如月(2月): 初午、針供養、雛市
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子どもに大人気だった「初午」
日本では商売の売り上げが落ちる2月と8月を「二八=にっぱち」と呼んで嫌う。師走から1月にかけては忙しいが、2月に入ると商業活動が停滞し、商人は暇となる。
江戸時代も事情は同じだったようで、2月最初の午(うま)の日=初午を稲荷神社の祭礼の日とし、景気の悪さを払おうとする年中行事があった。初午の起源は、豊作を祈願する祭りだったという説がある。それが五穀豊穣の神である稲荷と結びつき、江戸時代にイベントとして定着したらしい。
太鼓売りの行商人が姿を現す1月25日頃になると、子どもたちはソワソワし始めた。親にせがんで太鼓を買ってもらい、稲荷までたたいて歩いていくのが慣例だった。初午はとりわけ子どもに人気の行事だった。
幟(のぼり)を売る業者もいた。幟を持った子を先頭に、続く子どもたちは太鼓をたたいて、お稲荷さんに向かう。江戸の至る所で見られた光景だった。子どもにとっては信仰というより遊びだったのである。
絵馬も江戸府内で売られていた。購入した絵馬に願掛けし、稲荷神社に奉納するのである。
初代・歌川国貞(1786〜1864)が、絵馬を奉納に行く母と子を描いている。東国(関東)稲荷の総社・王子稲荷(東京都北区)に向かう姿で、同社は江戸に大小あった5000近くの稲荷のなかで、とりわけ人気があった。参道には縁日もたって賑わった。
王子稲荷の初午は今も健在で、2023年は2月5日に開催される。「凧(たこ)市」ともいわれ、縁起物の凧が売られることでも有名だ。江戸がたびたび大火に見舞われたため、「凧は風を切って揚がることから火事除けのお守りにと、民衆が同神社の奴凧を火防の凧とした」ことによる(北区ホームページ)。
稲荷によっては二の午、三の午も開催する。王子稲荷は2月17日が二の午で、今年は三の午はない。京都の伏見稲荷大社は2月5日の初午だけで、二の午はなし。旧暦の2月は現在の3月に当たるため、3月に初午を行う稲荷もあり、地域によってさまざまである。
変容した形で現在に伝わる「針供養」
「針供養」も現在まで続く年中行事だ。折れたり曲がったり、さびたりした針を豆腐などに刺して供養する信仰である。全国の神社仏閣をはじめ、和裁や洋裁を学ぶ学校でも行われる。日程は2月8日が多いが、初午と同様、旧暦に合わせて3月に実施するケースも少なくない。
針供養の起源は、2月8日が「事始め」だからという。
新年に向けて神を迎える準備を始めるのが、前年12月8日。正月も終わり後片付けを終えるのが2月8日。この日に人の生活が再び本格的に動き始めることから、事始めと呼ぶ。
ただし、「日常」とは農作業のことだったので、慎みをもって針仕事は休むものと考え、使っていた針を供養したのである(『暮しに生きる日本のしきたり』丹野顕/講談社)
一方、1690(元禄3)年に出版された職業を図解する辞典『人倫訓蒙図彙』(じんりんきんもうずい)には、「女中方年中つかい、又は折れたる針の恩徳ふかき也。供養せざれば地獄に落る、此故にはかなき女童おどろき銭をとらるゝなり」とある。
女中や少女たちに、「供養しないと地獄に落ちる」と半ば脅しをかけ、カネを払わせる者がいるなど、うさんくさい話もあったようだ。
下の画像は『人倫訓蒙図彙』に掲載されたもので、頭に針の刺さった人形を持った人物がいる。この男が女性を脅してカネをまきあげた人物で、おそらく針を製造する職人か、裁縫業者と思われる。古い針を回収し、さらに新しい針を売りつけて儲けていたわけだ。
なお現在、針供養が行われている代表的な神社仏閣は、東京・浅草寺の淡島堂、愛知県名古屋市の若宮八幡社、大阪市天王寺区の太平寺など。
なかでも和歌山市の淡嶋神社は、有名かつ重要である。針供養は、そもそも淡嶋神社のご祭神・少彦名命(すくなひこのみこと)を信仰することから始まったという説がある。少彦名命は裁縫の神でもあり、少彦名命を祀(まつ)ることを「淡島信仰」という。同神社の針供養は、豆腐に針を刺すのではなく、お祓(はら)いをしたのち、針塚に埋める。原型はこちらだった可能性が高い。
浅草寺の淡島堂は、その名の通り淡嶋神社とつながっている。紀州の淡嶋神社で生まれた針塚に埋める供養が、僧侶・淡島願人(あわしまがんにん)によって江戸に伝わり、浅草寺では豆腐に刺す形に変わったと考えられているのだ。信仰が時代と場所を変え、変容した例として興味深い。
十軒店の雛市は人混みでごった返す
桃の節句が近づく2月25日からは、各所で雛人形を販売する「雛市」が開催された。とりわけにぎわったのは十軒店(じっけんだな / 東京都中央区日本橋室町)だった。普段は別の商品を販売している者が、この時ばかりは急造の人形業者となり、十軒店の通りに幾重もの仮店舗が立ったという。
雛市は完全な売り手市場のため、業者が高値をふっかけることもあったという。雛市の期間中だけで「十両か十五両ほどもうけたという」(『図説 浮世絵に見る江戸の歳時記』河出書房新社)から、法外な価格もあったろう。
一方で、値切る客もいたようで「人形商人と客のかけ引きもこの雛市の名物であった」(同)という。
如月は年中行事の少ない月である。理由は冒頭に述べた通り、多忙な正月が終わり、商業活動が停滞したためである。
だが、初午や針供養などの信仰はしっかりと大衆に根付き、特に子どもと女性に愛され、現在にその形を留めている。時代を超えて文化を伝えるのが、女性と子どもであることを感じさせる。
〔参考文献〕
- 『暮しに生きる日本のしきたり』丹野顕 / 講談社
- 『図説 浮世絵に見る江戸の歳時記』佐藤要人監修、藤原千恵子編 / 河出書房新
バナー画像 : (左から)『東京開化名所記 王子稲荷社』(東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)。初午の時期は、稲荷の使いとされる狐を描いた絵が制作された / (中)『巨泉おもちゃ繪集』(東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)。初午に奉納される絵馬や、縁日で売られた狐のお面 / (右)『東京の四季 年中行事と近郊の行楽地』(国立国会図書館所蔵)に掲載されている、昭和初期の東京・元赤坂の豊川稲荷初午大祭