承久の乱(上):政子の演説が御家人を動かす、「幕府分裂」を読み違えた後鳥羽上皇(11)
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大内裏焼失
実朝暗殺後、その跡継ぎとして皇子(親王)の鎌倉入りを求める幕府に対して、後鳥羽上皇が出した回答は、摂関家・九条道家の三男でわずか2歳の三寅(後の藤原頼経)をしぶしぶ送り出すことだった。1219年のことである。
しかし、この幼い将軍の誕生が思わぬ大事件を引き起こしてしまう。摂津源氏の流れをくみ、平安宮の内裏(だいり、天皇の住む宮殿)を警固する要職にあった源頼茂(よりもち)はかねて「自分こそが将軍になるべきだ」と考えていた。意に反して三寅が後継者になったことに反発し、謀反を企てていると風聞が立った。後鳥羽は追討の院宣を出したが、頼茂は大内裏に立てこもり、火を放って自害。大内裏と宝物の多くが焼失した。
いわゆる「三種の神器」の宝剣を、壇ノ浦の合戦での安徳天皇入水に伴い失ってしまい、後鳥羽はかねて自らの正統性に悩んでいた。それに加えて大内裏まで焼かれ、寝込むほどのショックを受け、「将軍の地位をめぐる内紛によって、許し難い不祥事を起こした幕府に敵意を募らせた」(坂井孝一著『鎌倉殿と執権北条氏』)。やり場のない怒りが幕府への八つ当たりとなって表れた。
後鳥羽は大内裏再建に向け全国規模の大増税を命じたが、幕府はこれに応じなかった。
北条義時追討の院宣
実朝の身を暗殺者から守れなかったうえに、大内裏の再建資金拠出など要求をことごとく拒んだ執権・北条義時。後鳥羽の怒りは頂点に達し、1221年5月15日、東国の有力御家人に宛てた「北条義時追討の院宣」と、全国の守護・地頭に宛てた「官宣旨」(かんせんじ)をついに発布した。その内容はおおむねこうだ。「幼い三寅を将軍と称しているが、実際は義時がほしいままに裁断を下し、政治を乱している。義時を追討せよ」
義時追討の院宣と官宣旨を出したのは、言うことを聞かぬ義時への怒りもあるが、この戦に「勝算あり」と判断したとも考えられる。
鎌倉歴史文化交流館の山本みなみ学芸員は、「後鳥羽院は頼朝死後の鎌倉幕府をずっと見てきた人で、内部でもめ続けているのを知っていたと思う」と話す。かつて頼朝を支えていた御家人たちは権力闘争に明け暮れ、頼家、実朝の源家将軍は暗殺された。「頼朝の血を引く男子がいなくなった今、後鳥羽院は幕府が瓦解するのも時間の問題ではないかと思っていた」と山本氏。
院宣は幕府の本拠地である東国の有力御家人らに宛てられており、「『幕府内部にも義時の敵対者がいるはずだ。院宣を目にすれば、朝廷の味方につくだろう』と過信していた」と同氏は見る。果たして後鳥羽の目算通りに事は運んだのだろうか。
政子の演説
院宣は次第に鎌倉に伝わり始めた。幕府は、院宣と官宣旨を所持した密使が既に鎌倉入りしたことを察知。その密使を捕まえると、追討の対象である「朝敵」が義時だと分かった。
義時が追討の対象であれば、後鳥羽の読み通り朝廷側に寝返る者が出てくるかもしれない──。実際、院宣の宛て先には北条義時の弟・時房や三浦義村(※1)ら幕府の中枢も含まれており、「同族内の競合・対立を利用して御家人たちの分断を狙った」(坂井孝一著『承久の乱』)
一計を案じた尼将軍・政子は院宣が出たことを認めつつ、追討の対象を「幕府」にすり替えて、御家人に伝えようとした。朝廷による分裂工作を回避し、結束を促すのが狙いだ。5月19日、御家人らを集め、御簾(みす)の奥から安達景盛を介して「皆、心を一つにして承るように」と語り掛けた。
「故右大将軍(源頼朝)が朝敵を征伐し、関東を草創して以後、官位といい、俸禄といい、その恩は既に山よりも高く、海よりも深い。(その)恩に報いる思いが浅いはずはなかろう。そこに今、逆臣の讒言(ざんげん)によって道理に背いた綸旨(りんじ、天皇の意を受けた命令書)が下された。名を惜しむ者は(京方の大将軍の)藤原秀康らを討ち取り、三代にわたる将軍の遺跡(ゆいせき)を守るように。ただし院(後鳥羽)に参りたければ、今すぐに申し出よ」
放送大学の近藤成一教授(日本中世史)は、この演説について、「(政子は)義時の蒙(こうむ)った『逆臣』の汚名を御家人全体が蒙ったものと受け止め、『名を惜しむのやから』が団結して反撃することを呼びかけた」と解説する。また政子は幕府方、京方のどちらに付くか各御家人に即断を迫ったこともあり、落伍者は一人も出なかった。涙を流す者まで現れて、御家人同士の結束が図られた。後鳥羽の読みは外れた。
守るべきか、攻めるべきか
問題は戦略だ。軍評会議では「箱根の関辺りで上皇軍を待ち構えるべきだ」とする守りの姿勢を強調する者も多かったが、長老の大江広元は「上皇軍が来るのを待っていては、幕府軍の中に心変わりする者が出てくる恐れがある」として、京へ攻め上がるべきだと主張。政子もこれに応じ、最終的に北条義時が断を下した。
同年5月22日、義時の長男・泰時が率いる先発隊が鎌倉を出発。軍勢は当初わずか18騎だったが、東国の武士が恩賞目当てに次々に参集し、『吾妻鏡』によれば最終的に19万騎に膨らんだという。幕府軍は三手に分かれて、京へ向かった。
その動向は朝廷側にも伝わり、大きな動揺をもたらした。特に幕府軍が木曽川に近い摩免戸(まめど、現在の岐阜県各務原市)で、京方の軍勢を破ったと伝わると、後鳥羽は軍勢の立て直しに向け、比叡山延暦寺の僧兵に頼ろうとした。幕府軍はいよいよ、京を守る天然の要害である宇治川と勢多(瀬田)川に迫っていた。
バナー写真:義時追討の官宣旨案(複製、神奈川県立歴史博物館所蔵)。「右弁官下す 五畿内諸国」との書き出しから、後鳥羽上皇の命令を受けた最高機関の右弁官が全国の行政区に宛てた公的文書であることが分かる。
●道案内
- 鎌倉国宝館:鎌倉駅から北方向へ徒歩10分の鶴岡八幡宮境内にある。国宝館は関東大震災で鎌倉市内の社寺や文化財が失われた教訓から、貴重な文化財の保管と展示を目的に1928年(昭和3年)に設立された。2022年は「北条氏展」を通年企画として、鎌倉歴史文化交流館と共同開催中。
- 明王院:鎌倉駅東口から浄明寺方面行きバスで「泉水橋」下車、徒歩3分。1235年に第4代将軍藤原頼経(三寅)により将軍の屋敷の鬼門除けとして創建された。
- 寿福寺:鎌倉駅西口から北方面へ徒歩10分。裏の墓地には、政子の墓とされるやぐらがある。代表的な禅寺「鎌倉五山」の一つ。
(※1) ^ 北条時房について、放送大学の近藤成一教授は「義時よりも在京体験が多かったので、後鳥羽側からは、時房を義時から離反させて味方に引き入れることが可能に見えたかもしれない」という。また、幕府側のキャスチングボートを握っていた三浦義村は、義時追討の密書を手に入れるや義時に届け、忠誠心を示しており、後鳥羽の読みは外れた。