馬県太田市世良田町の源義重館跡といわれる場所に、「世良田東照宮」が立つ。東照宮は死後の家康を神として祀(まつ)った神社で、ここを徳川発祥の地であるとうたうが、親氏が源氏の流れをくむ新田義季の子孫であることを証明する史料は今のところ見つかっていない。
義父となった松平信重の出自も確定できない。『松平氏由緒書』(松平郷に伝わる史料)には日本の神官の名門氏族、賀茂氏や鈴木氏の流れをくむと記されているが、確証はない。
つまり、松平のルーツは正確には分からず、したがって家康のルーツも曖昧と言わざるをえないのだ。
徳川=源氏説は代々伝わっていた名誉
一方、松平の菩提寺である大樹寺(愛知県岡崎市)には、家康の祖父である松平清康が建立した多宝塔があり、その心柱(塔の中心の柱)に「世良(田)」の墨書があることが2021年、岡崎市の調査で確認されている。清康は上野国の清和源氏「世良田」を、はっきりと名乗っていた。
歴史学者の小和田哲男氏は、「松平氏では、新田流徳川氏(世良田)というのが信じられていたのであろう」(歴史道Vol.25「若き日の家康」 / 朝日新聞出版)という。家康も当然信じていたと思われる。
そもそも戦国時代の名だたる武将は、ほぼ例外なく源氏、または平氏の流れを汲んでいると主張し、名門の出であることを拠り所としていた。織田信長もそうだった。源平は日本人の中でも特別な氏族であり、人民に対する威光も大きかったからだ。
松平のルーツは確かに不明瞭で、親氏の出自も曖昧(あいまい)だが、子孫たちは本気で源氏の末裔(まつえい)を自負していたのだろう。
松平が歴史に登場して以降
さらに時代が下ると、松平の詳細も少しずつ判明してくる。
前出の親氏の孫にあたる人物が、松平信光。この男から、より細かな歴史が分かってくる。生年は諸説あり1401~13(応永8~20)年に誕生し、歴史の表舞台に登場するのは1465(寛正6)年。室町幕府将軍・足利義政の命を受け、三河で起きた一揆を鎮圧した。当時の幕府政所役人、蜷川親元(にながわ・ちかもと)の日記にそう記されており、貴重な記録として信ぴょう性は高い。
さらに信光は1469(文明元)年頃、松平郷から安城(現在の愛知県安城市)に移って城を建てた。このことから、信光は松平の宗家(嫡流の家)である「安城松平氏」の祖とされる。一族を束ねる立場にあり、家康はこの安城の直系で、信光から数えて7代目にあたる。
信光は、男女あわせて48人の子をもうけたという。その子たちに三河の各地を分け与え、松平一族は拡大する。
だが、同族争いが起きた。信光から数えて5代目が前出の清康だが、清康は叔父と対立して宗家を追われることになった。そこで、岡崎(愛知県岡崎市)を領有していた一族の娘と結婚し、巻き返しをはかる。
家康以前の松平の全盛期は清康の頃で、彼は居城を岡崎に移し、ここを拠点に勢力を拡大。三河をほぼ手中の収めたのは、1529(享禄2)年頃だった。
『武徳大成記』松平清康君岡崎城ニ移セ給フ事。清康が岡崎城に拠点を移すのは1524〜26(大永4〜6)年のこと。以来、岡崎は松平の居城となる。国立公文書館所蔵
しかし、清康は家臣の裏切りに遭い、あっけなく命を落とす。この謀反は「守山崩れ」と呼ばれる。1535(天文4)年のことだった。有力者だった清康死後、名門を誇った松平氏は衰退の一途をたどった。家康が誕生した1542(同11)年は、松平不遇の時期だったのである。
これが、現在判明している家康誕生までの松平の歴史である。
家康は、弱小豪族松平を率いるマイナスからのスタートを余儀なくされた男だった。その男が、約60年の歳月を費やし、日本を統一するのである。
〔参考文献〕
- 『歴史道Vol.25「若き日の家康」』小和田哲男 / 朝日新聞出版
- 『三河 松平一族 徳川将軍家のルーツ』平野明夫 / 洋泉社MC文庫
- 『誤解だらけの徳川家康』渡邊大門 / 幻冬舎新書
バナー画像 : 徳川家康 / 東京大学史料編纂所所蔵模写