日本の年中行事

文月(7月): 七夕・朝顔市・盂蘭盆会・二十六夜待ち

歴史 文化 暮らし

日本は古来、春夏秋冬の季節ごとに大衆参加型のイベントが各地で行われてきた。これらを総じて「年中行事」と呼ぶ。宗教・農耕の儀礼を起源とする催事から、5月5日端午や7月7日七夕などの節句まで、1〜12月まで毎月数多くのイベントがあり、今も日本社会に息づいている。本シリーズではそうした年中行事の成り立ちや意義などを、文化の成熟を示す例として紹介していく。

7月7日は短冊を付けた葉竹が江戸に林立

宮城県仙台市、神奈川県平塚市など、全国で七夕祭りが開催され、日本にすっかり定着しているが、七夕はもともとは天の川の両岸に位置するわし座のアルタイルと、こと座のベガにまつわる古代中国の伝説が起源だ。アルタイルを牽牛(けんぎゅう / 彦星)、ベガを織姫と呼ぶ。

牛飼いの牽牛と機織(はたおり)の織姫は、天帝の許しを得て結婚した。織姫は天帝の娘だった。2人は夫婦で過ごす時間に溺れ、仕事をないがしろにするようになった。怒った天帝は両者を引き離し、天の川の両側に離れて住むことを命じ、年に1度、7月7日にだけ会うことを許した。中国の南北朝時代(439〜589年)に成立した伝説という。

日本には奈良時代(710〜794年)に伝わり、棚機津女(たなばたつめ)という機織の女神の伝説と習合し、「たなばた」の名で定着したと言われるが、諸説あって真相ははっきりしない。

江戸時代には徳川幕府が制度化した「五節句」の1つとなったことで、色紙の短冊に願い事を書き、葉竹(はちく)に飾る年中行事となった。1838(天保9)年刊行の『東都歳事記』には、「毎家屋上に短冊竹を立つ事繁く」とあり、江戸に色とりどりの短冊が舞った。竿竹や物干し竿まで使い、高く掲げることを競ったという。

『名所江戸百景 市中繁栄七夕祭』は1857(安政4)年、歌川広重画。短冊の付いた無数の葉竹が屋根に立つ。出典:colbase
『名所江戸百景 市中繁栄七夕祭』は1857(安政4)年、歌川広重画。短冊の付いた無数の葉竹が屋根に立つ。出典:colbase

現在は「笹」に短冊を飾るのが一般的。笹は竹と同じイネ科の植物だが、竹より背丈が低く、家の中や軒下に飾る風習が広まるにつれ、笹が普及していったのだろう。

下級武士の内職だった朝顔の栽培

東京都台東区入谷や豊島区雑司が谷の鬼子母神で開催される朝顔市は、夏の風物詩の1つ。朝顔市は文化・文政期(1804~31)に始まり、幕末の嘉永から安政期(1848〜60)頃に人気のピークを迎えた。

『三十六花撰 東都入谷朝顔』は立祥(2代広重)が描いた入谷朝顔市の様子。1866(慶応2)年作。東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
『三十六花撰 東都入谷朝顔』は立祥(2代広重)が描いた入谷朝顔市の様子。1866(慶応2)年作。東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

入谷朝顔市に並ぶ鉢植え(PIXTA)
入谷朝顔市に並ぶ鉢植え(PIXTA)

入谷朝顔市(台東区)では約120軒の業者が、12万鉢に及ぶ朝顔を販売するという。2023年は4年ぶり、7月6〜8日の3日間にわたって開催される。大火で焼失した入谷の空き地を利用して植木屋が栽培したのを皮切りに、入谷からほど近い場所に「御徒(おかち)」と呼ばれる石高(俸給)の低い下級武士が集住し、内職で朝顔の鉢植えを栽培していたことによって市がたったという説がある。この地域には、今も「御徒町」の名が残る。

朝顔市は明治に入って廃止されたが、1948(昭和23)年に復活。朝顔の品種改良も盛んに行われ、小輪から巨大輪、花の色味や葉の形など種類も豊富で、明け方に咲き、夏に彩りを添えてくれる。

旧暦のお盆は7月13〜18日

現在の「お盆」といえば8月半ばだが、旧暦では7月13日〜18日で、正式名称は盂蘭盆会(うらぼんえ)。

先祖の霊を迎えるため、初日に玄関前で迎え火を焚く。江戸時代は、お盆が近づくと、霊棚(お供え物を置く台)に載せる用品を行商人が売り歩き、期間中に布施僧が念仏を唱えて町を往来するなどして、町はにぎやかだった。

お盆の迎え火(PIXTA)
お盆の迎え火(PIXTA)

『都名所之内 如意嶽大文字』は長谷川貞信による京都の大文字の送り火。国立国会図書館所蔵
『都名所之内 如意嶽大文字』は長谷川貞信による京都の大文字の送り火。国立国会図書館所蔵

盂蘭盆会が終わると送り火を焚いて精霊をあの世にお返しする。現在は毎年8月16日に開催される京都の五山の送り火も、盂蘭盆会の行事だ。

「盆踊り」は、もともとは里帰りしてきた霊たちを慰めるために催したもので、本来の意味は鎮魂だった。そうした宗教的色彩は、延宝期(1673〜81)にはすでに薄れていたらしく、踊りは娯楽として華やかさを増していた。男女の出会いの場となるなど風紀も乱れ、1649(慶安2)年以降、次第に規制された。1690(元禄3)年の江戸では、「往来での相撲と踊りは禁止」との御触れが確認されている。

月の出を待つ間に飲めや歌えや…

見逃せないイベントが旧暦7月26日に開催された、二十六(廿六)夜待ちである。

何を待つのかといえば、月が昇るのを待つ。日没間もなく上る十五夜の満月とは違い、二十六夜の細い月は夜半過ぎに上ってくる。それまで飲食しながらゆっくりと待とうというわけだ。

深川の洲崎、湯島天神境内、飯田橋の九段坂上も月待ち名所だったが、涼しい潮風が吹き、かつ開放的な品川から高輪海岸にかけては特ににぎわった。『東都歳時記』は「芝高輪・品川この両所を今夜盛観の第一とす」と記す。

当時の浮世絵には、蕎麦・天ぷら・寿司をはじめ、水菓子・団子・汁粉・焼きいかなどの屋台が見える。簡易小屋も設置され、庶民は舌鼓をうちながら月が出るのを待った。
芸者や、楽器を弾く芸人の姿も多かった。屋形船に乗って、海上で月を待つ者をもてなすのである。

二十六夜の月の出のすぐ後に、阿弥陀・観音・勢至の三尊の姿がぽっと浮かび上がるといわれ、人々は仏さまを拝むのを口実に初秋の夜を楽しんだのだろう。

『江戸自慢三十六興 高輪廿六夜』は1864(文久4)年作。海に浮かぶ小舟から高輪の廿六夜待ちを描いている。東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
『江戸自慢三十六興 高輪廿六夜』は1864(文久4)年作。海に浮かぶ小舟から高輪の廿六夜待ちを描いている。東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

7月のほかの主な年中行事

行事 日付 内容
井戸替え 7日 専門の職人の作業を町内総出で補佐して井戸を洗う
後の薮入り 16日 正月と文月に2日ある奉公人の休日のうちの1日
閻魔の斎日 16日 閻魔の休日。地獄の罪人も開放されるため閻魔堂などが御開帳

『新板大道図彙 御蔵前』は蔵前の華徳院にあった閻魔像で、7月16日に御開帳していた。同閻魔像は関東大震災で焼失。出典:colbase
『新板大道図彙 御蔵前』は蔵前の華徳院にあった閻魔像で、7月16日に御開帳していた。同閻魔像は関東大震災で焼失。出典:colbase

〔参考文献〕

  • 『図説 浮世絵に見る江戸の歳時記』佐藤要人監修、藤原智恵子編 / 河出書房新社

バナー写真 :『朝顔に蛙』は葛飾北斎が描いた朝顔。写実的な描写が鮮やかな1作。出典:Colbase

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