最後の大奥御年寄・瀧山の誇り高き生涯
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幕末激動期の大奥を執り仕切った女性
御年寄には「上臈(じょうろう)御年寄」と「御年寄」の2つのポストがあった。
前者は将軍御台所(正室)が京都から降嫁してくる際に同行してきた、公家出身の御側付(おそばづき)の女性で、大奥職制の最高位だ。だが、京育ちの御台所の話し相手などが主な役目だったため、大奥の経営には基本的に口を挟まなかった。
後者は旗本以上の家格から大奥入りし、才覚を認められて出世したキャリアウーマンのトップである。しばしば江戸城「表」の老中に匹敵する権力を持っていたと評される。
また、後者の御年寄にも「将軍付き」「御台所付き」があった。どちらが上位かの説は定まらないが、将軍付きは上様の夜伽(よとぎ / セックス)の相手を選ぶ立場にあった。次期将軍の子種を授かる女性の選出に関わる、政治的に重要な職務だったといえよう。
瀧山は後者の将軍付きである。1805(文化2)年、四谷に屋敷を構える旗本・大岡権左衛門の娘として誕生。実名は多喜(たき)。14歳で大奥にあがり、13代将軍・家定、14代・家茂の2代に御年寄として仕えた。叔母に大奥上級女中を務めた染島(そめじま)がおり、姪のませも大奥に奉公していた。
13代・家定は病弱で、障害もあったといわれ、正室の篤姫との間に子ができなかった。あとを継いだ14代・家茂の御台所が京都から迎えた和宮だが、やはり子に恵まれなかった。
しかも、家定から家茂に代が替わる際には、将軍継嗣をめぐって紀伊藩主の徳川慶福(よしとみ / 後の家茂)を推す南紀派と、一橋慶喜(のちの15代・慶喜)を就任させたい一橋派が、激しい主導権争いを演じていた。
瀧山は南紀派に属して後継者争いに勝利したものの、時代は幕末の激動期。日本を席巻していた攘夷運動に対処するため、家茂は約9年の在位中に2度上洛し、最期は1866(慶応2)年、大坂で病没する。瀧山はその間、将軍不在の大奥の運営を一手に引き受ける立場にあった。
子孫に残した遺品から伝わる几帳面な人柄
家茂が死ぬと、瀧山は暇(退職)を申し出たという。だが、一周忌が終わるまでは残るよう慰留される。
この理由は、15代将軍に就いた徳川慶喜が京都にいたため、江戸城が城主不在であったこと、本来ならば大奥の主となるべき慶喜の御台所・省子(のちに美賀子に改名)が、慶喜の不在を理由に江戸城に入らなかったなど、特殊な事情があげられるだろう。将軍も御台所もいない江戸城は、徳川幕府の歴史上、この時だけ。大奥の体制を維持するには、瀧山の経験が不可欠だったのである。
一方、慶喜との関係は険悪だった。そもそも南紀派だったことに加え、慶喜は明治に入ってからの回想録で「大奥は瀧山の力が強大すぎた」と述べている。剃刀(かみそり)と呼ばれた切れ者・慶喜も認めざるを得ない大奥のトップ、それが瀧山だった。
その後、1867年1月10日(慶応2年12月5日)、京都・二条城で将軍宣下を受けた慶喜は11月9日(慶応3年10月14日)に大政奉還を奏上し、朝廷に政権を返上してしまう。
続いて1868年1月27日(慶応4年1月3日)、鳥羽・伏見の戦いを引き金に戊辰戦争が勃発し、徳川はいよいよ存亡の危機に直面する。勝海舟と西郷隆盛の会見によって江戸城が無血開城するのは、同年4月である。
この渦中、瀧山はどうしていたのだろう。
NHK大河ドラマ『篤姫』(08年放送)では、稲森いずみ扮する瀧山が、宮崎あおい演じる天璋院とともに、最後まで大奥に残る姿が描かれた。だが、津山藩江戸屋敷が記録した『七宝御祐筆間御日記』(しっぽうごゆうひつのまおんにっき)では、瀧山は慶応3年10〜12月の間に、暇を認められ、大奥を出たことが分かっている。
すでに時代の趨勢は徳川消滅に大きく傾いており、大奥の人員整理も急ピッチで行われていたのである。
大奥を出た瀧山は、武蔵国足立郡(埼玉県川口市など)にある大奥時代の侍女・仲野の実家を頼った。
「瀧山の実家・大岡家は、すでに実父から代替わりしていたので、60歳を超えた老齢では身の置き場がなかったのでしょう。そこに、仲野が声をかけたのだと思います」
こう語るのは瀧山の子孫で、現在も川口市に住む瀧山宣宏さんだ。
瀧山と宣宏さんとは、直接の血のつながりはない。瀧山は仲野家に身を寄せたのち、仲野の実家から養女を迎え、近隣の男と娶(めと)わせて夫婦養子とし、瀧山の姓を名乗らせた。宣宏さんは、その夫婦から数えて5代目にあたる。
代々、口伝えで瀧山家に残る先祖・瀧山の人物像は、「物静かなお婆さん」であるという。
「祖母からは、落ち着いたたたずまいの女性だったと聞きました。祖母はその先代、先代は養子とした初代瀧山夫婦から、そう聞いたのでしょうね」
瀧山家の庭の隅に、直径約30〜40センチ、高さ約2メートル弱の石の支柱が2本立っている。瀧山が住んだ家屋の門の一部である。
門の奥にあった約120坪の平屋に瀧山は叔母の染島とともに住んでいた。南側の廊下を打掛(うちかけ)姿の瀧山が静々と歩いていたと、瀧山家には伝わる。打掛は武家の婦女の正装だ。明治に入っても、武士の出の誇りを失わなかった。
同家には、瀧山が残した「日記」「戴物控」(いただきものひかえ)も残っている。
「日記」には「実成院(家茂の実母)」「天璋院」「和宮」といった名前が頻繁に登場し、彼女たちとのやりとりが記されている。たびたびテレビの歴史番組で紹介される貴重な史料である。
日記は慶応4年に入ると、「○○を(大奥に)届けた」などの記載で埋まり、同年2月以降に途切れる。前年末までに大奥を出たことが、これによって実証される。
一方の「戴物控」は、御年寄在任中に大名その他から大奥に献上された品々が、日付ごとに細かく記載してある。一見して分かるのは、記録魔・メモ魔であること。几帳面で真面目な資質が見てとれる。
瀧山家にはこうした文献史料の他、彼女が肌身離さず持っていた念持仏の阿弥陀如来立像や、不動明王掛け軸など数点が遺品として残っているが、宣宏さんはこう語る。
「なにぶんにも150年近く前のことですから、諸事情も重なり初代瀧山が主だった遺品を手放してしまい、いま残るのは文献をはじめ数点だけなのです」
文化財として県や市への寄贈を勧める意見もあるが、「瀧山はすごい人物だった」との研究成果を聞くたびに、手元に保管しておこうと、気持ちを新たにする。
「瀧山の名に恥じぬように生きよと、先祖が教えてくれているんでしょう」(宣宏さん)
墓所は徳川ゆかりの寺院に立つ
川口市には、真言宗智山派の寺院・錫杖寺(しゃくじょうじ)に瀧山の墓がある。江戸城を出る際に乗ったといわれる駕籠(かご)も保管されている。訪ねると、副住職の江連俊隆さんが案内してくれた。
駕籠(かご)は幅約1.5メートル、高さ約1メートル。修復など一切せず、当時のまま(通常非公開)。扉は引き戸、つまりスライド式で、房(ふさ)などの装飾が施された絢爛(けんらん)な逸品。長柄(ながえ / 駕籠を担ぐ棒が長い)も貴人が乗る駕籠の特徴の1つとされる。内部をのぞくと、柔らかい外光が差す構造だ。瀧山のものと伝わる草履も中に保管されている。
瀧山は1876(明治9)年1月14日永眠。
戒名は「瀧音院殿響譽松月祐子山法尼」
墓は3基並んで立つ。中央が瀧山、左が侍女の仲野と瀧山の名を継いだ養子夫婦の3人、右が叔母の染島が眠る墓だ。
墓石の裏側には、「東京府士族 東京南伊賀町住 徳川家大奥老女俗称瀧山 行年七十一歳」と刻まれている。「東京南伊賀町」とは、瀧山の生家があった四谷南伊賀町のことだ。この町名は1871(明治4)年、瀧山の存命中に廃止され、消滅しているはずだが、生地の証しとして刻むのを望んだのだろうか。
錫杖寺は、日光御成道沿いにある徳川とゆかり深いお寺だ。御成道とは徳川将軍家が日光社参、つまり東照宮に参拝するための専用道路として造成した、特別な道だった。
2代将軍・秀忠が、最初にこの道を通って日光に向かった。
沿道の宿場・川口が幕府の天領(直轄地)だったため、3代・家光が錫杖寺を日光社参の折りの休憩所に定め、また同地が将軍家の鷹狩場だったことから、8代・吉宗の時代には御膳所の役割も担い、食事も差し出したという。
徳川との結びつきが強い寺院に瀧山は葬られた。死してなお、幕府の一員である。
バナー写真 : 13代・家定の御台所・天璋院から「七反」の生地を賜ったことを記した日記の箇所(右から7行目)。(瀧山家所蔵)
バナー・文中写真は全て筆者撮影
[参考文献]
- 御殿女中 鳶魚江戸文庫17 三田村鳶魚 / 中公文庫
- 大奥の女たちの明治維新 安藤優一郎 / 朝日新書