戦国武将・古田織部を主人公に、禅と茶道の“へうげた”世界観を描いた『へうげもの』が現世に問うもの
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禅に通ずる「茶の道」に生きた戦国大名の物語
日本では7世紀の中ごろから中央集権化が進められ、8世紀の初頭には「天皇をトップにした貴族たちの政権が全国を統治する」システムが、一応は成立した。
しかしやがて辺境の開拓地から「サムライ」が台頭。彼らは12世紀に「将軍」をリーダーとし、自分たちの政権「幕府」を打ち立てる。権威は天皇。武力は将軍。日本の中世では、こうした体制が成立するが、しかし中世も後半になると戦乱が全国に広がり、各地に小王国が成立する「戦国時代」に突入した。
日本は四方を海に隔てられた島国。民族の移動が少なく、そのためか伝統的に「世襲」の色が濃い社会だ(現代の日本でも国会議員の約3割が世襲)。しかしこの戦国時代は例外的に「強いヤツが勝つ」という実力主義の時代で、サムライ出身の領主「戦国大名」が全国に出現した。
中世ヨーロッパの諸侯たちも、獅子の勇気だけではなく「キツネの智恵」も兼ね備えていたことだろう。日本の戦国大名も、ただ勇猛であるだけではなく、現代でいうところの「ソフトパワー」にも通じる人々がいた。
そうした大名たちの間で流行した文化的ムーブメントが「茶道」。山田芳裕作のマンガ作品『へうげもの』は、その「茶道」を極めた茶人でもあり、戦いに生きるサムライでもあった武将、古田織部の生涯を描く歴史物語だ。第14回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞し、2011年にはアニメ化も行われた。
彼が「ハマっていた」茶の道とは、煎じ詰めればホストが茶を立てて、ゲストをもてなす行為。そのための道具や所作が定められていた。しかしそれはただのテーブルマナーではなかった。
明治時代に米ボストン美術館の中国・日本美術部長を務めた岡倉覚三(岡倉天心)は、茶道を海外に紹介するために著した「茶の本(The Book of Tea)」で、このように記している。
「茶道は日常生活の俗事に存する美しきものを崇拝することに基づく一種の儀式」
つまり「茶道」とは、「お茶を飲む」というごくごく日常の営みの中に、宇宙の原理にも通じるような普遍的な美しさを見いだす儀式。その奥義は「不完全なものを崇拝することにある」と岡倉は言う。
茶道の「道(DOU)」は柔道や武士道と同じ「道(DOU)」。英語では「Way」と訳されている。その「Way」の行き着く先はどこかというと、禅の「悟り」に通じる精神的な高み。実際、日本の歴史の中で茶道の巨人として知られる千利休は、禅の修行も怠らない人だった。
このお茶が戦国武将たちの間で大ブームとなっていたのだが、ブームとなると当然、茶を入れる道具にも凝ることになる。ここでややこしいのがその価値感で、繰り返すがお茶の世界は禅がベース。ささいな日常の中に、宇宙に通じる美を見出すのが作法。だから、宝石でピカピカのゴージャスな道具をつくれば価値が高いかというとそれは違っていて、「漁師の土間に転がっていた、縁(ふち)の欠けた茶碗がレア物の傑作だった」というようなややこしい話になる。
となると茶器の価値は、それを見極める“眼力”を認められた人だけが鑑定可能。先に触れた千利休は、当時最高の見識の持ち主と見られていた。
『へうげもの』の主人公、古田織部は実在の人物で、その千利休の高弟。のちには利休のあとを継いで「天下一の茶人」として知られるようになる人だ。
「美」に生きるか、「武」に生きるのか
物語の彼は、趣味の道に生きるか、武の世界に生きるか、悩める人物として登場してくる。最初はまだ一介の将校でしかないが、しかしその美的センスは本物。サムライとしても決して無能ではなく、ここぞというときは使者として死地に挑む勇気もあった。ただピンチの中でもつい茶器に目が行ってしまうところが欠点だった。
彼の主君は織田信長。この人は戦国大名の中でも異色の人物で、経済政策にも優れ、戦争にも強く、能力さえあれば出自を問わず人材を起用した。しかも鋭いセンスを持つ文化人でもあり、西欧の商人や宣教師の伝える海外の「美」も、理解する感性を持っていた。
もっとも、敵対する宗教勢力を徹底的に滅ぼしたり、無能な部下は容赦なく追放したりするという苛烈な性格でも知られていて、世界史でいうならば、文明史家、ブルクハルトに「最初の近代的人間」と評された神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世のような、複雑で魅力的なパーソナリティを持った人物だった。
ちなみにこの人は、東アジアにおいてはゲーム『信長の野望』の主人公として、ユーザーに知られている。
信長は分裂した日本の再統一を目指していたが、部下の明智光秀のクーデターによって殺される。信長の事業を受け継いだのは、やはり部下だった豊臣秀吉。彼はついに日本の統一を実現し、その後、利休を重く用いて茶道は全盛時代を迎えた。
と、ここまでは「史実」として知られる展開だが『へうげもの』では、さらに作者の想像力が発揮される。
実は、明智光秀をクーデターに踏み切らせたのは秀吉と、彼と共謀していた利休。秀吉はひそかに自分自身の手で信長を殺害していた。その陰謀の背景にあったのは「美意識の対立」。
信長の豪宕(ごうとう)で華麗な美の世界は、ミニマリズムの極地、黒を愛(め)でる利休には相いれないものだった。
1980年代、カラフルでゴージャスだったファッションの世界に、川久保玲のコム・デ・ギャルソンやヨウジヤマモトなど、日本発の「黒の衣装」が衝撃を与えたことがある。こうした黒の美意識はもともと日本の「侘(わ)び寂(さ)び」文化の伝統で、利休もまたそうした感性に生きる人だった。
だからこそ彼は信長抹殺を計画したのだが、後継者となった秀吉は、やがて信長の華麗な美学まで継承するようになる。秀吉は利休と対立し、ついには利休を殺すほか道がなくなった。
古田織部は、秀吉の苦悩を知る唯一の人物だった。その秀吉が逝ったのち、徳川家康が実権を掌握し、天皇から「将軍」に任命される。戦国時代が終わり、もはや圧倒的に「徳川ファースト」の世。しかしこのときになって、古田織部はごく少数の仲間とともに大陰謀を企てる。それもまた徳川の美意識との対立のためだった。
現代に通じる感性の物語
『へうげもの』とは、ユーモラスな人のこと。そのユーモアは、他者をおもしろおかしく笑うような単純なものではなく、複雑な味わいを意味する。実は信長、秀吉の活躍した時代は、そうした近代的なユーモア精神が生まれてきた時代でもあった。
たとえば信長は、自分の城に大きな石を置き「これを俺だと思って拝め」と部下たちに命じた。真剣な顔で石を拝む部下たちを見ながら、信長自身もあくまで真面目な顔を崩さずにいたに違いない。
利休も、お見舞いに肉を送ってきた弟子に「鶏肉じゃなくて銀を送ってくれないか」と書き送っているが、歴史学者の本郷和人氏は、これなども巨匠ならではのユーモアだったのではないかと指摘している。
『へうげもの』の古田織部もまた、そうした複雑な笑いの感性を愛する人だった。だが強烈な個性の持ち主が自分をのびのびと表現することができた戦国の世は終わり、真面目で安定志向の徳川家康の時代が来る。そうした波の中、古田織部は自分の人生の最後に、人生そのものを使って、自分の美意識を表現してみせた。まさに一世一代の作品を残して、物語は幕を閉じる。
江戸(現在の東京)に首都を置いた徳川政権は、やがて外国との交流を制限し、イノベーションを規制。「不完全なものを崇拝する」マインドは過去のものとなり、世の中で重視されるのはとにかく「整った形式」。しかしイノベーションと引き換えにするようにして日本社会は安定を手に入れ、1853年にアメリカ東インド艦隊司令長官、ペリーがやってきて開国を要求するまで、200年もの平和を実現することになる。
現実の現代社会では、20世紀の安定はもはや遠い過去。私たちは、いわば「戦国時代」のような激動の世界を生きている。こうした時代に、かつて戦国の世をおもしろく生きた古田織部の物語が愛されるのも「へうげた」巡り合わせを感じる。
バナー写真:単行本にも個性的なデザインが施された『へうげもの』は、2005年から17年にかけて『モーニング』(講談社)誌上にて連載。単行本は全25巻に及び、第13回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞、第14回手塚治虫文化賞マンガ大賞受賞。11年から12年にかけてはNHK-BSでアニメ化もされた 撮影:ニッポンドットコム編集部