血のりを流した「太刀洗」:頼朝の代弁者、ダークサイドの梶原景時(3)
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義経の光、景時の影
鎌倉駅発のバスの行き先の中で、以前から気になっていたのが「太刀洗」である。何とも不気味な響きだ。鎌倉市東部と横浜市金沢区の境に近い鎌倉霊園正門前太刀洗で下車、金沢街道を上り、狭い石段を崖下まで駆け下りる。宅地を抜けたところに、突然せせらぎが現れた。木漏れ日が差す中、歩を進めると「太刀洗水」と名付けられた水場が見つかった。景時はここで広常を討った太刀の血を洗ったとされる。
さらに清流沿いを奥へ進むと、荒々しく削った岩肌が印象的な「朝夷奈(あさいな)切通し」にたどり着く。三方を山で囲まれた鎌倉では、交通の要衝や外敵からの防衛線として、山を切り開いた狭い通路「切通し」が7口あり、朝夷奈は東側の防御拠点とされる。約800年前、鎌倉武士がここを通り抜けたのも今は昔。「太刀洗」の名にそぐわない静謐(せいひつ)な空間だ。
頼朝がかつての盟友・上総介広常を討つよう命じた理由は、傲慢(ごうまん)な性格が目障りになり、謀反を図ろうとしていると思い違いしたためだった。景時は広常と双六遊びに興じて、相手が油断した隙を突いて討った(1183年)と言われる。これだけでも十分に血生臭い話だが、それ以上に「太刀洗」に象徴される暗いイメージを景時に強く植え付けた要素がほかにもある。
鎌倉歴史文化交流館の学芸員、大澤泉氏はこう解説する。「広常を討った太刀以外にも景時に関する伝承は血塗られた印象が強い。やはり義経の敵であるイメージが深く影響していて、伝承の世界では景時はダークな人物と捉えられている。本来は教養もあり、非常に優秀な頼朝の側近という側面もあるが、義経の『光』が強い分、景時の『影』が強調されている部分はあると思う」
「頼朝の本心」をのぞき込む側近
景時はもともと平氏側の武将だった。源平が激突した1180年の石橋山(現在の神奈川県小田原市)の戦いで、圧倒的な劣勢にあった頼朝軍を見逃してやったというように、本来は情に厚く、京の都で仕えたこともある文武に長けた武士だ。ここで頼朝を討ち取っていたら、「源家の鎌倉」はなかっただろう。
敗走した頼朝は真鶴岬から船で相模湾を渡り、房総半島に逃げ延びた。ここで、あの上総介広常の約2万騎もの大軍の加勢を受けて、息を吹き返し、同年に鎌倉入りを果たす。だが、その3年後に広常を討つとは、猜疑(さいぎ)心の強さは半端ではない。
一方、景時は石橋山の合戦の恩で、侍所幹部として頼朝の最側近の一人に引き上げられた。その重大な任務の一つが、平家を西国まで一挙に追い詰めた義経の後見、つまり見張り役だ。無断で朝廷に任官されたことや戦功を焦って独断専行が目立つことなど、その動向を頼朝に報告。後に義経が腰越状で「あらぬ告げ口」と訴えたのは、このことである。
時には報告だけでは済まず、景時自ら義経追討を頼朝に迫る場面もあったようだ。永井路子の歴史小説『炎環』では、公家的で煮え切らない態度を示す頼朝の「本心」を見抜き、義経討ちをそそのかす場面も描かれている。景時がそこまで頼朝に忖度(そんたく)して、「汚れ役」を演じたのはなぜか。永井はこう推測する。
めったに本心を見せない頼朝は、誰かに動かされてという形をとりたがる。批難を受ける恐れのあるときは特にそうだ。が、景時はそれと知りつつ進んで頼朝の意向を代弁する役を引受けた。それによって頼朝の東国の王者としての位置が強まるのなら何のためらいが要ろう…それがひいては武家社会を押しすすめるのだという信念が益々彼を傲岸にした。(「炎環」より抜粋)
1199年の頼朝の死後、後ろ盾を失った景時は、最高権力者との蜜月ぶりや「告げ口」体質が疎んじられていたこともあり、御家人66人もの弾劾を受けて失脚。頼朝と後継の頼家の下で極めて重要な地位を占めていた景時は「鎌倉殿の13人」から真っ先に脱落し、1200年に駿河で討たれた。「13人」内のパワーバランスが崩れ、北条支配に道を開くきっかけになった。
源頼朝と一体化した梶原景時の動き
1180年 | 源頼朝が挙兵 |
石橋山の戦いで梶原景時が頼朝軍を見逃す | |
頼朝は海路、安房へ向かい、上総介広常らの加勢を受けて鎌倉入り | |
1183年 | 頼朝が景時に命じて上総介広常を討つ(太刀洗の伝承) |
景時が侍所所司となり、義経の後見として平家討伐に同行 | |
1184年 | 一ノ谷の合戦 |
1185年 | 壇ノ浦の決戦 |
義経が鎌倉入りを請う腰越状を満福寺で書く | |
1189年 | 義経が死に追い込まれ、満福寺で首検め |
1192年 | 頼朝が征夷大将軍に任ぜられる |
1199年 | 頼朝が落馬事故死 |
景時が御家人らから弾劾を受け失脚 | |
1200年 | 景時が駿河で討たれる |
バナー写真:梶原景時が上総介広常を討った太刀の血を洗い流したと言い伝えられる「太刀洗水」(筆者撮影)