「鎌倉殿」の史跡を巡る

燃え上がる将軍御所:執権・北条義時と重鎮・和田義盛の「最終決戦」(9)

歴史 文化 社会

源頼朝なき後の有力御家人同士の権力闘争。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を見て、「えっ、今度はあの人が…」などと、次々と有力者が消えていくすさまじさに驚く人は多いだろう。その最終決戦が、執権・北条義時と、鎌倉幕府草創期から侍所別当(長官)としてにらみを利かせてきた重鎮の和田義盛との激突である。

和田義盛木像(非公開・拝観不可、来福寺蔵)=写真提供・神奈川県三浦市
和田義盛木像(非公開・拝観不可、来福寺蔵)=写真提供・神奈川県三浦市

御所炎上

北条義時が父の時政を追放した「牧氏の変」(1205年)以降、しばらく平穏な時を迎えていた鎌倉幕府に8年後、再び激震が走った。執権・義時の命と第3代鎌倉殿・源実朝の更迭を狙った大規模なクーデター計画(泉親衡の乱)が発覚したのだ。容疑者の数はおよそ200人。驚くべきことに、幕府の中枢に座る和田義盛の子息や親族が含まれていた。

義盛は「自分は関与していない」と主張。実朝は義盛に信頼を置いていたため、2人の子息には恩赦を認めたが、命を狙われた義時がどうしても許さなかったのが、義盛の甥で主犯格の和田胤長(たねなが)である。後ろ手を縛られ、引き回しのような形で義盛の目の前を連行されていった。所領も没収され、義盛は怒り心頭に発する。いつ激突が起きてもおかしくない不穏な空気に鎌倉は包まれた。

そして、1213年(建保元年)5月2日、鶴岡八幡宮に近い将軍御所を主戦場にした大規模な内戦が勃発。その模様は史書『吾妻鏡』に詳述されている。それによると、午後4時ごろ、和田の軍勢は3手に分かれて、将軍御所の南門と義時邸の西・北両門を急襲した(①)。さらに幕府の長老、大江広元邸も襲撃し、その先の政所周辺で幕府軍と激しい戦闘になった(②)。約2時間後、和田軍は御所の四方を取り囲み、矢を放つ(③)。

警護が堅かった南門も、義盛の三男の朝比奈義秀(あさひなよしひで)(※1)がついに打ち破り、御所南庭に乱入した(④)。強者(つわもの)の義秀は幕府の御家人らを次々と討ち倒し、火を放つ(⑤)。炎上する御所を後にして、将軍・実朝は義時や広元らに付き添われて北門から脱出、小高い丘を登り、故・源頼朝の眠る法華堂へ命からがら逃げた(⑥)。北門に立ちふさがるはずの、ある人物がその場におらず、みすみす見逃してしまったが、緒戦は和田側の優勢と言えた。

朝比奈義秀が南門を打ち破った様子を描いた「和田合戦図屏風(部分)」(都城市立美術館所蔵)
朝比奈義秀が南門を打ち破った様子を描いた「和田合戦図屏風(部分)」(都城市立美術館所蔵)

将軍御所は焼け落ちてしまったため、往時を偲ばせる史跡は現在、法華堂ぐらいしかない。もともとは頼朝の墓とお堂が一体化した施設だったが、今は墓のみ残っている。

法華堂の石段。将軍・実朝は義時らとともに燃え盛る御所を後に駆け上がった(筆者撮影)
法華堂の石段。将軍・実朝は義時らとともに燃え盛る御所を後に駆け上がった(筆者撮影)

政所と義時邸(現宝戒寺)の近辺でも激戦が繰り広げられた(筆者撮影)
政所と義時邸(現宝戒寺)の近辺でも激戦が繰り広げられた(筆者撮影)

流れを変えた1枚の紙

戦いは日をまたぎ翌3日に及んだ。だが、「いざ鎌倉」とばかりに現地に駆け付けた曽我、二宮など相模国の武士らは「相当混乱していて、将軍・実朝がどこにいるのか分からず、どちらの味方をしたらよいか迷っていたのではないか」と、放送大学の近藤成一教授(日本中世史)は見る。

御教書を記した『吾妻鏡』1213年5月3日条。急いで書いたためか、ほぼひらがなで書かれている(国立公文書館所蔵)
御教書を記した『吾妻鏡』1213年5月3日条。急いで書いたためか、ほぼひらがなで書かれている(国立公文書館所蔵)

そこで義時らは一計を案じ、「和田義盛らは謀反を起こして主君に弓を引いたが、別条はない。敵を急いで討ち取れ」としたためて、実朝が花押を記した「御教書(みぎょうしょ)」を大量に発給。配りまくった。

その効果はてきめんで、義時が実朝の身柄を保護したことが伝わっていくと、義時側につく者が急増し形勢は逆転。いったん南の由比ガ浜に退避した後、再び将軍御所に向けて北進しようとした和田軍は、要所で行く手を阻まれた。激戦の末、3日午後6時ごろ、ついに義盛は討ち取られた。翌4日、数キロ離れた片瀬川(現在の藤沢市)の川辺にさらされた和田側の首は234に及んだという。鎌倉幕府始まって以来の壮絶な内戦だった。

由比ガ浜を舞台にした合戦跡ではないかと言い伝えられているのが、「和田塚」だ。明治時代に道路工事をした際に、大量の人骨が発見された。どの時代の骨か検証されているわけではないが、現在は和田一族の墓や石碑が並んでいる。

和田塚(筆者撮影)
和田塚(筆者撮影)

出世レースで追い越された義盛

北条義時と和田義盛が激突した背景には何があるのだろうか。「義時主戦」論を唱える東大史料編纂所の高橋慎一朗教授は、「侍所を押さえて将軍とつながる義盛が権力を強化する前に、早めに排除したかったのではないか」と指摘。義時は、自分を差し置き義盛が実朝と連携を強めることを警戒していたとみる。義盛の甥を引き回すという挑発で、和田の勇み足を誘い、滅ぼそうとしたわけだ。

一方、挑発に乗せられた側面があるにせよ、義盛には北条氏への積年のライバル意識が根強く、どのみち衝突は避けられなかったとも考えられる。義盛は、鎌倉に接した三浦半島一帯を拠点とする相模国の有力豪族、三浦一族の一員。伊豆国から隣地にやって来て将軍権力を操る北条氏に思うところがあったのではないか。

義盛の居館があったとされる和田城址(左)と、源氏の旗印の白旗の下で活躍した義盛を祀る神明白旗神社(右)。義盛は三浦一族から和田という所領を与えられて、和田姓を名乗った。義盛は源平合戦での戦勝の宴を地元で開き、「初声(はっせ)の舞」を披露したことから、この地は初声和田と呼ばれる(筆者撮影)
義盛の居館があったとされる和田城址(左)と、源氏の旗印の白旗の下で活躍した義盛を祀る神明白旗神社(右)。義盛は三浦一族から和田という所領を与えられて、和田姓を名乗った。義盛は源平合戦での戦勝の宴を地元で開き、「初声(はっせ)の舞」を披露したことから、この地は初声和田と呼ばれる(筆者撮影)

特に義盛は、御家人の賞罰を司る侍所別当という幕府内の最有力者だったにもかかわらず、北条氏に官位の出世レースで後れを取り、そのことが怨嗟(えんさ)を増幅させた可能性がある。実は出世レースを当初、リードしていたのはむしろ義盛の方だ。源平合戦の勲功などから、源頼朝に重用されて1195年に左衛門尉(さえもんのじょう)に任官したのに対し、北条時政は無官だった。

ところが、頼朝の死後、北条氏が次第に幕府の主導権を掌握するようになると、事態は変わる。「時政が1200年、遠江守(とおとうみのかみ)に任ぜられてから、義時(相模守)、時房(武蔵守)と北条一族が国司の数を増やし、和田は追い越された。『最初は俺の方が上だったのに』という思いがあったのでは」と、放送大の近藤教授は話す。

義盛の左衛門尉は位階の上では、国司クラスより1ランク下。北条氏に肩を並べようと、将軍・実朝に国司相当の「上総介(かずさのすけ)」への任官推挙を求めた。実朝は認める方向に傾いていたが、北条氏から横やりが入った。特に政子は「頼朝時代以降、御家人は国司に任官されなくなった」と主張した。北条氏から国司が続出している現状を見れば、明らかなダブルスタンダード。「北条氏は頼朝の身内であって、ほかの御家人とは違うんだよと見せつけた」(近藤教授)も同然である。

「三浦の犬は友を食らう」

将軍御所を舞台とした合戦は、和田勢が勝ってもおかしくなかったと言われている。鍵を握ったのは、和田義盛と同族関係にあった三浦義村の動きだ。義村は「いざという時には義盛の側につく」との起請文を書き、密約を交わしていた。ところが、義盛から御所に攻め入るとの情報が入ると、北条義時に漏らしてしまった。さらに御所の北門を押さえて、実朝の逃げ口をふさぎ身柄を確保するという役割を放棄したのも義村。見事なまでの「裏切り」である。

実は和田義盛と三浦義村は一族の惣領(跡取り)争いをしていた。「義村が起請文を書いたのは義盛を油断させるためだった可能性がある」(坂井孝一著『考証 鎌倉殿をめぐる人びと』)。北条氏に恩を売り、なおかつ三浦一族の惣領の座を手に入れようとしたのか。土壇場で相手を欺いた義村は後に「三浦の犬は友をも食らう」(※2)と、揶揄(やゆ)された。義村は対抗心むき出しの義盛と違い、強い北条側につきながら戦乱の世を泳いでいく。

戦いを制した北条義時は義盛から侍所別当という地位も奪い、政所別当と合わせて権力を盤石のものとした。向かうところ敵もなく、姉の尼将軍・政子とともに若き将軍・実朝を支え、安定期に入っていくはずだった。

バナー写真:「和田合戦図屏風(部分)」(都城市立美術館所蔵)

●道案内

  • 法華堂:鎌倉駅発鎌倉宮方面などで「岐れ路」下車、清泉小学校の北側
  • 宝戒寺:鎌倉駅から徒歩15分、鶴岡八幡宮そば
  • 和田塚:江ノ電「和田塚」駅から徒歩1分
  • 和田城址、神明白旗神社、和田義盛旧里碑:京急「三崎口」駅から横須賀行きバスで「和田」下車。周辺に史跡が点在している。住所は三浦市初声(はっせ)町和田。

(※1) ^ 木曾義仲の愛人とされ、武勇の誉れ高い巴御前は源頼朝に討伐されそうになった。これを和田義盛が必死に遮り、二人は後年、結ばれた。朝比奈義秀は二人の間の子という説もある。

(※2) ^ 酒宴で上座に座った年少の下総の豪族・千葉胤綱に対して、三浦義村が「下総犬は臥所(ふしど、寝るところ)を知らぬ」と、とがめたところ、千葉は「三浦の犬は友をも食らう」と言い返したとされる。

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