「鎌倉殿」の史跡を巡る

承久の乱(下):武家が朝廷を破る、「配流の地」隠岐の島で後鳥羽上皇が過ごした日々(最終回)

歴史 文化 社会

「執権・北条義時を追討せよ」との後鳥羽上皇の命令が引き金となった承久の乱。反撃に出た鎌倉幕府軍は朝廷軍を打ち破り、その後650年近く続く武家社会の画期となった。しかし、勝者がいれば、敗者もいる。隠岐の島へ流された「治天の君」後鳥羽上皇は、絶海の孤島で晩年をどのように過ごしたのだろうか。

激流の宇治川の戦い

京都市の南を流れる宇治川。この川に架かる宇治橋の周辺が、承久の乱で幕府軍が朝廷軍と激突した最後の関門となった。河原に降りてみると、橋桁のそばは白く渦巻くほどの奔流となっている。琵琶湖を水源とする宇治川は水量が多く、流れが速い。宇治橋は長さ150メートルあるから、川幅もかなり広く、幕府軍を悩ませたのではと想像できる。

宇治橋のたもとの奔流(筆者撮影)
宇治橋のたもとの奔流(筆者撮影)

史書『吾妻鏡』によると、義時の嫡男・泰時が率いる幕府軍は1221(承久3)年6月13日、宇治川の南側に到達した。橋の上で朝廷軍と交戦したが、雨あられのように矢を浴びせられ、いったん退却。泰時は橋上の戦いをあきらめ、渡河作戦に切り替えることを決めた。地元の者から浅瀬の在りかを聞き出し、14日未明、作戦を決行した。

ところが、前日からの雨で増水し、川の流れは一段と速くなっていた。激流に飲まれ溺死した者や、渡り切らないうちに向こう岸の朝廷軍に弓矢で討たれる者も多く、96人が命を失った。泰時は一時、負けを覚悟したほどだが、幕府軍は川底に沈むのを防ぐため、重い甲冑(かっちゅう)を脱ぎ捨てたり、民家を取り壊して筏(いかだ)を作ったりして、懸命に宇治川を渡り切ったという。

(左)宇治川の浅瀬とみられる辺りで幕府軍は渡河した、(右)宇治川先陣の碑=筆者撮影
(左)宇治川の浅瀬とみられる辺りで幕府軍は渡河した、(右)宇治川先陣の碑=筆者撮影

川の中州に「先陣の碑」がある。これは、幕府方の佐々木信綱と芝田兼能が渡河の一番乗りを争ったことを示している。東国の御家人を突き動かしていたのは基本的に土地など恩賞を得ることであり、その分、京方の軍勢よりも戦意が旺盛だった。

宇治川を突破した幕府軍は翌15日、勢いのままに入京すると京方の武士や僧侶、公家を容赦なく討伐していった。そして、義時追討の院宣を出した後鳥羽上皇は「この合戦は自らの意思ではなく、謀臣のせいで起きた」と申し開きしたが、聞き入られず、隠岐への配流(はいる)が決まった。順徳院も佐渡、土御門院は土佐と計3人の院が流罪となった。

なぜ隠岐の島なのか

『吾妻鏡』によれば、後鳥羽上皇は同年8月5日、出雲国大浜湊(現在の島根県松江市美保関町)から船に乗り、日本海を渡った。目指す先は沖合60キロ余りの隠岐国阿摩郡、今で言う隠岐諸島の中ノ島・海士(あま)町である。わずか7人とみられる一行は荒波にもまれながら、島の南部の「崎」(さき)という小さな港にたどり着いた。

崎港(筆者撮影)
崎港(筆者撮影)

(左)後鳥羽上皇御着船の碑、(右)上皇の腰掛け石=筆者撮影
(左)後鳥羽上皇御着船の碑、(右)上皇の腰掛け石=筆者撮影

現地の後鳥羽院資料館の榊原有紀さんは「付き人は泊まり先を求めて、村人の戸を叩いたが、家の者は上皇らの装束を見て恐れ多いと思ったのか、固辞したと言い伝えられています。泊まる場所がなかなか見つからず、一帯の集落は『宿乞』(やどこい)と呼ばれました」と話す。上皇らは、その晩を近くの三穂神社で過ごさざるを得なかった。

後鳥羽上皇が一夜を過ごしたとされる三穂神社(筆者撮影)
後鳥羽上皇が一夜を過ごしたとされる三穂神社(筆者撮影)

後鳥羽上皇が配流された隠岐諸島の海士町

こう聞くと、上皇は過酷な環境の孤島に送り込まれ、前途多難のような印象を受けるが、実際は違う。地元の有力豪族の村上氏が上皇の身の回りの世話をすることになり、翌6日、上皇を迎え入れたのだ。この史実は先祖代々伝わる「村上家略記」に記されていると、第48代当主の村上助九郎さん(83)が明かした。

そもそも執権・北条義時は上皇の配流について、「生かさず殺さず」と考えており、配流先(※1)としてどこが適地か慎重に検討したと言われる。「略記」によると、幕府に対し隠岐国守護の佐々木泰清が「在地の村上という者に任せてみては」と進言し、隠岐に決まったという。村上氏は当時、海上交易を通じて富を蓄えていた実力者であり、上皇の身の回りの世話をするだけの十分な経済力があったと考えられる。

隠岐国守護が、村上一族と思われる「田所義綱」に対し、海上輸送を司る船所の権利を付与するという文書(村上家資料館提供)隠岐国守護が、村上一族と思われる「田所義綱」に対し、海上輸送を司る船所の権利を付与するという文書(村上家資料館提供)

島の生活

後鳥羽上皇の仮御所となる行在所(あんざいしょ)は、村上家に近い源福寺に設けられた。暮らしぶりについて、村上助九郎さんはこう語る。「『後鳥羽さんが来たらお茶を進ぜませ』と代々言い伝えられているほどで、毎日のように行在所から村上家まで足を運び、お茶を楽しんだという。次第に気を許して、配流生活の気持ちのはけ口となったのではないか。長生きして早く都に帰りたかったのかもしれない」

後鳥羽上皇の仮御所の行在所跡(筆者撮影)
後鳥羽上皇の仮御所の行在所跡(筆者撮影)

また、助九郎さんが宮内庁書陵部から独自に史料を取り寄せて調べたところによると、上皇の都での生活は毎日、物語を読んだり、写経したり、お経や神事にいそしんだりと、規則正しかった。村上家は上皇の配流後の生活でも、こうした「格式」を守らないといけないと考え、特に食事には気を配った。「武士と違って上皇の食事は朝と夕の2回だけ。夕食は時間をかけてごちそうをいっぱい作ったから、毎日大変だったようだ」

隠岐神社(筆者撮影)
隠岐神社(筆者撮影)

村上家資料館(筆者撮影)
村上家資料館(筆者撮影)

この島は海の幸、山の幸にあふれ、稲作も盛んだった。さらに島人は牛同士が角突き合わせて戦う「牛突き」で上皇をもてなしたり、「将棋の歴史」(増川宏一著、平凡社)という本によると、上皇は将棋を楽しんだりしたようだ。

伝統行事「牛突き」は23年ぶりに海士町で行われ、盛況だった(提供:後鳥羽院顕彰事業実行委員会)
伝統行事「牛突き」は23年ぶりに海士町で行われ、盛況だった(提供:後鳥羽院顕彰事業実行委員会)

望郷

島の生活にあまり不自由はなかったとはいえ、上皇はそれまでの雅(みやび)な世界と無縁になった。心は満たされず、天下人から一変してしまった境遇は受け入れ難く、苦悩や望郷の念が消えることはなかった。配流先で詠んだ和歌「遠島百首」には、そんな思いが率直に表現されている。都から人が隠岐に渡ることすら厳しく制限されていたから、時にはいら立ちを募らせることがあった。

「遠島百首」(後鳥羽院資料館提供)
「遠島百首」(後鳥羽院資料館提供)

第79歌 「とはるるもうれしくもなしこの海をわたらぬ人のなみのなさけは」
(手紙で安否を問われても何もうれしいことはない。海を渡って隠岐の島に訪れて来ない人の通り一遍の情けなんて)

「村上家は船を出してたびたび上洛しており、ある史料によれば『帰京したい』という上皇の手紙を朝廷を通じて幕府に届けたが、断りの返事しか返って来なかった。それでも上皇は戻って来る船を待ちわびていたと言われる」と、助九郎さん。後の時代に同じく隠岐に配流された後醍醐天皇は、幕府の統治が弱まっていたこともあり1年で脱出に成功したのに対し、後鳥羽上皇は18年間を配流先で過ごし、1239年に60歳で生涯を閉じた。

後鳥羽上皇の手形がくっきりと記された御手印御置文。忠臣・藤原親成への感謝をつづっており、「遺言」と言われている(複製、後鳥羽院資料館提供、原本は水無瀬神宮所蔵)
後鳥羽上皇の手形がくっきりと記された御手印御置文。忠臣・藤原親成への感謝をつづっており、「遺言」と言われている(複製、後鳥羽院資料館提供、原本は水無瀬神宮所蔵)

日本史の転換点

後鳥羽上皇らが去り、幕府の影響下で後堀河天皇、後高倉院が即位した京都では、朝廷の監視に当たるため、幕府は出先機関として六波羅探題(ろくはらたんだい)を平家一門の屋敷跡に置いた。さらに西国の所領も没収し、東国の御家人らに恩賞として再分配したため、全国の勢力地図は大きく塗り替えられた。

(左)六波羅蜜寺は醍醐天皇の皇子・空也上人が951年に開いたが、平安後期には平家一門の邸宅が並んだ(右)境内にある六波羅探題跡の石碑=筆者撮影
(左)六波羅蜜寺は醍醐天皇の皇子・空也上人が951年に開いたが、平安後期には平家一門の邸宅が並んだ(右)境内にある六波羅探題跡の石碑=筆者撮影

承久の乱とは一体、何だったのだろうか。鎌倉歴史文化交流館の山本みなみ学芸員は、「朝廷と武家の関係性というのが完全に武家政権優位になり、武士中心の政治を行っていく日本史の大きな流れが決まった。これが最大の意義だろう。皇位継承権についても、武家が介入する先例ができた」と話す。

一方、放送大学の近藤成一教授はこう指摘する。「義時は後鳥羽院を配流したが、既存の秩序までは崩さなかった。『京都に朝廷、鎌倉に幕府』という二元性の中で、鎌倉が主導権を握るようになった」。公武の政治的な二元性の中から、再び天皇制が前面に出る機会が生まれた。承久の乱から約650年後の大政奉還である。

義時とは何者か

3人の帝を配流した義時は、かつて歴史上の評価は散々だった。近世では儒学者でもある新井白石が「日本一の小物」と非難。明治新政府の下の国定教科書では「不忠の臣」と表現され、昭和の戦中期に至っては皇国史観の中で取り上げられることさえなかったという。「今、義時が大河ドラマで主人公として取り上げられるのは世の中が180度変わったのだなと実感する」と、山本氏は話す。

とはいえ、義時を手放しで「ヒーロー」と呼ぶことはできないだろう。比企の変、源頼家殺害、和田合戦、そして承久の乱。あまりに多くの血が流れた。大河ドラマでは、息子の泰時が「父上(義時)は間違っています」と叫ぶ場面が何度もあった。この言葉は、少し前まで義時自身が父・時政に向けていたのと同じだ。自身が権力の階段を上るにつれ、「やらなければやられる」立場に追いやられ、「善悪」と異なる次元の判断を日々迫られるようになった。

近藤教授は「義時は実直な人。自分が表に立つというよりも、与えられた仕事を一生懸命やって来た。権力は握っていたが、率先して権力を握ろうとしたのではなく、そういう立場になってしまった」と評する。義時の行った「仕事」は武家社会確立への地ならしとなり、その土台の上に泰時が全盛期とも言える治世を展開していったのである。

2005年の発掘調査で遺構が見つかった北条義時の法華堂(墳墓堂)跡、源頼朝の法華堂の東側に建てられた(筆者撮影)</span></p>
<p>バナー写真:後鳥羽上皇御火葬塚、村上助九郎さんは宮内庁非常勤職員として御火葬塚の管理も任されている(筆者撮影)
2005年の発掘調査で遺構が見つかった北条義時の法華堂(墳墓堂)跡、源頼朝の法華堂の東側に建てられた(筆者撮影)

バナー写真:後鳥羽上皇御火葬塚、村上助九郎さんは宮内庁非常勤職員として御火葬塚の管理も任されている(筆者撮影)

●道案内

  • 宇治橋、宇治川:京都駅からJR奈良線で「宇治」駅下車、徒歩5分。川の南側には平等院鳳凰堂がある。
  • 六波羅探題跡:京阪本線「清水五条」駅から徒歩10分の六波羅蜜寺境内にある。
  • 隠岐諸島の海士町:大阪・伊丹空港から隠岐空港まで空路で約45分。隠岐の島町の西郷港から海士町の菱浦港までフェリーで約1時間。後鳥羽上皇を巡る史跡が多数ある。
  • 北条義時の法華堂跡:鎌倉駅東口から大塔宮行きバスで「岐れ道」下車。清泉小学校裏の二つの石段のうち右側を上る。

●これまで取材や史料提供、写真撮影に協力していただいた方々

▼鎌倉歴史文化交流館の大澤泉学芸員▼同交流館の山本みなみ学芸員▼同交流館の青木豊館長▼鎌倉市教育委員会文化財課の福田誠氏▼湘南工科大学の長澤可也教授▼放送大学の近藤成一教授▼東京大学史料編纂所の高橋慎一朗教授▼歴散加藤塾の加藤正昭塾長▼嵐山史跡の博物館の中村陽平学芸員▼日蓮宗宗務総長室の富川大亮宗務課長▼秦野市生涯学習課の山口克彦氏▼後鳥羽天皇御火葬塚守部の村上助九郎氏▼後鳥羽院資料館の榊原有紀氏▼海士町教育委員会の水谷憲二学芸員▼鎌倉歴史文化交流館▼国立公文書館▼満福寺▼宝戒寺▼鎌倉市教育委員会▼妙本寺▼鎌倉日蓮堂▼薬王寺▼嵐山史跡の博物館▼都城市立美術館▼三浦市役所▼鶴岡八幡宮▼甲斐善光寺▼金剛寺▼神奈川県立歴史博物館▼鎌倉国宝館▼明王院▼東大史料編纂所▼寿福寺▼村上家資料館▼後鳥羽院資料館▼隠岐神社▼海士町役場▼宇治市役所▼各務原市教育委員会▼宮内庁月輪陵墓監区事務所▼六波羅蜜寺▼水無瀬神宮

(※1) ^ 流罪のうち、都から遠く離れたところへ身柄を移される最も重い刑罰を遠流(おんる)という。律令の細則をまとめた延喜式によると、配流地は伊豆、安房、常陸、佐渡、隠岐、土佐などとなっている。

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