広島の酒・富久長(ふくちょう)の杜氏・今田美穂が切り開く「世界の日本酒」への道
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酒は風土と人が造るものであるという「原点」
「午前中はお酒の仕込みで手が離せないので、午後にいらしてください。お時間があるようでしたら、周辺を見て回られたらいいと思います。おすすめのポイントがあります」
2023年10月末、蔵を訪ねたいと連絡した時、今田酒造本店の経営者で杜氏でもある今田美穂さんからこんな返事をもらった。彼女の「おすすめのポイント」は二つあり、一つは瀬戸内海に浮かぶ大芝島へと渡る大芝大橋、もう一つは今田酒造と同じ東広島市安芸津町内にある榊山(さかきやま)八幡神社だった。
大芝大橋からは、濃淡さまざまな群青色がグラデーションをなして重なる島影を背景に、静かな海が面(おもて)に無数の光の粒を踊らせて広がるさまを見た。こんな景色の中で育ったら、人はあくせくしたり、せかせかしたりしないのではないかと思った。
一方、榊山八幡神社では三浦仙三郎の銅像が待ち受けていた。弘化4年(1847年)安芸国賀茂郡三津村(現在の安芸津町三津)に生まれた仙三郎は、酒造りには不向きとされた地元の軟水から良酒を造る醸造法を研究開発、これを地域に広め、広島を銘醸地の一つに押し上げ、安芸津が杜氏を輩出する土地になるきっかけを作った人だ。
酒とは本来、風土と人が造るものであるという「原点」をまずは見て来てほしい、と今田さんは考えたのだろう。
かつて安芸津の港は米の積出港として栄えた。人々は米に付加価値を付けて高く売るために酒造りを始めた。最盛期には300人の杜氏がこの町から出稼ぎに出ていった。だが、今は今田酒造と柄(つか)酒造の2軒の蔵が操業するのみ──。
朝の仕込みに使ったに違いない大判の白い布が物干し場にはためく中庭に、今田さんは屈託のない笑顔で現れた。
東京で飲み歩きをする中で理解した家業の窮状
「日本の中でも広島の沿岸部は、土砂災害の危険性が最も高い場所なんですよ」と、初対面のあいさつもそこそこに今田さんが言う。瀬戸内というと「穏やかな」という形容がつい思い浮かぶが、実際は険しい山並みが海辺まで迫る地形で、土壌の主体である花こう岩は水を含むともろく崩れやすいこともあり、水害が多い。現に今回、蔵までの道の途中にも6年前の豪雨の際に寸断されたままの道路があり、迂回(うかい)を余儀なくされた。しかし、この独特の地形が土地固有の軟水を一帯にもたらすのだ。
今田酒造本店の「富久長」はどれを飲んでも軟水由来のやわらかさ、儚(はかな)さがある。が、それだけではない。やわらかさの中に芯がある、儚さの奥に滋味がある。
1961年に5人きょうだいの長子として生まれた今田さんの子供のころの夢は、「東京の大学に行くこと」だったという。父・之直さんは明治元年(1868年)創業の酒蔵の3代目だが、長引く酒造不況にあえぎ、子供たちには「家業を継ぐことは考えず、自分自身で生きる術(すべ)を見つけてくれ」と言って育てた。
大学進学のために今田さんが上京したのは、日本がバブル経済の坂道を駆け上がる時期だった。地方の因習から解放され、東京はパラダイスだったと彼女は振り返る。大学卒業後、百貨店に就職。さらに能楽の振興を目指す団体に転職した。お酒が好きであちこち飲み歩いた。折しも日本酒を取り巻く環境が激変する時代だった。
それまで等級別(特級、一級、二級)の分類だったのが、製法(本醸造、純米、吟醸、大吟醸など)による分類となった。流通が変わり、酒が冷蔵便で短期間に輸送できるようになった。小泉純一郎内閣の規制緩和で酒がコンビニでも買えるようになり、安価な紙パック入りの酒が登場したのもこの時期だ。地酒ブームが起こり、まずは新潟や富山の「淡麗辛口」の酒が居酒屋を席巻、次いで山形から「濃醇旨口」を標榜(ひょうぼう)する対抗馬が登場してきた。今田さんは家業の酒がトレンドに乗り遅れてしまっているのを肌で感じていた。
バブル崩壊が転機となった。家業に入る決意を固め、10年以上暮らした“パラダイス”を離れ、郷里・広島に戻った。決意はしたものの、腹は決まっていなかったと今田さんは白状する。
「当初は、いつでも東京に戻れるように部屋を残してありましたからね」
杜氏たちの姿勢に触れて腹を決める
酒蔵の娘とはいえ、酒造りについてはイロハのイも知らなかった。まずは都内の国税庁醸造研究所(現在は、独立行政法人酒類総合研究所と改称、東広島市に移転)に通って勉強した。しかし、半年足らずの座学がすぐに通用するほど酒造りは甘くなかった。
「10年以上は思うようなお酒が造れませんでした」
その間、業界の先達たちが惜しみなく酒造りの知識をシェアしてくれたのが大きかったと今田さんは言う。例えば、今田さんが出演するドキュメンタリー映画『カイパイ! 日本酒に恋した女たち』(2019年公開、小西未来監督)には、地元安芸津町出身で高知県の「土佐鶴」(土佐鶴酒造株式会社)の総杜氏長(当時)・池田健司さんに、今田さんが恐る恐る教えを請いに行った時のエピソードが挿入されている。土地によっては「酒造りは女人禁制の場」として女性を排除するところもある中、広島出身の杜氏たちはオープンだった。
杜氏が酒造りのみならず、農業や神事の準備から酒蔵の設備設計、スタッフのリクルーティングまでこなす万能人で、酒蔵の経営者と同等あるいはそれ以上に力を持っていた古き良き時代は、池田さんたちの時代で終わってしまった。が、「人柄以上の酒は、できゃあしませんけんのぉ」と言って、自らと酒を磨いた彼らの精神は今田さんにも受け継がれたようだ。
「杜氏さんたちのカッコいい姿に触れて、腹が決まりました」
杜氏たちの使う言葉に「百試千改(ひゃくしせんかい)」がある。試行錯誤を繰り返して、風土や持てる設備のポテンシャルを目一杯引き出し、より良い酒を造ろうという意味だろう。今田さんもこの言葉通りに試し、改めて、自身の酒に磨きをかけていった。
100年ぶりに復活した在来品種の酒から香る野趣
ようやく今田さんが自分の酒造りに納得がいくようになったきっかけは、2014年に新型の甑(こしき=酒米を蒸す器械)を導入したことだった。素人の目にはのっぺりとして没個性な円筒形の開放型ステンレスタンクにしか見えないような代物だが、これがなかなかの高性能だそうだ。良い酒を造れるかどうかは、その土台となる蒸米が理想的に蒸せるかどうかにかかっている。天候の変化まで見込んで、思いのままに米を蒸すことができるこの器械が、今田さんのさまざまなアイデアの実現に大きく寄与してくれたのだ。
過去80年ほどのスパンで見ると、日本の酒造りは「近代化・合理化・画一化」の時代から「多様化・個性化・原点回帰」の時代へとシフトしている。今田さんが取り組んできた、在来酒米品種・八反草(はったんそう)の復活もまさにそのライン上にある。
八反草は、現在酒米としてポピュラーな八反錦の先祖であり、現存する広島で最古の酒米とされている。草丈が非常に高く(160cmに達する)、栽培環境も標高の高い所を好むなど、育てるのが難しい。収量も高くないので、農家に敬遠され、100年も前に廃れてしまっていた。しかし、ひょんなことから一握りの種籾を県立農業試験場のジーンバンク(植物遺伝資源部門)から分けてもらえることになった。もとより今田さんは「この地ならではのお酒が造りたい」と、スタッフで、京都大学で育種の勉強をした杉浦弘真さん(現製造部長)と一緒に古い品種の復活・栽培を画策していたのだった。
JAや酒米農家の協力を仰ぎ、栽培すること6年。ようやくタンク1本分の収穫が得られるようになった。醸してみると、八反草の酒は酸に特徴があり(いち早く酸味が感じられ、余韻にまでも残る)、香りには草を思わせる独特の野趣があった。現在では、代表銘柄の「富久長 八反草 純米吟醸」など生産全体の4割を八反草を原料とした製品が占める。
“世界の酒”になるための挑戦
今田さんの挑戦は八反草の復活だけにとどまらない。10年ほど前には、東京の料理人から「牡蠣に合う日本酒を造ってほしい」との要請を受け、従来日本酒で使われる黄麹に換え、焼酎で使われる白麹を使ってレモンのような風味を出した「富久長 海風土 Seafood 純米」を開発。海外でもヒットして、この銘柄は蔵の稼ぎ頭になった。
米でも麹でもなく、乳酸菌に着目して個性を出したのが「ハイブリッド生酛(きもと)」シリーズだ。昔ながらの「生酛造り」(※1)から、優良な乳酸菌を選抜・培養し、発酵初期に使うことにより、デリケートな生酛造りのリスクを軽減しつつ、その魅力を風味に表すという画期的な試み。また今から2年前には、「中国四川料理の火鍋に合う日本酒」というハードルの高い課題にチャレンジ。1年間かけて、強めの酸と甘味のバランスを極めた「富久長 と」(中国限定販売)を生み出した。
「大きな視野で見ると、いろんな味、いろんなスタイルがあった方が、日本酒業界は生き残れると思うんです。ますます若い人はアルコールを飲まなくなり、人口も先細りで、国内消費が増えることは期待できません。となると、市場は世界ということになります。世界の人にどうやって飲んでもらうか」
事実、日本酒の売り上げはシュリンクし続けているが、輸出に限ると過去10年以上右肩上がりの伸長を見せている。一方、アメリカ、メキシコ、フランス、スペイン、ノルウェーなど海外には、日本酒を造る酒造が60軒以上(日本の酒造メーカーの現地法人を含む)あり、自由な発想で従来のイメージからはみ出すようなユニークな日本酒を造り始めている。このままでは「家元」であるはずの日本の立場も安泰ではないと、今田さんは危機感を抱く。
国際的なメディアから時の人に選ばれたり、映画に出演したりして日本酒業界の「顔」的な役割を担わされたかに見える今田さんだが、本人からは気負いや衒(てら)いは感じられない。
「最近は、米をあまり磨かずに造るとか、樽の木のフレーバーを付けるとか、どぶろくのように乳酸菌の香りを出すなど、古い時代の酒造りに興味が湧いています」
“日本酒を世界の酒に”という業界の宿願を果たすためにできることは、あくまでも自分らしい酒、安芸津らしい酒を目指し、百試千改を続けることと今田さんは考えているようだ。
バナー写真:安芸津の街並みと今田酒造本店 写真:浮田泰幸
(※1) ^ 酵母を育む酒母(酛)を造る工程で天然の乳酸菌を取り込む、1700年ごろに確立した最も伝統的な技法。力強く、奥深い味わいを生み出す。高度な技術と手間と時間を要することから「山廃(やまはい)」や「速醸(そくじょう)」といった効率的な仕込みに取って代わられたが、現代でもあえてこの手法を採る蔵もある。