顔家の移行期正義―「指名手配犯」から被害者になった祖父
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二二八紀念館で知った祖父の「自新」
2月28日——またこの日がやってきた。
日本にいながら、毎年の二二八事件記念日を意識するになったのは、実は最近のことだ。きっかけは今から7年前の2015年。自分の書籍執筆の取材のため、台北の二二八和平公園内にある「台北二二八紀念館」を訪れたとき、こんな文字が目に飛び込んできた。
姓名 顔欽賢
略歴 台陽董事長
民社党台湾省党部主委
犯罪事実 二二八事変農委会委員 組織煤礦忠義服務隊反抗政府(炭鉱忠義服務隊を組織し政府に反抗した)
住所 基隆市
備考 由憲兵隊保出自新(憲兵隊同行のもと自首)
展示資料である「二二八事件自新者名簿」に、祖父・顔欽賢の名前があったのだ。「自新」という言葉の意味が分からなかった。
紀念館のガイドに教えてもらったところ、自新とは、誤った思想を改め、新たな出発をするという四字熟語「改過自新(かいかじしん)」から生まれた概念だという。
二二八事件においては、国民党政府が摘発対象人物に服従や財産没収などを要求しつつ、懐柔作戦に利用したのが「自新」の制度だった。5人の連帯保証人の名前を連ねた「自新書」に署名と十指すべてで押捺することで更生したと当局が認めた。
祖父が指名手配を受けたことは知っていたが、どのような経緯で社会復帰したかは、まったく知らなかった。祖父も、この自新書を提出していたのだ。それは、顔家としての国民党政権との「手打ち」であり、服従の証でもあった。
台湾人代表での交渉があだに
祖父が生まれた顔家は、基隆を拠点とし、観光地として有名な九份一帯で金や石炭を採掘し、事業を広げてきた一族である。日本の三井や三菱と同じく、戦前の台湾五大家族のひとつとして、有名な財閥だった。東京の礫川小学校から群馬県の高崎中学に進み、京都の立命館大学を卒業した祖父は、1937年に顔家三代目の当主の座に就いた。その後、基隆市参議会参議員や中華民国制憲国大代表を務めた。ところが、1947年の二二八事件で「犯罪者」になってしまった。
理由は二二八事件の解決を目指して、台湾人側を代表して国民党政権との交渉に当たったことだった。二二八紀念館に名前が刻まれるほど重大なことを、どうして台湾人の亡くなった父も大勢いる親族たちも、日本から頻繁に台湾を訪れていた私にきちんと教えてくれなかったのだろう。
「自新」の記述を目の当たりにして、脳裏に浮かんだ強い疑問だった。
それから私は、国家発展委員会の檔案管理局や図書館、二二八事件の研究者などを訪れ、顔家と二二八事件について取りつかれたように必死に調べ始めた。
台湾から届く「犯罪者」を示す資料
檔案管理局のホームページから資料検索ができ、特別な機密文書でなければ、電子ファイルとして詳細の記された文書を申請できる仕組みとなっている。日本から担当職員とメールのやり取りを重ねた。やがて無機質な一枚のCD-Rに、300枚以上にものぼる膨大な資料が焼き付けられ、台湾から日本の自宅に届いた。
軍管区司令部、国家安全局、台湾省政府、内政部警政署などの名前が入った専用紙に、達筆すぎる墨書きの文字や手のひら大はある朱印が押し付けられた文書には、「逃犯」「軍法」「政府転覆」など、次から次へと物々しい単語が現れ、目を丸くした。祖父が「犯罪者」であった事実を突きつけられるようだ。
例えば、2001年に機密解除された台湾省警備総司令部の指名手配犯を一覧表にした文書「二二八事変首謀叛乱在逃生死名冊」には、こう書かれていた。
顏欽賢 男 46 基隆
罪名 叛亂要犯(反乱要犯)
罪行(罪状)
(1)二二八事件處委會委員(二二八事件処理委員会の委員)
(2)主持組織煤礦忠義服務隊反抗政府(炭坑の忠義服務隊を組織して政府に反抗)
親戚たちも「被害」に
これ以外にも、顔家の「顔滄海」や「顔恵卿」も二二八事件と関係していたことが、国家檔案局の資料で言及されていた。
顔恵卿は私の父・顔惠民の3番目の弟で、小さいころから私のことを可愛がってくれた叔父だ。勇気を出して彼のところに訪れ、聞いてみた。
「おじさん、二二八事件で捕まったことがあったの?」
「……」
長い沈黙の後、「特になにかを取られたり、拷問を受けたりすることはなかったが、3週間くらいは牢屋に入れられたかな」という返事があった。
さらに問いかけても、「さあ、どうだったかな」を繰り返し、それ以上は聞いてくれるな、という雰囲気に私は完全に気圧され、話題を変えるしかなかった。
顔家と二二八事件の関わりを詳しく知る親族の大半はすでに他界している。生存者も口を開いてくれない。私を助けてくれたのは「二二八事件賠償金」を政府に求めることができる制度だった。
1995年、当時の総統であった李登輝が、国家元首として初めて二二八事件について謝罪し、かつ、被害者と認定されれば、国から本人や家族に対して賠償金が支払われる条例が制定されていた。
賠償金額は受けた被害の大きさで等級分けされている。命を落とした死亡を最高位の600万台湾ドル(約2400万円)とされ、失踪、監禁、名誉毀損などの状況によって金額が決められる。思い切って申請してみることにした。
基金会に被害者賠償を申請
二二八事件は顔家のビジネスにも影を落とし、巨額の資産を「献上」させられ、顔家の没落もそこから始まった。しかし、賠償申請はお金のためではまったくない。祖父の名誉回復をしたい、という気持ちが第一だった。果たして犯罪者なのか、被害者なのか。そして、日本で育った自分として、台湾の二二八事件と顔家の関わりについて明確な答えが欲しい思いが強かった。
時間をかけて資料をそろえて申請すると、しばらくして、一通の封書を受け取った。差出人は、財団法人二二八事件紀念基金会だった。
受難者:顏欽賢先生,經本會第……受難事實為「健康名譽受損」及「其他」……
(受難者:顔欽賢様 本会第……受難事実は「健康名誉毀損」および「その他」……)
私の祖父・顏欽賢が二二八事件の被害者だと認定され、その名誉が回復された証だった。審査の経緯がびっしりと書き込まれた文書も入っていた。賠償金はポイント制で算出される。祖父は内乱罪で指名手配をされたから10ポイント。そこに逃亡1年未満で1ポイント、その他1ポイントで合計12ポイント。1ポイントあたり10万台湾ドルの支給になるので、120万台湾ドルの賠償金が払われることになり、私を含めた親族10人が分割された金額の受領資格を持つことになった。
親族たちの微妙な反応
2017年、二二八事件から70年の節目の年に、私は、台北市で開催された追悼式典に、「受難者家屬(被害者家族)」として招聘(しょうへい)を受けた。2018年には、顏家のルーツがある基隆で開催された追悼式典「基隆市228紀念追思活動」に、受難者家族として出席した。だが、いずれの式典にも顔家の出席者は私だけだった。
賠償金についても、親族に報告したところ「関係ない」「余計なことをするな」「賠償金なんていらない」といった反応もあった。受け取らない人もいた。いまさら二二八事件について掘り起こしてくれるな、という態度が見て取れた。
親族が一様に歯切れが悪かったのは、事件が彼らに与えた禍根の深さを物語っているのかもしれない。あるいは、単に面倒なことに巻き込まれたくない、と考えたのかもしれない。日本に生活の基盤を置く私と比べて、台湾に暮らす人々にとって、二二八事件は比較にならないほど重く感じる出来事なのだ。
台湾の揺るぎない移行期正義への姿勢
ただ、賠償金を申請したことは後悔していない。祖父の名誉を確かに晴らすことができた。祖父は私が13歳まで健在だった。日本語で「タエちゃん」と私を呼んで可愛がってくれた。天国の祖父はあの笑顔になってくれていると自分に言い聞かせた。
台湾は、被害者の家族が、日本から賠償金を申請しても、真摯に対応し、被害者認定を行ってくれる。「歴史を償う」ことに対する揺るぎない信念を素晴らしいと思った。民進党の蔡英文総統が就任してからは、歴史の罪を洗い出す「移行期正義」を掲げ、二二八事件の真相究明もその目標の一つに入っている。
二二八事件は台湾人のアイデンティティに大きく影響した。私は、日本人であると同時に、顔家の4代目としてこの事件を決して忘れず、一族の若い世代にも伝えていきたい。今年は二二八事件から75年目となる。新型コロナの影響で受難者関係の追悼式に出席することはかなわないが、日本から静かにその様子を見守りたい。
バナー写真:「二二八事変首謀叛乱在逃主犯名冊」に見つけた祖父の名前
(写真はすべて著者提供)