「外に出たくなる製品を」─斬新な発想で車いすの概念を変えたオーエックスエンジニアリングの挑戦
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オートバイショップが乗り出した車いす開発
多くの競技で車いすが用いられるパラリンピック。この大舞台で、圧倒的な強さを誇る車いすメーカーがある。『オーエックスエンジニアリング(以下オーエックス)』だ。
千葉市に本社を置く同社の車いすは、1996年アトランタ大会で初めてパラリンピックに登場して2つの金メダル獲得に貢献すると、2021年東京大会まで夏季・冬季合わせて9大会で144個のメダルを獲得。東京大会だけでも21個を手にした。この中には車いすテニス界のレジェンド、国枝慎吾の金メダルも含まれる。
オーエックスの車いすは、なぜ強いのか。その答えは同業他社とは異なる、この会社のユニークな歩みの中にある。
オーエックスが車いす市場に参入したのは92年。それまではバイクの開発に携わっていた。オーエックスの前身『スポーツショップ イシイ』は76年、バイクを販売する会社として創業し、88年にバイクの開発部門としてオーエックスを設立する。
モーターサイクルレースのライダーで、ジャーナリストでもあった創業者の石井重行さん(故人)は設備の充実に力を注ぎ、会社にはものづくりが好きなライダーたちが集結した。現社長の山口高司さんも、バイク好きが高じて同社の門をたたいた一人だ。
山口さんが入社した89年、オーエックスではすでに車いすの開発が行なわれていた。それは販売するためではない。先に触れた創業者、石井さんが乗るためだ。84年、石井さんはバイク試乗中の事故で脊髄を損傷。車いす生活を余儀なくされていた。
山口さんが、事故後の石井さんについて語る。
「業界では有名な人だったので、僕も入社前から石井の事故のことは知っていました。当時は福祉制度によって支給される車いすに乗っていましたが、日常用車いすは福祉機器の延長に過ぎないところがあって、デザインも機能もそこそこなんです。石井は『これじゃ、サーキットに行く気にならないよ』とボヤキながら、従業員に『もうちょっと格好良く』などと言って、自らの車いすを改造させていました」
90年、石井はドイツで開催された『自動二輪車・自転車展(IFMAショー)』の視察をするが、これが大きな転機となる。世に2つとない石井の車いすが現地記者に絶賛され、この時、石井は車いす市場への参入を決意する。
つまりオーエックスの車いすづくりは、創業社長の「格好良くて、外に出たくなるものを」という個人的な欲求から始まった。福祉機器の延長と考える先行他社とはまったく異なる設計思想で、車いすづくりに挑んだのだ。
オートバイで磨いた技術を生かして
1992年、同社は日常用車いす「01-M」の販売を開始。3年後に業態転換を図り、社員たちが情熱を注いでいたバイク事業をやめて車いすに集中することになった。
創業社長のトップダウンで決まった路線変更。バイク好きの社員から反発の声が上がったかと思いきや、そうでもなかったらしい。
「私もバイクが好きで会社に入りましたが、みんな基本はものづくりが大好きなんです。取り組むモノがバイクから車いすに代わっただけなので、ショックはありませんでした。それにバイク業界における我々の仕事は、メーカーが開発したバイクをレースで勝たせるためにチューニングすることでしたが、元の性能が劣っていたら、どれだけがんばったところで勝つことは難しい。石井はそんなバイク事業に限界を感じていたので、メーカーとして一から勝負できる車いす事業に燃えていたのだと思います」
業態転換から1年後、同社は96年アトランタ大会で金メダルを2つ獲得する。新参者のオーエックスが短期間で結果を出すことができたのは、バイクで長年培った技術を車いすづくりに生かしたからだ。シビアなレースで鍛えられた「バイク屋」の底力と言ってもいい。
「長く車いすづくりに取り組んできた先行メーカーと違い、私たちには障害への知見がない。ユーザーのみなさんが、それぞれの障害に応じて身体をどう機能させているのか、またどういうつくりにすればプレーしやすいのか、そうした知識は劣っていたと思います。ただ、妥協を許さずものづくりに取り組んできたことは、そうしたハンデを補って余りあるアドバンテージになったと思います。車いすに取り組んで間もない弊社は規模が小さいこともあって、固定観念に縛られることなく、失敗を恐れず、さまざまなトライ&エラーをすることができた」
車いすメーカーとして、急速にブランド力を高めていったオーエックス。彼らは競技実績だけに満足せず、業界の異端児として旧来の慣習を打破していく。
「長く福祉制度に守られた車いす業界には、バイク業界から参入した我々にとって、不思議な常識がいくつもありました。その一つが価格です」
オーエックスが初期に売り出した日常用車いす「01−M」は22万円という価格だったが、これが業界で高過ぎると物議を醸した。
「当時、日常用車いすの公的給付は10万円ほどの製品の現物支給でした。メーカーはその制約の中で製品開発していたため、ユーザーが求める新機軸の製品は生まれにくい状況でした」
オーエックスが売り出した22万円の車いす。そこにはバイク時代と変わらない、ユーザーへの考え方があった。「車いすユーザーだって、多少高くてもオシャレで良い物に乗りたい人はいるはず」という確信である。
だが、ある意味まっとうな同社の考えは、業界に大きな波風を立てることになった。車いすの支給を判定する都道府県の機関に「障害がある方に高い物を売りつけるけしからんメーカー」と見なされ、10万円の支給が認められないこともあった。さらにオーエックスは病院での営業活動を制限され、屋外の駐車場で営業を行うこともあった。
窮地に陥ったオーエックスを救ったのは、車いすユーザーたちの声だった。
「彼らが『車いすに乗る障害者として、自分たちには10万円が給付される権利がある。足りない分は自分たちが払うので、オーエックスの車いすにも乗れるようにしてほしい』と声を上げてくれたことで、私たちの車いすにも福祉制度が使えるようになったのです」
それは、給付金額に収まる製品しかなかった車いす業界で、「高くても良い物を」というオーエックスの価値観が初めて認められた瞬間でもあった。
社会の変容と車いすに求められるもの
業界の洗礼を浴びながらもオーエックスの車いす事業は年々成長し、これまで製造した車いすの数は7万5000台以上に及ぶ。そのうちの1割ほどが競技用車いすだという。同社の車いす事業が大きく育ったのは、時代の変化に後押しされたことが大きいと山口さんは言う。
「1964年の東京オリンピックでは第2回パラリンピックも同時に開催されましたが、テレビや新聞の報道は限られていました。そして、障害者の中には社会との接点が少ない方もいました。しかし私たちが車いすに関わり出した頃から時代が変わり始め、車いすユーザーの方々が積極的に社会に参加するようになっていきました。私たちが手がける『格好良く、外に出て行きたくなる』車いすは、そうした時代にマッチしたのだと思います」
車いすユーザーがドラマや映画に登場することは、いまでは珍しくない。そのはしりとなったのが2000年、平均視聴率32.3%をたたき出した木村拓哉さん主演の『ビューティフルライフ』だ。このドラマでは常盤貴子さんがヒロインを演じたが、彼女が乗るイエローが鮮やかな車いすはオーエックスのものだった。
「あのドラマでは、車いすユーザーがハンデを負った人としてではなく、私たちと変わらない『楽しく格好良く生きたい』人として描かれています。ドラマに登場した黄色い車いすは、ユーザーから『こういうのに乗りたかった』と歓迎されました」
オーエックスの車いすのカタログは、さながらバイクや自転車のそれを見るかのようだ。カラーだけでも100色を超え、ラメやスプラッシュ柄を選ぶことができる。カラーリングだけではない。それぞれのパーツの種類が多く、購入後も別の機能を持った部品への交換や調節ができるなど、外見と機能の両面であらゆるカスタマイズができる。
そんな「かゆいところに手が届く」柔軟性から、オーエックスを「車いす界のポルシェ」と呼ぶユーザーもいるらしい。「社内でポルシェに乗る人はいないんですが」と苦笑いを浮かべて、山口さんが言う。
「ポルシェはロゴの有無やライトの種類の豊富さなど、細かいリクエストに応じてくれることでも知られていますが、ウチも負けていないと思っています。弊社はそもそも福祉用具をつくっているという感覚はなく、お客さんが気に入る良い物をつくりたいと考えているだけ。そこはバイクのころから、まったく変わっていないんです」
創業者の精神を貫き、車いす業界の常識を変えてきたオーエックス。彼らは格好良く、出かけたくなるような車いすをつくることで、ユーザーたちの心のバリアを取り除いてきた。それはメダルの数よりも、意義のあることかもしれない。
バナー写真:オーエックスエンジニアリングの車いすとともに、数々の記録を打ち立てた車いすテニスのレジェンド国枝慎吾。2003年からオーエックスのサポートを受けており、23年2月に現役引退を表明したが、日常生活でもオーエックスの製品を使用している(2022年6月2日、フランス・パリ) 時事