満福寺:「なんでこんなにお怒りになるのか」、腰越状に込めた義経の叫び(2)
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義経と弁慶の肉筆
腰越駅を降りて5分ほどの踏切を渡ると、満福寺という小さな寺が現れる。義経は1185年、壇ノ浦で戦功を挙げたにもかかわらず、鎌倉入りを拒まれ、弁慶とともにこの寺に滞在。公文所別当(長官)の大江広元に託すため、頼朝に宛てた有名な書状「腰越状」をしたためた。
その下書きがガラスケースに収められている。お寺の関係者に話を聞くと、「これは弁慶が書き、義経が筆入れして直したと伝えられています」。弁慶の腰掛石や硯(すずり)の水をくんだとされる池は当時の名残りだろうか。
書状の下書きはレプリカではなく、本物だという。大切に保管されてきたため、保存状態も良く、約800年を経ても当時のままの筆使いが見て取れる。そこには義経の足止めされた悔しさや絶望、いら立ちが極めて率直に語られている。その現代語訳を一部紹介すると-。
わたくしは鎌倉殿(頼朝)の代官のひとりに選ばれ、天皇の使いとなって戦い、平家に倒された父(義朝)の恥をそそぎました。鎌倉殿からは、褒美がいただけるに違いないと思っておりましたのに、逆にあらぬ告げ口によってお叱りをうけ、血がにじむほどの、悔し涙をこの腰越の地で流しています。朝廷から武将としては最も高い位の五位ノ尉に任命されたのは、源氏の名誉でもあります。なのに、こんなにお怒りになるとは。(かまくら春秋社「寺ものがたり 満福寺」より抜粋)
広元に手渡された正式の書状はひねり潰されたのか、頼朝には届かなかったという。仮に届いたとしても、腰越の関所は開かれなかったであろう。
武勲に長けたわけではない頼朝にとって、一ノ谷の戦いでの「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」や屋島攻め、壇ノ浦の合戦など平家討伐で飛ぶ鳥を落とす勢いだった義経はねたみの対象になっていたのではないか。頼朝から義経への論功行賞はなかった。
さらに決定的だったのが、義経が頼朝に無断で朝廷から任官(検非違使左衛門少尉)されたことである。当時の頼朝は自ら朝廷に対し、御家人の官位推薦を行っていた。御家人が勝手に申し出ていては、頼朝の権威が失墜しかねない。また頼朝が推薦することで朝廷から武士の棟梁として認知される効果も狙った。
判官びいき
ところが、義経はこの定めを無邪気にもあっさりと破ってしまった。腰越状では、むしろ任官を「源氏の名誉」とまで言い切り、事態の深刻さが分かっていない。作家の斎藤栄は『鎌倉ミステリー紀行』(かまくら春秋社)で、「頼朝とは兄弟である。だからたいていのことは許されると考えていた義経には、(制裁の)真意はどうしても分からなかった」と書いている。
義経任官の裏には、後白河法皇が頼朝と義経を仲たがいさせ、勢力を弱めさせようという陰謀の匂いもある。「政治音痴で先が読めない」義経を未熟で甘いと断じる向きもあるが、多くの人々の同情を買い、義経が就いていた官職にちなんで「判官びいき」という言葉が生まれた。
鎌倉入りを拒まれた義経は京から奥州まで追われ、死に追い込まれた。腰越状から4年後の1189年に再び満福寺に戻って来たが、そこで行われたのは「首検め(くびあらため)」だった。鎌倉時代の史書「吾妻鏡」には「観る者皆雙涙を拭い、両袖を湿す」とある。
そして現代。鎌倉行きの江ノ電が腰越の民家すれすれに蛇行していくと、一挙に七里ケ浜の海が開け、サーファーの姿も目に飛び込んでくる。車内が「ワー」と沸く瞬間だ。約800年前にそんな悲劇があったと想像するのは難しい。それでも地元の義経人気は健在である。毎年4月第3土曜日の「義経まつり」の盛況がそれを物語っている。
バナー写真:満福寺に展示された「腰越状」(筆者撮影)
●道案内
満福寺:江ノ島電鉄「腰越」駅、下車5分
●イベント
義経まつり:例年4月第3土曜日に開催。満福寺で慰霊法要が行われた後、瀧口寺から小動(こゆるぎ)神社まで武者行列やブラスバンドが練り歩く。しかし、2020年と21年は新型コロナウイルス感染拡大の影響で中止。今年(22年)についても直前情報をご確認ください。