江戸を騒然とさせた大奥スキャンダル「絵島生島事件」とは?
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歌舞伎観劇に夢中になり門限を破った奥女中
バナーの画像は『新撰東錦絵 生島新五郎之話』と題された錦絵で、作者は月岡芳年。明治時代の作である。
描かれているのは左が歌舞伎役者の生島新五郎(いくしま・しんごろう)、右がこの事件の主人公・絵島(えじま)だ。男を誘惑する遊女のように見えるが、実際は大奥の事実上のトップ・御年寄にまで出世した才覚ある女性だった。
絵島は江戸城大奥御年寄としての名前で、本名は「みき」(一説には「みよ」)という。
甲府藩士の娘として生まれ、徳川7代将軍・家継を産んだ月光院付きの女中として大奥に入った。月光院は6代将軍・家宣の側室だ。その奥女中として重用され御年寄まで昇りつめた。
ところが正徳4(1714)年、月光院の名代として徳川の菩提寺である芝・増上寺へ参拝に出向いたことで、運命が狂う。
名代とは「代理」のこと。月光院は7代将軍の母だが、菩提寺への参拝といえども江戸城の外へ出ることを厳しく制限されていた。そのため、代理として参拝する者が必要だった。白羽の矢がたったのが絵島だった。このことは、絵島が月光院から厚い信頼を得ていたことを物語る。
参拝を終えた絵島はすぐに江戸城に戻らず、呉服御用達の商人と合流し、歌舞伎鑑賞に出向いてしまう。幕府要人が着る呉服を仕立てて卸す御用商人が、大奥の幹部女中と懇意にするための、大掛かりな接待だったのだろう。絵島をはじめ御中臈や荷物運びの男性役人ら、総勢100人超がそろって歌舞伎を見たという。
ところが、観劇に夢中になっているうち、大奥の門限である暮六つ(午後6時)を過ぎてしまった。城に帰ったものの、大奥の玄関口は閉じられている。絵島は門番と「通せ」「いや、通せません」と押し問答になった。何とか通してもらったものの、騒ぎが知れ渡るのは時間の問題だった。
観劇後に茶屋で宴会も催され、絵島はしこたま酒を飲み、その席には鑑賞したばかりの芝居の役者・生島新五郎も呼び出されて参加したという。
だが、これは確証がない。
いずれにせよ、絵島は門限に遅刻した。そして、観劇した芝居の演者が当世とっての人気者だったことが、大問題へと発展していくのだ。
「密通」の科(とが)で尋問を受ける
押し問答があってから20日ばかりが過ぎた日、絵島は取り調べの容疑ありとの理由で「預け」となる。預けとは、現在でいえば未決勾留の者を拘禁状態に置くことで、預けられたのは絵島の義兄にあたる御家人・白井平右衛門の屋敷だった。
容疑は「密通」。相手は生島新五郎。
将軍の生母付きの奥女中が、よりによって身分の低い役者と男女の関係を結んでは、幕府の沽券(こけん)に関わる。ましてや大奥の内情など、機密事項を漏らしていたら—という疑いだった。
絵島は厳しい尋問にも屈せず、断固として男女関係を否定した。一方、絵島を接待した御用商人と新五郎ら芝居関係者には、容赦ない拷問が加えられた。
誰が自白したかは定かではないが、調べの結果、絵島と新五郎は流罪に処されることが決まった。幕閣からは「死罪が妥当」という強硬意見もあったらしいが、「その罪重々に候といえども御慈悲によって命助けおかれ」と『絵島断罪事略』にある。慈悲とは、おそらく主人の月光院からの助命嘆願だろう。そして、絵島は信濃の譜代・高遠藩幽閉となる。
一方の新五郎は、三宅島への遠島だった。芝居小屋関係者数人も同罪だった。
最も罪が重かったのは義兄の白井平右衛門で死罪。監督不行き、連帯責任ということだろうが、罰が重すぎて腑に落ちない。おそらく、誰かを極刑に処さなければ示しがつかないという判断があったと考えられる。
新五郎との密通は冤罪か?
絵島生島事件は、「その後」がじつは重要である。
絵島と新五郎の密通は何ら確証がないにも関わらず、「男女関係があった」という、うわさが半ば真説として定着してしまった。芝居小屋の桟敷で2人が密会する場面を描いた錦絵(バナー写真)こそが、江戸〜明治を通じて、長いあいだ2人の逢瀬が事実と考えられていたことを裏付けている。
だが前述の通り、絵島は自白していない。また、新五郎は拷問によって自白を強要された可能性が捨てきれない。白井平右衛門に至ってはまったくの巻き添えだが、幕府の命であれば死罪も受け入れざるを得ないのが、御家人の身分である。
真相は不明のまま男女のスキャンダルだけがひとり歩きし、さらに関係者が重い処分を受けたことによって、密通は「事実」と認定されてしまった。それを、うわさ好きの江戸庶民がはやし立て、錦絵の題材にまでになった—つまり、絵島生島事件は冤罪ではなかったかとの疑惑が浮かびあがってくる。
冤罪だとしたら、絵島や新五郎らが罪を着せられたのは、なぜだったのか?
それは、幕閣の権力闘争が背景にあったという説がある。
7代・家継の生母として権勢を誇っていた月光院と、後継者を産めなかった正室の天英院。それぞれと関係が深い幕閣同士は、熾烈な権力闘争を繰り広げていた。
6代将軍・家宣の治世、実質的に幕政を動かしていたのは側用人の間部詮房(まなべ・あきふさ)と儒学者の新井白石(あらい・はくせき)だった。家宣没後も、月光院と幼くして7代将軍となった家継を後見して権力を維持しようとした2人を、天英院側が快く思うはずがない。
そんな折、月光院付きの奥女中が、門限破りという失態を犯したのだから、利用しない手はない。月光院派を追い落とすために騒ぎを大きくし、最終的に「密通」に仕立て上げた—これが最近の説である。
事実、事件後には月光院・間部・白石の権勢は衰える。
同時に7代・家継が病弱で数え8歳で夭折したことから、天英院が推す紀州藩主・徳川吉宗を第8代将軍に擁立する動きが出てくる。間部や白石が権力を維持したままだったら、将軍・吉宗の実現は困難を極めた可能性がある。
家康以来続いていた宗家の血筋が途絶え、初めて御三家出身の将軍が誕生するというエポック・メイキングな出来事に、絵島生島事件は少なからず影響を及ぼした。シリーズ第1回で紹介した大奥の創設者・春日局の計画、つまり徳川宗家の胤(たね)を存続させ、そこから将軍を誕生させる目論見は、ここで頓挫したことになる。御三家出身の吉宗が将軍に就いたことで、幕府と大奥は新時代に入っていく。
絵島のその後を伝える「囲み部屋」
一方、絵島はどうなったのだろう?
長野県伊那市にある高遠城址公園の隣りに、伊那市立高遠町歴史博物館がある。その敷地に、絵島を閉じ込めた「囲み屋敷」が復元公開されている。
格子戸は「はめ殺し」といわれる造りで、壁などに直接はめ込まれて開閉不能。一見すると監獄だ。詰所には番人が配置され、外部と接することは一切許されなかった。手紙も不可。このような環境下で、絵島は27年生きた。
もっとも晩年は恩赦が出され、高遠城内ではある程度の自由を得ていたらしい。寛保元(1741)年死去。亡くなるまで大奥の話は一切しなかったと伝わる。
墓所は高遠町の蓮華寺にあり、1992年に銅像も建てられた。穏やかな像の表情・佇まいは、大奥の威厳を最後まで保とうとした、奥女中の誇りとも感じられる。
だが、絵島生島事件は序の口だった。
享和の時代(1801〜1804年)には、さらに騒がしいセックス・スキャダルが大奥を見舞うのだが、それは次回。
バナー画像 : 『新撰東錦絵 生島新五郎之話』。絵島と新五郎の密会を描いたこの絵は、たびたび大奥の風紀の乱れを象徴する場面として話題となり、小説や映画の題材にもなった。国立国会図書館所蔵