日本の年中行事

皐月(5月): 端午の節句、両国川開き

文化 歴史 暮らし

日本は古来、春夏秋冬の季節ごとに大衆参加型のイベントが各地で行われてきた。これらを総じて「年中行事」と呼ぶ。宗教・農耕の儀礼を起源とする催事から、5月5日端午や7月7日七夕などの節句まで、1〜12月まで毎月数多くのイベントがあり、今も日本社会に息づいている。本シリーズではそうした年中行事の成り立ちや意義などを、文化の成熟を示す例として紹介していく。

端午の節句とこいのぼり

子どもの人格を重んじ、幸福をはかる趣旨で制定された国民の祝日、5月5日の「こどもの日」は、古くから「端午の節句」として知られる。

「端午」は「端=初め」の「午=うま」で、もともとは毎月の最初の午の日を示す言葉だった。しかし、「午」と同じ音「五」にちなんで、いつしか5月5日が端午として定着したらしい。

かつては3月3日の上巳(じょうし / ひな祭り)と端午は区別なく子どもの行事だったが、5月は菖蒲(しょうぶ)が咲く季節であることから菖蒲=尚武(軍事・武道)に転化して男児のものとなり、3月は女の子のための行事になった。

鎌倉時代は、武家に生まれた男の子の祝い事とされた。兜(かぶと)を飾ることが、本来は武士の行事だったことを物語っていよう。

江戸時代、この風習が大衆に広がると、町人の家ではこいのぼりを飾るようになった。
コイは沼などのよどんだ水にも生息する生命力が強い魚だ。また、中国『後漢書』には、黄河の急流にある竜門という滝を昇ったコイが、龍に変化したという故事がある。これが「登竜門」の由来で、その故事にあやかり、子どもが試練に耐えて出世することを願い、こいのぼりを飾るようになったとされる。

だが、『子宝五節遊』(18世紀作 / 鳥居清長筆)を見ると、幟(のぼり)にはコイではなく、金太郎や桃太郎、高砂(夫婦愛と長寿をテーマとした能の演目)が描かれている。『図説 浮世絵に見る江戸の歳時記』(河出書房新社)によると、当初はこうした幟を立てていたのが、次第にこいのぼりが主流になっていったのではないかという。

(左)『子宝五節遊』にある3本の幟は(右から)金太郎・桃太郎・高砂。手前の子が手に持つのは菖蒲を束ねたもので、地面に打ちつけて音の大きさを競ったという。(右)『名所江戸百景 水道橋駿河台』には何本もの鯉のぼり。出典:colbase(2点とも)
(左)『子宝五節遊』にある3本の幟は(右から)金太郎・桃太郎・高砂。手前の子が手に持つのは菖蒲を束ねたもので、地面に打ちつけて音の大きさを競ったという。(右)『名所江戸百景 水道橋駿河台』には何本ものこいのぼり。出典:colbase(2点とも)

昨今は、住宅事情ゆえに都市部ではこいのぼりを飾る家庭も減った。一方で町おこしの一環として、熊本県阿蘇郡・杖立温泉の「鯉のぼり祭り」、群馬県館林市の「こいのぼりの里まつり」、高知県の四万十川の「川渡し」など、各地でイベントが開催されている。コロナが収束しつつある今年は、多くの観光客が青空を悠々と泳ぐこいのぼりを見上げることだろう。

なお、菖蒲に由来する風習が、もう1つある。菖蒲湯だ。菖蒲は「邪気を払う」との言い伝えがあり、風呂に菖蒲を入れて縁起をかついだ。

江戸時代の銭湯では、入湯料のほかに菖蒲の代金として祝儀を包み、番台にあった三宝に置いたという(『なぜ江戸っ子を「ちゃきちゃき」と言うのか : 粋な江戸の生活事情』/PHP研究所)。今も、端午の節句に合わせて菖蒲湯を提供する銭湯は多い。

『五節句ノ内皐月』 家庭の菖蒲湯を描いたもの。邪気を払うため軒に菖蒲を飾る風習があった。家に風呂があるくらいだから、裕福な商家か武家と考えられる(国立国会図書館所蔵)
『五節句ノ内皐月』 家庭の菖蒲湯を描いたもの。邪気を払うため軒に菖蒲を飾る風習があった。家に風呂があるくらいだから、裕福な商家か武家と考えられる(国立国会図書館所蔵)

両国川開きと花火・屋形船

旧暦5月28日には、江戸庶民が心待ちにしていた「両国川開き」。

旧暦の5月28日は、2023年では7月15日にあたる。蒸し暑い季節、人々は涼を求めて風通しの良い隅田川沿いに集った。川開きは旧暦8月28日まで続き、隅田川が大小無数の船で埋め尽くされ、両国橋のたもとの広小路には屋台や露店が軒を連ねた。

両国といえば、花火である。花火は初日の5月28日に上がった。隅田川花火大会の起源である。初日にして最大の見どころだった。

屋形船は、予約で満杯だったという。詳しい料金は不明だが、それだけ盛況なら決して安くはなかったはずで、とりわけ屋根付きの大型船は主に富裕層の貸切だったと考えられる。所々、屋根のない小型舟もあったが、これさえも隅田川の漁師が知人を乗せて出したもの以外は高額だったと思われ、庶民は橋や岸から見物するしかなかったろう。

小型の屋形船に確認できるたけで6人が乗っている。うち2人の女性は三味線を持っているようなので芸妓だろう。小型船でも芸妓を招いて席をもうければ高額だったはずだ。『東都名所 両国の涼』出典:colbase
小型の屋形船に確認できるたけで6人が乗っている。うち2人の女性は三味線を持っているようなので芸妓だろう。小型船でも芸妓を招いて席をもうければ高額だったはずだ。『東都名所 両国の涼』出典:colbase

『新板浮絵両國橋夕景色之図』は露店や屋台を手前に、奥に隅田川と花火を描いている。出典:colbase
『新板浮絵両國橋夕景色之図』は露店や屋台を手前に、奥に隅田川と花火を描いている。出典:colbase

橋のたもとの広小路は、しばしば大火に見舞われた江戸の町で、延焼を食い止めるために設けられた火除地(ひよけち)で、町人の緊急避難場所でもあった。本来は、飲食店などは出店できない場所だが、川開き期間中は特例だった。

『新板浮絵両國橋夕景色之図』を見ると、手前に露店や屋台が並んでいる。中央左側の高い建物は見世物小屋で、大道芸などが見物できた。いずれも仮設の建物で、川開きが終了すると一斉に撤去した。

また、江戸には5月に入ると冷たい心太(ところてん)や、ビワの葉を煎じた枇杷葉湯(びわようとう)、子どもに人気のしゃぼん玉などを売り歩く行商人が登場。夏の風物詩として、庶民に親しまれていた。これらの行商人も広小路に現れただろう。

心太売り 『職人尽絵詞』(国立国会図書館所蔵)
心太売り 『職人尽絵詞』(国立国会図書館所蔵)

枇杷葉湯売り 『近世流行商人狂哥絵図』(国会国立国会図書館所蔵)
枇杷葉湯売り 『近世流行商人狂哥絵図』(国会国立国会図書館所蔵)

しゃぼん玉売り 『新板大道図集』(出典:colbase)
しゃぼん玉売り 『新板大道図集』(出典:colbase)

今年の隅田川花火大会は7月29日、4年ぶりに開催される予定である。夏の風物詩として楽しみにしている人が多いのは、江戸時代と変わらない。

両国川開きの花火は、1733(享保18)年に飢饉や疫病で亡くなった人々を鎮魂するために始まったという説が、広く伝わっている。一方で花火の歴史に詳しい研究者には、開始を1733年と特定すること、また疫病が原因で死んだ者の鎮魂という説は、明治時代以降に創作された話とする見解もある。

しかし、4年ぶりの開催を待ち遠しく感じる人々は数多い。再開はアフターコロナの時代にふさわしいといえるのではないだろうか。

〔参考文献〕

  • 『図説 浮世絵に見る江戸の歳時記』佐藤要人監修、藤原智恵子編 / 河出書房新社
  • 『なぜ江戸っ子を「ちゃきちゃき」と言うのか: 粋な江戸の生活事情』中江克巳 / PHP研究所
  • 『サライの江戸 CGで甦る江戸庶民の暮らし』 / 小学館

バナー画像 : 『三都涼之図 東都両国ばし夏景色』は、川に浮かぶ大小の舟、両国橋を埋め尽くす群衆の姿を描いている。橋の上はまさに芋洗い状態。盛況ぶりがうかがえる。国立国会図書館所蔵

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