「鎌倉殿」の史跡を巡る

永福寺:よみがえった「幻の大寺院」、頼朝が恐れた怨霊(6)

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鎌倉時代の史書『吾妻鏡』にたびたび登場しながら、1405年に炎上して姿を消した「幻の大寺院」永福寺(ようふくじ)。600年近い時を経て鎌倉市が発掘調査に踏み切り、ついに全貌が明らかになった。それは3つの大きなお堂と池を備え、宇治の平等院や平泉の毛越寺(もうつじ)に匹敵する浄土寺院だった。源頼朝が建立した訳とは――。

三つのお堂と池

鎌倉駅から北東方向にバスで10分の鎌倉宮。そこからさらに5分ほど歩くと、永福寺跡を整備した1.6万平方メートルもの広大な史跡公園(2017年7月開園)にたどり着く。小高い丘から見下ろすと、お堂の土台となる正方形の「基壇」が南北方向に三つ並び、その向かいにはひょうたん型の池が面しているのがくっきり分かる。基壇の大きさから、建屋の威容が想像できる。

ひょうたん型の池は幅100メートルを優に超える(筆者撮影)
ひょうたん型の池は幅100メートルを優に超える(筆者撮影)

二階堂の基壇(筆者撮影)
二階堂の基壇(筆者撮影)

丘から降りて歩いてみる。南側のお堂跡から突き出した翼廊の先が池に接している。表示には「釣殿」とあり、ここで糸を垂らして釣りを楽しんだのだろうか。北側に回ると、谷間の流水を引き込んだ「遣水」(やりみず)があり、せせらぎを演出するかのように小石が配置されている。京に生まれ、憧れを抱いていた頼朝の意向を反映した造りのように見える。

(左)南側の阿弥陀堂から突き出した釣殿、(右)北側の遣水=いずれも筆者撮影
(左)南側の阿弥陀堂から突き出した釣殿、(右)北側の遣水=いずれも筆者撮影

今でこそ永福寺の存在は史跡公園として可視化されているが、かつては1405年の原因不明の大火でこの世から姿を消し、史料にしか名をとどめない幻の大寺院だった。源頼朝が征夷大将軍に任ぜられてから2年後の1194年に完成したが、なぜ、どこに、どのような形で建てたかは頼朝を理解する手掛かりとなる。

永福寺の史跡公園を北側から望む。右の基壇は薬師堂跡、左は二階堂跡(筆者撮影)
永福寺の史跡公園を北側から望む。右の基壇は薬師堂跡、左は二階堂跡(筆者撮影)

ほぼ同じ角度から見た永福寺の再現CG(湘南工科大学 長澤・井上研究室制作)
ほぼ同じ角度から見た永福寺の再現CG(湘南工科大学 長澤・井上研究室制作)

「二階堂」がヒントに

『吾妻鏡』では永福寺に関連して、たびたび「二階堂」「三堂」「光堂」という言葉が出てくる。また、「鎌倉殿の13人」の1人、二階堂行政は永福寺のそばに居を構えたことから、二階堂氏を名乗ったとの記述もある。

このわずかな手掛かりから、地元の考古学者の赤星直忠氏が1933年、二階堂の地名が残る一帯の水田が「池」に当たると考え、その周辺で庭石も発見した。戦後に調査が再開され、ようやく66年に国指定史跡となった。鎌倉市は少しずつ土地買収を進め、83年から発掘調査が始まった。

その年すぐに約20メートル四方の大きなお堂跡を掘り当てた。「翌年、その南側を掘るとやや小さなお堂跡が出現したので、左右対称ではないかと考えて今度は反対側に折り返して北側を掘ってみたら、どんぴしゃり。再び小さなお堂跡が出てきたんです」。こう話すのは、市教委文化財課の遺跡発掘調査研究員、福田誠氏だ。

「薬師堂」の遺構(鎌倉市教育委員会所蔵)
「薬師堂」の遺構(鎌倉市教育委員会所蔵)

史料通り、大きなお堂を中心とした「三堂」が姿を現したのである。「最初はあまり実感がなかったが、全体像が徐々に浮かんでくると、毛越寺や平等院に並び立つ寺院を本当に見つけたと実感が湧いて、うれしさがこみ上げました」と福田氏は振り返る。

中央の「二階堂」を挟み、南側は「阿弥陀堂」、北側は「薬師堂」と判明。それぞれに仏像があったはずだが、火事で焼失しており、ご本尊は釈迦如来像と推定されている。お堂と池がセットになった造りは、極楽世界を形にした浄土寺院と呼ばれる。頼朝が奥州討伐の際に平泉に立ち寄り、感動したという諸堂も同じ様式だ。

(左)出土した仏像の手、(右)鬼瓦=いずれも鎌倉市教育委員会所蔵
(左)出土した仏像の手、(右)鬼瓦=いずれも鎌倉市教育委員会所蔵

永福寺の西側の裏手には小高い山がある。夕陽が山の端に沈みかけると、お堂に後光が差したように見えたと言われる。「西方浄土」(西のかなたの安楽世界)を思わせる舞台設定だ。

祟りを恐れる

では一体、何のために極楽浄土を再現しようとしたのか。頼朝が永福寺を建立した背景について、『吾妻鏡』には「怨霊を宥(なだ)めんと欲す。義経といひ(藤原)泰衡といひ、させる朝敵にあらず。ただ私の宿意をもって誅し亡ぼすが故なり」(1247年2月5日条)とある。

平家掃討に活躍しながら、頼朝の不興を買った義経。そして、その義経をかくまっただけではなく、鎌倉幕府の後背地の東北に存在し、脅威ともなり得る奥州藤原氏。この両者はともに頼朝の討伐対象になった。

福田氏は「頼朝が義経や奥州藤原氏の祟り(たたり)を恐れていたのは明らかだ。陰陽道では、丑寅(北東)は鬼が出入りする『鬼門』の方角であり、将軍御所の北東に永福寺を建立することで、怨霊を御所に近寄らせないのが目的だった」と指摘。極楽浄土を具現化した建築様式は「義経や泰衡らの怨霊を封じ込め、楽しいところだから出て来ないようにとの意味があったのでは」と言う。怨霊と言えば、源(木曾)義仲・義高父子や上総介広常らの姿も頼朝の脳裏をかすめたかもしれない。

頼朝は、敵方の平清盛の義母の助命嘆願によって生き延びて、20年後には平家を討つ巡り合わせとなった。多くの身内や同志を殺めてきたのは、自分の半生と重ねて、油断したら自らに刃を向ける者が出てくるという強い猜疑心からではないだろうか。

頼朝の孤独

永福寺建立のもう一つの背景には、頼朝の「孤独」がある。頼朝には異母兄弟以外に身内がおらず、その弟すら討たせてしまう。御家人たちも頼朝を「武士の棟梁」とみなして、みこしを担いでいるものの、本音では「所領の安堵(保証)といった自分たちの利害しか考えていない」(福田氏)

頼朝としては、自らの権威を精一杯高めて、御家人たちの求心力を維持していくしかない。1189年の奥州討伐の際、源氏にとって重要な戦功の「前九年の役」をまねることで(※1)、源氏の血筋を引くという正統性をアピールした。

永福寺建立も一種の示威行動と考えられ、落慶供養は多くの御家人を呼び集めて盛大に行われた。鎌倉歴史文化交流館の学芸員、山本みなみ氏は「頼朝は平家も奥州藤原氏も滅ぼし、上洛も果たした。平泉にも勝る大伽藍を備えた永福寺の建立は、内乱の犠牲者を弔うとともに、内乱を平定した自分こそが武士を統率していく棟梁である、関東の主であるということを御家人たちに知らしめる狙いもあったのでは」と話す。

経塚(きょうづか)から出土した銅製の経筒。末法の世に経典を残すための物だが、腐食のせいか経典は見つからなかったという(鎌倉市教育委員会所蔵)
経塚(きょうづか)から出土した銅製の経筒。末法の世に経典を残すための物だが、腐食のせいか経典は見つからなかったという(鎌倉市教育委員会所蔵)

CGで再現

木造建築の永福寺は焼け落ちたため、遺跡から出土してくるのは柱を支える礎石や屋根瓦が中心であり、仏像も破片しか出てこない。元の姿を想像するのは難しいが、その難題にあえて挑戦して、CG(コンピューター・グラフィック)で復元図を作成したのが湘南工科大学の長澤・井上研究室だ。

南側から見た永福寺復元CG(湘南工科大学 長澤・井上研究室制作)
南側から見た永福寺復元CG(湘南工科大学 長澤・井上研究室制作)

復元図作成は、残されたわずかな手掛かりに頼るしかなかった。例えば、お堂の周囲を巡る「雨落ち溝」。当時は屋根に雨どいがなく、滴り落ちる雨は地面の溝で受けていた。つまり、溝の位置まで軒が張り出しており、屋根の大きさをうかがわせる。また池から見つかった橋の桁材とみられる木片の曲線から曲率を割り出し、アーチ型の橋を描いてみせた。

雨落ち溝。真ん中の砂利で雨を受ける(筆者撮影)
雨落ち溝。真ん中の砂利で雨を受ける(筆者撮影)

こうした遺構から得たデータの積み重ねに加えて、同時代の同規模の建築物として、「平等院を参考にした」(長澤可也教授)。史跡公園では何カ所かにQRコードを読み込める地点があり、スマホをかざせば、復元図が見られる仕組みだ。

復元CGは現地でスマホで見ることができる(筆者撮影)
復元CGは現地でスマホで見ることができる(筆者撮影)

宇治の平等院鳳凰堂(時事)
宇治の平等院鳳凰堂(時事)

長澤教授は「非常に精度の高い技術がないと、このような建築物は作れない」と驚きを隠さない。全長130メートルの回廊は端から端までぶれることなく一直線に伸びており、中央に掛かっていたと思われる橋の軸線も二階堂のそれとぴたりと重なるという。

長澤可也教授(左)と文化財課の福田誠氏(右)。福田氏が手にしているのは、仏像の一部と見られる木片(筆者撮影)
長澤可也教授(左)と文化財課の福田誠氏(右)。福田氏が手にしているのは、仏像の一部と見られる木片(筆者撮影)

怨霊を鎮めるため、極楽浄土を再現した大伽藍。頼朝は恐れを感じたのか、「完成後はほとんど寄り付かなかった」(福田氏)。1199年、頼朝が落馬事故で死去後、永福寺は「迎賓館」と化し、頼家以下、歴代将軍たちは蹴鞠(けまり)や花見、和歌を楽しんだと言われる。

バナー写真:南側の丘から見た永福寺跡。手前から阿弥陀堂、二階堂、薬師堂の基壇。向かいに池が見える(鎌倉歴史文化交流館提供)

●道案内

永福寺跡(史跡公園):鎌倉駅東口から「大塔宮」行きバスの終点下車、北東方向へ徒歩5分。入場無料、開場時間は午前9時から午後5時(4月~10月)、午前9時から午後4時半(11月~3月)。

(※1) ^ 頼朝は奥州討伐で、藤原泰衡がかくまった義経を死に追い込んだ時点で、戦の目的を達したはずだが、朝廷の勅許もなく、藤原氏をさらに追い回した。これは、先祖の頼義が奥州の安倍貞任(あべのさだとう)を討った「前九年の役」(1062年)の再現を狙ったものと言われる。平泉からあえて北方の戦勝の地「厨川(厨川柵)」まで進軍し、9月という同じ時期に、貞任の時のように泰衡の首を釘で打ち付け晒した。

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