妙本寺:比企一族を惨殺し将軍を幽閉、「ポスト頼朝」北条時政の野望(7)
歴史 社会 文化- English
- 日本語
- 简体字
- 繁體字
- Français
- Español
- العربية
- Русский
無防備な比企能員
頼朝の死後、「鎌倉殿の13人」のうち有力メンバーである北条時政と、武蔵国比企郡(現在の埼玉県中部)を拠点とする比企能員の間で、にわかに緊張が高まった。頼朝には長男・頼家と次男・実朝という二人の男子がいた。権力の座にありつこうと、時政は実朝を、能員は2代将軍に就いたばかりの頼家を囲い込み、両陣営間で小競り合い(※1)が起きていた。
そして、ついに雌雄を決する時が来た。1203年9月2日、時政は何事もなかったかのように「薬師如来像が出来たので、その供養に来ませんか」と多くの要人らに呼び掛け、自邸の「名越(なごえ)の館」に招いた。能員も客人の一人だった。
しばらくして能員が(時政邸)に入った。平礼(ひれ)烏帽子に白い水干・葛袴を着て、黒い馬に乗っていた。郎党二人・雑色(ぞうしき)五人が一緒であった。惣門を入って中門廊の沓脱(くつぬぎ)に昇り、妻戸を通って(寝殿の)北面に行こうとした。
その時、蓮景・(仁田)忠常が、造合(つくりあい)の脇戸のところに立ちはだかり、能員の左右の手をつかんで、築山の麓の竹林の中に引き倒し、即座に殺害した。時政は出居に出て、これをご覧になったという。(『吾妻鏡』より抜粋)
『吾妻鏡』は淡々とした筆致で事実を記しているが、それだからこそかえってすごみがある。
能員はあまりに無防備だった。警護に当たる家人や郎従に甲冑を着せ、弓矢を持たせていくべきだとの周囲の進言に耳を貸さず、「誤って人に疑いを生じさせる原因となり、騒ぎが起きるだけだ」と退けたという。
やがて「名越の館で何かあったらしい」と比企邸の御家人たちが騒ぎ出したが、時既に遅かった。北条義時らの襲撃に遭い、屋敷に火が放たれ、比企一族の大半は一夜にしてこの世を去った。その中には頼家の嫡男(ちゃくなん)で次世代の将軍候補でもある一幡も含まれていた。「比企の変」と呼ばれる事件だが、実態は「時政の変」である。
生存者が創建した寺
比企一族が惨殺された屋敷の跡は現在の妙本寺だ。北条の襲撃から辛くも難を逃れた能員の末っ子、能本(よしもと)が後に鎌倉で日蓮聖人と出会う。これがきっかけになり、一族の霊を弔うため創建したと言われる。寺のそばを通る当時のメインストリート小町大路(小町通りとは別)で、日蓮は連日辻説法していたとされ、能本はすがる思いで聞き入ったのかもしれない。
寺の総門をくぐり、木陰の参道を抜け石段を上る。視界がぱっと開け、壮大な祖師堂が目に飛び込んで来る。鎌倉でも屈指の名刹だ。比企一族の墓は向かって右側にある。寺は丘陵の谷間に位置することから、周辺は「比企谷(ひきがやつ)」とも呼ばれている。
一方、能員殺害の舞台となった時政邸「名越の館」の所在地については、確定的なことは言えない。従来は釈迦堂切通し(鎌倉市大町)近辺の「大町釈迦堂口遺跡」がその跡と伝承されてきたが、発掘調査をしても時政の時代に該当するような遺構は見つかっていない。
史料には「浜御所」との記述もあることから、海に近く、北条家との縁(※2)が深い「弁谷(べんがやつ)」(現在の同市材木座付近)に、立地していたのではとの学説が浮上。発掘調査の結果、「12~13世紀中頃の池の一画が見つかったほか、その後池を埋め立てて建てられた立派な建物の遺構も見つかった」(同交流館の大澤泉学芸員)。
また、『吾妻鏡』には、「新善光寺辺りの名越山荘」(1258年5月5日条)との記述もある。この寺は弁谷付近にあったと古くから言い伝えられており、実際に「やぐら」(岩穴式墳墓)や骨壺(四耳壺)が見つかっている。これらと新善光寺の関係が明らかとなれば、「名越山荘」の手掛かりとなるかもしれない。弁谷は現在、山に囲まれた住宅街となっており、石碑が建っている。
周到な電撃作戦
一連の襲撃は事前に用意周到にシナリオが描かれていたようだ。頼家が重い病に倒れてからわずか2カ月後の同年9月2日、能員暗殺事件が起きた。頼家は病の床で激怒したが、時政は手を緩めない。
翌3日には、朝廷に使者を送り、頼家が存命中にもかかわらず「亡くなったので、(弟の)実朝を将軍に任じてほしい」と伝えた。頼家はその後、病から奇跡的に回復したが、後の祭り。同月7日には出家を余儀なくされた。この間、わずか6日の出来事である。
失意のうちに修善寺に幽閉された頼家は翌1204年7月に殺害された。北条側の立場を反映した『吾妻鏡』は「死去の報が届いた」としか触れていないが、『愚管抄』は「刺客は抵抗する頼家の首にひもを巻き付け、刺殺した」と記し、『承久記』などは北条側が手を下したとしている。「ポスト頼朝」を担うはずの「頼家・比企」陣営はあっという間に葬り去られ、執権・北条家の時代に突入する。
祖父と孫の対立
北条時政と比企能員の対立の芽は頼朝時代にさかのぼる。頼朝は伊豆の流人時代、乳母(めのと)の比企尼の世話になる一方、北条家からは政子をめとり、挙兵の際には一族で支えてもらった恩義がある。
この時代、有力な武家では、親は子育てという“雑事“に関わらず、乳母に預けて実子を育てさせた。頼朝は、わが子の大事な乳母探しに際して「頼家は比企に、実朝は北条にというふうに決めたのだと思う」と、鎌倉歴史文化交流館の山本みなみ学芸員は見る。恩義のある両家に偏りが出ないよう、頼朝なりに配慮したのかもしれないが、皮肉なことに対立を招いてしまった。
それにしても、時政から見れば、頼家と実朝はともに「孫」に当たる。祖父自らが二人のうち一方を敵方(頼家)として退けるというのはどんな心情だったのだろうか。山本氏は「頼家は乳母の比企家が完全に囲っているので、時政が会うこともほとんどなかっただろうし、実朝とは愛情の点でも偏りがあったのでは。結局、将軍・頼家が比企の意向を重視する以上、政敵とならざるを得なかった」と話す。
そして頼家自身も、乳母夫であり舅でもある能員の影響を受けて、北条家と敵対。「比企の変」に先立つ4カ月前、時政の娘婿・阿野全成(あのぜんじょう、頼朝の異母弟)を謀反の疑いで拘束した。「頼家が実朝・北条派の勢力を削っていこうという時に最初に血祭りに上げたのが全成であり、その殺害を命じた。さらに全成の妻・阿波局(時政の娘)の身柄引き渡しまで迫った」(山本氏)。時政と頼家はもはや「祖父と孫」の関係にはなかった。
もともと伊豆の小豪族の長に過ぎなかった北条時政にとって、将軍・頼朝の舅という座が転がり込んできたのはこの上ない幸運だった。だが、頼朝の死後、時政を駆り立てたのは、喪失しかけている特権に必死にしがみつこうとする執念だった。わずか12歳の孫の源実朝を将軍に立て、自らは初代執権に就任。実質的な権力者として振る舞い始めたのである。
バナー写真:妙本寺の比企一族の墓(筆者撮影)
●道案内
- 妙本寺:鎌倉駅東口から徒歩5分
- 弁谷の石碑:鎌倉駅東口から小坪経由の逗子行きバスの「光明寺」下車、徒歩5分
- 釈迦堂切通し:鎌倉駅東口から逗子行きバスの「名越」下車、徒歩15分。崩落の恐れがあり、立ち入り禁止。
(※1) ^ 本文最後から2段落目に出てくるように、比企・頼家側が北条時政の娘婿、阿野全成を殺害する事件(1203年6月)が発生。また、頼家の家督継承を巡り、不満を募らせた比企能員が頼家に時政追討を進言。このやり取りを立ち聞きした北条政子から、謀議を知った時政は、能員殺害を決意したとされる。
(※2) ^ 『鎌倉の歴史 谷戸めぐりのススメ』(高橋慎一朗編、高志書院)によれば、弁谷の東側の山沿いはもともと「高御倉(みくら)」「浜御倉」などと呼ばれ、武蔵国や幕府直轄領の年貢を収蔵する倉庫群があったとされる。倉庫は武蔵守でもあった北条経時が管理するなど、弁谷は北条家との縁が深い土地柄であり、北条家の所有地でもあった。また、物資を運び込む海上交易の要所として、「材木座」や人工島の「和賀江嶋」が近辺に位置していた。