沖縄人犠牲者訴訟:「逆転判決」で示された台湾の良識と良心
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予想していなかった勝訴
台北高等行政法院(裁判所)は、2016年2月17日、父・青山惠先は二・二八事件の犠牲者であるとして賠償するよう命じ、原告・青山惠昭の訴えを支持する判決を下した。判決を受けた瞬時、私は戸惑った。敗訴を覚悟し、即控訴を準備していたからだ。
1週間後に開催された財団法人二二八事件紀念基金会理事会で、多数議決をもって控訴しないことが確定され、ここに青山惠先の認定賠償が成立した。
4日後の2月28日、当局・基金会主催の「二二八事件追悼中央式典」において、陳士魁理事長は列席していた原告・青山惠昭の前に来て、「長い間ご苦労かけました。ここに謝罪を表明し賠償致します」と語りかけた。
司法が行政の決定を覆すという想定外ともいわれた判決に、台湾のマスメディアをはじめ日本の各社報道も驚きをもって画期的判決と表現し、外国人初の認定賠償として報道され、大きな反響を呼んだ。
父の失踪、台湾で起きたこと
父・青山惠先は鹿児島県与論島、母・美江は沖縄県国頭村の生まれ。父は1935年頃、九州、沖縄を経て台湾は基隆市社寮島(現・和平島)に渡った。しばらくして日中戦争のため大陸へ徴兵され、帰還後の42年、母と結婚。43年、私惠昭が生まれた。
当時の台湾は日本の植民地統治下、東南アジアへの南進拠点として官民あげて人材が集結した。最も近い八重山・宮古諸島、沖縄本島と周辺離島、そして奄美諸島からも「蓬莱の島」台湾へと誘われ、特に漁師たちは競うように台湾北端に位置する基隆社寮島をめざした。彼らは島の北東海岸域に600人ほどの沖縄人集落(琉球埔)を形成し、料亭や質屋も立ち現地住民とも共生し独特の雰囲気を漂わせていた。
しかし、平穏な日常を送る集落にも刻々と戦争の影響が及んできた。男たちは大陸と南方の戦場へ駆り出され、街や村は米軍空襲に見舞われ、残された女、子ども、老人は瑞芳や九份あたりの山間に疎開した。
1945年8月15日、日本敗戦。ようやく戦火が収まったが、台湾は既に日本ではなくなり沖縄人集落の人々も命からがら母国へ引き揚げざるを得なくなった。引揚船を待つなかで、父惠先から母美江あてに1946年2月付で「西貢(サイゴン)ニ居ル、元気」と書かれたはがきが届き、しばらくして5月に「鹿児島に来ている、早く引き揚げなさい」と、復員した旨のはがきが来た。
すれ違いで台湾に戻った父を襲った悲劇
1946年12月、母と3歳の私は基隆をたち、翌年1月に佐世保浦頭港へ引き揚げることができた。そして復員した父が居候している鹿児島の親戚宅にたどりついた時はあくる年の2月末になっていた。だが、居るはずの惠先の姿はなく、なんと妻子を迎えに台湾へ向かったというのであった。
それから母は夫の帰りを2年近くも待ったが結局、実家のある沖縄国頭村で夫を待つことを決め沖縄へ向かった。その時の私は小学校入学直前。翌年の旧正月の頃、母が台湾で親しくしていた沖縄本島最南端の糸満に住む女性が、14キロも離れた最北端の国頭村まで、台湾で惠先と行動を共にしていた男性の伝言を持ってきたのだ。
「惠先は基隆社寮島の船溜まりで、台湾人船長の息子と一緒に中国兵に捕らわれ連れ去られ、恐らく殺害されただろう」
極めて説得力のある伝言であった。悲しみにくれた母の姿は幼かった自らの脳裏に今も焼き付いている。
『基隆雨港二二八』(張炎憲他編、呉三連台灣史料基金会)は、1947年3月8日基隆港に上陸した国府軍の無差別殺戮(さつりく)の実相を記述している。青山惠先が連行されたとされる事件現場の模様について詳細に述べた2人の女性の証言(171~176ページ)があり、関係者の間では青山惠先犠牲者認定の客観的、決定的証左になったといわれている。
平等互恵の原則の壁を超える
二二八基金会理事会は当初、青山惠先が事件遭遇で失踪したことを認定していた。しかし、当局内政部は2つの理由で基金会の決定を「差し戻し」したのだった。一つは台籍元慰安婦および台籍旧日本兵に対する日本の戦後補償がなされておらず、国際的な平等互恵の原則から逸脱していること、二つには国家賠償条例(法)によって外国人に適用されない、とのことであった。二二八基金会理事会は結論として却下を決定し、自らの判断を覆した。申請人の私は外交問題が浮上したことに戸惑いを感じながら、国際人権規約を盾に「人権に国境はない」として不服申し立てを行なった。
今度は代わって当局行政院(訴願審議委員会)が対応したが、同様な理由で毛治國行政院長名による却下決定が通告された。再々承服できない私は行政訴訟を提起し、司法の判断に委ねることを決意。2015年9月15日、台湾現地の弁護士を代理人に擁して台北高等行政法院に提訴した。
法廷において、主任弁護士の薛欽峰氏は被告人側の度重なる弁解に毅然として対峙(たいじ)し、国際的な人権擁護の趨勢を説き格調高い弁論を展開した。提訴と勝訴判決の記者会見で論陣を張った法学者たちの支援も大きな支えになった。先生方には感謝しかない。勝訴判決を受けた記者会見の場では弁護士や支援者に囲まれて喜びを分かちあい、一人ホテルへ帰った。日本や現地の知人、友人から祝福の電話が鳴った。
複雑な台湾の反応
一方、勝訴したというのに気が晴れない、これでいいのだろうか。1万とも、2万人とも言われる犠牲者がいるのに、認定賠償が成立しているのは死者と失踪者を合わせても900人足らず。立証できず認定賠償が成立しない犠牲者家族はかなりの数に上る。「最下層」に位置していた沖縄奄美の我が家族といえども、かつては支配する側の日本人の範疇(はんちゅう)であった、などなど、頭を駆け巡り、天井を仰ぐのだった。
二二八事件追悼式典に沖縄から参加した一人が帰りの空港で、台湾人女性から話しかけられ、「二・二八事件事件で父親が犠牲になった沖縄の友人と追悼式典に参加した」と言うと、彼女は「新聞に出ていた青山という人でしょう。台湾には生活が苦しい人がたくさんいるのに、日本人にあんな補償金を支払うなんて」と言われた。また、台湾のある弁護士は「沖縄の青山さんが勝訴したことは画期的だ。国籍を問わず全ての犠牲者に補償すべきであるが、台湾の反応は複雑で賛否両論である」と述べている。
「日本が応えるとき」というメッセージ
「二・二八事件と日本」という視点からいうと、台湾は親日的だといわれるが、二・二八事件の裏返しではないかと考える人が少なくない。事件当時の台湾で、人々が揶揄(やゆ)した「犬去りて豚来たる」という歴史が今も深く沁みているように思う。犬は日本人、豚は中国人で、犬のほうが豚よりも良かった、という感想が込められている言葉だ。日本統治50年が何だったのか、改めて考え直さなければならない。
二二八追悼式典で基金会の陳士魁理事長は、アジア・太平洋戦争における台湾人の元慰安婦・元日本兵への戦後補償を促す日本政府へのメッセージを、私に託した。
「人権に国境はなく、平等互恵の原則により日本政府は不平等な補償を考え直して欲しい。台湾は青山さんの願いに応えました。今度は日本が応えるときです」
この言葉は、台湾愛が色濃く残る湾生の私に重く響いてくる。
日本は今こそ負の歴史に向き合い、「平等互恵の原則」を越えて台湾が示した良識と良心に真摯(しんし)に応えなければならない。台湾に心からの感謝を申し上げたい。有難うございました。二・二八事件の全ての受難者の真実が明らかになるよう共に手を取り合って取り組んで行きたい。
バナー写真:青山惠先、美江結婚記念写真(1942年7月、基隆市)
(写真はすべて筆者提供)