大奥の謎 愛と権力に彩られた徳川250年の裏面史

将軍に寵愛を受けた「お手付き女中」はどのように選ばれていたのか?

歴史 政治・外交

身分は低いが美しい娘が大奥に奉公していた。将軍が美貌に目を奪われ、娘は寵愛を受けた――玉の輿である。大奥を舞台とした漫画などには、こうしたシンデレラ・ストーリーが描かれる。実際にそんな例はあったのだろうか? そもそも将軍に見初められる女中は、どのような基準で選ばれていたのか?

誰にでもチャンスがあったわけではない

町人など身分の低い娘が大奥で将軍に見初められることは、大奥創設初期の一部の例外を除き、基本的にあり得なかったと考えていい。

例えば、2代将軍・秀忠の側室・お静の方は大工の娘といわれ、2人の間に生まれたご落胤がのちの初代会津藩主・保科正之だ。だが、大工の娘は1つの噂であり、一方では後北条の旧臣の娘だったという説もある。出自は判然としない。

同じことが、3代・家光に愛され、5代・綱吉を産んだお玉の方にもいえよう。18世紀刊の信ぴょう性が怪しい史料『柳営婦女伝系』では八百屋の娘と記され、庶民の娘が家光の寵愛を受けたサクセスストーリーを描き出したが、生まれはハッキリしない。

家光には他にも、彼が好みそうな娘を春日局が浅草で見つけて側室とし、その女性がお楽の方となった、湯殿(風呂場)で手を付けた下級女中がお夏の方となったなど、玉の輿の俗説はあるが、仮に事実であっても極めて例外だったと考えていい。

大正9年に出版された『八百屋の娘』は、3代・家光の側室・お玉の方のシンデレラ・ストーリーを脚色した物語。お玉が庶民出身であるという説は今も根強い。(国立国会図書館所蔵)
大正9年に出版された『八百屋の娘』は、3代・家光の側室・お玉の方のシンデレラ・ストーリーを脚色した物語。お玉が庶民出身であるという説は今も根強い。(国立国会図書館所蔵)

実際の将軍側室候補は、御中臈から選ばれていた。御中臈は女中の中でも上から5番目の位置にランクされる職種で、誰でも就けるものではない。「御目見得以上」の武家の出身でなくてはならなかった。

「御目見得以上」とは、将軍に直接お目通りできる身分であり、旗本以上の家の出を指す。許されない家は「御目見得以下」で、御家人など下級武士、町人・農民出身の娘である。つまり、「御目見得以下」は大奥に入っても下働きの立場であり、事実上、将軍の目に触れる場所にはいなかった。将軍が見初めようもないのである。

「御目見得以下」の者が将軍にお目通りを願うには、旗本の家の養女となり、身分を整えてから大奥入りするしかなかった。

そうした過程を経て将軍の手が付いたケースが、11代・家斉の側室・お美代の方だ。
日蓮宗の格の低い寺院の僧侶が父だったが、家斉側近の旗本の養女となり、大奥入りしてから家斉に見初められた。将軍側近の旗本が最初から仕組んでいた政略であり、極めて稀な例である。

「御庭御目見得」という面接試験

では、お手付き候補は、どのように選ばれていたかというと、高い基準をクリアした御中臈の中から厳選されていた。明治20年代に東京帝国大学史談会が旧幕府役人に質疑した記録『旧事諮問録』によると、基準は以下だった。

  • 御目見得以上の家柄の者から最高幹部の御年寄が選んだ者8人が将軍付きの御中臈に昇進し、お手付き候補となる。
  • 8人は家格が優先され、高い家格の娘ほど有利。
  • 将軍は8人の中から側室を何人選んでもよい。

端的にいえば家柄重視。絶対的な身分社会である大奥では、容姿などは二の次であり、出自が優先された。将軍に見初められるとは、すなわち次の将軍となるかもしれない男児、または政略結婚で大名家に嫁ぐ娘を産む役割を担うわけだから、当然の基準といえる。

さらに御年寄の「審査」を通過すること、つまり気に入ってもらえなくては、候補にさえなり得ない。

どんな審査だったか詳細は不明だが、良妻賢母を求められていたので裁縫などの実務試験があり、かつ男児が多く生まれる家系を重視していただろう。それだけに、仮に将軍の手が付いても、妊娠しなければ身分は御中臈のままである。子どもを産んで初めて「側室」と認められる。

また、13代・家定の正室だった天璋院付き奥女中・村山ませ子は、明治時代に入ってから江戸文化研究家の三田村鳶魚の取材を受け、お手付き選びに次のような慣習があったことを証言している。

「お手付きを召し出すのに、御庭の御目見得ということがありました。当人に御庭を歩かせて、上様が御覧なさる」

村山ませ子に取材した記事を掲載した『御殿女中』(三田村鳶魚著/昭和5年刊)(国立国会図書館所蔵)
村山ませ子に取材した記事を掲載した『御殿女中』(三田村鳶魚著 / 昭和5年刊)(国立国会図書館所蔵)

「御庭御目見得」と呼ばれた儀式で、御年寄に推薦された女性が振袖姿で江戸城の庭を歩き、それを将軍がこっそり見ていたというのだ。この手続きを経て、将軍が「あの娘」と指定し、将軍付き御中臈に登用され、その中から手を付けたという。

ただし、前出の通り3代・家光の時代は側室の身分も曖昧で、こうしたルールができたのは大奥が厳格な管理下に置かれた江戸中期以降と考えていい。時代の経過とともに、大奥は将軍の「胤(たね)」を厳重管理すべく、より政治色を強く帯びていたといえるだろう。

お手付き女中たちの生涯

なお、この連載『11代将軍家斉がもたらした大奥の爛熟』で取り上げた、家斉の時代以降は、こうした管理から逸脱した例が、たびたびあったと考えられる。大奥では3月の上巳の節句(ひな祭り)に、12段飾りの豪華な雛人形を御座之間に飾った。これを見学するのを、女中の縁者に限って特別に許可されていた。

家斉は見学にやって来た縁者に手を付け、御中臈に抜擢している。

14代・家茂も、前出の村山ませ子によると「公然御目見得」、つまり「御庭御目見得」ではない他の場所(公然というから江戸市中の可能性もゼロではない)で見初めた「十七ぐらいのが一人」いたと証言している。

家斉以降になると、大奥の風紀が一部、乱れていたのかもしれない。

さて、手が付いた女性たちにも、奥女中引退の時は来る。ここでいう引退とは、「夫」である将軍が没し、代がわりすると、落飾(髪を下ろす)して「○○院」と改名し、仏門に入ることを指す。

これにも、さまざまなケースがあった。

  • 男児を生み、その子が新将軍になった場合→江戸城本丸大奥に引き続き居住
  • 男児を生んだが新将軍にならなかった場合→江戸城二の丸大奥に転居
  • 子どもが女児だった場合→江戸城二の丸大奥、または桜田御用屋敷に転居
  • 手は付いたが子どもなし(側室とは認定されない)→桜田御用屋敷に転居

桜田御用屋敷は、お手付き御中臈の引退後に準備された屋敷で、江戸切絵図によると現在の日比谷公園の辺りにあり、「比丘尼(びくに)屋敷」とも呼ばれた。

『江戸切絵図』の外桜田永田町。赤枠で囲んだ部分が桜田御用屋敷。落飾後の側室たちが住む屋敷だった。(国立国会図書館所蔵)
『江戸切絵図』の外桜田永田町。赤枠で囲んだ部分が桜田御用屋敷。落飾後の側室たちが住む屋敷だった。(国立国会図書館所蔵)

子どもが男児か女児か、男児なら新将軍か否かで、女中の運命には差があった。まさに身分社会。

だが、将軍の寵愛を受けたことにより、幕府に生涯面倒を見てもらえる恵まれた人生だったともいえる。

バナー写真 : 『娘御目見図』 / 御中臈の面接を描いた絵。右奥に座る御台所付きの御中臈に課せられた実技試験らしく、縫った着物を御台所に差し出している。(国立国会図書館所蔵)

【参考文献】

  • 将軍と大奥 江戸城の事件と暮らし / 小学館
  • サライの江戸 江戸城と大奥 / 小学館
  • 歴史人2021.10月号特集「徳川将軍15代と大奥」 / ABCアーク

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