大奥は公家・旗本・町人などの娘がキャリア組とノンキャリア組に分けられた格差社会
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女中の職制はじつに様々
大奥の女中たちの職制と仕事内容を、出自別に表にまとめた。御表使(おんおもてづかい)やら御右筆(ごゆうひつ)やら、聞き慣れない職制も多い。
職制 | 主な仕事内容 |
---|---|
上﨟御年寄(じょうろうおとしより) | 最高位。ただし権力はない。御台所の話し相手 |
小上﨟(こじょうろう) | 上﨟の見習い。御台所が若年の場合は少女もいた |
御年寄(おとしより) | 大奥のすべてを差配する最高権力者 |
御客会釈(おきゃくあしらい)* | 御三家・御三卿・諸大名の女使の接待役 |
中年寄(ちゅうどしより)** | 御台所付き年寄の代理で、御台の献立を指示 |
御中臈(おちゅうろう) | 将軍・御台所の身辺世話役。この階層の将軍付きから側室が出る |
御小姓(おこしょう)** | 御台所の召使い。16歳くらいまでの少女。 |
御錠口(おじょうぐち)* | 「上の御錠口=中奥と大奥を仕切る御鈴廊下」の監督係 |
これより上の職制は一生奉公 | |
御表使(おんおもてづかい) | 大奥の男性役人(御広敷)の応接、大奥の買い物担当 |
御右筆(ごゆうひつ) | 日記や大名家への書状を執筆 |
御次(おつぎ) | 道具や献上物の持ち運びや対面所のそうじ |
御切手書(おきってがき)* | 七つ口(男性役人の出入り口)を通る人物の改め役 |
呉服の間(ごふくのま) | 将軍・御台所の服装管理や裁縫を担当 |
御坊主(おぼうず)* | 将軍付きの50歳前後の剃髪した女性。床入りの監視役 |
御広座敷(おひろざしき)* | 御表使の下働き。御三卿や諸大名の女使の膳などの係 |
これより上の職制が御目見得以上 / 下は御目見得以下 | |
御三の間(おさんのま) | 新規採用の旗本の娘が就く。御三の間以上の雑用を担当(新入りのため御目見得以下) |
御仲居(おなかい) | 御膳所で食事の煮炊きをすべて担当 |
火の番(ひのばん)* | 奥の火のもとの管理 |
御使番(おつかいばん) | 御表使の下役。「下の御錠口」(大奥から外に出る玄関)の守衛 |
御末(おすえ) | 大奥のすべての雑用担当。そうじ・水くみなど |
出典 : 『将軍と大奥』(山本博文著 / 小学館) *は将軍付きにだけ、**は御台所付きにだけある職制
■公家 ■旗本 ■御家人以下
それぞれの職制の人数について、『江戸幕府女中分限帳』を例に見てみよう。この分限帳は、稲生家(江戸時代の旗本)に残る『稲生文書』に所収された、女中の地位などを記した帳面である。
その中から、11代将軍・家斉の正室だった広大院(こうだいいん)付きと、13代将軍・家定付きとされている(ともに推測)女中の職制と人数だ。これが将軍と御台所に直接仕える「奉公人」である。
広台院(御台所)付き | 13代家定(将軍)付き | |
---|---|---|
上﨟御年寄 | 1 | 3 |
小上﨟 | 1 | 1 |
御年寄 | 2 | 4 |
御客会釈 | 4 | |
中年寄 | 3 | |
御中臈 | 7 | 7 |
御小姓 | 2 | |
御錠口 | 4 | |
御表使 | 2 | 9 |
御右筆 | 3 | 7 |
御次 | 6 | *14 |
御切手書 | 1 | |
呉服の間 | 5 | *10 |
御坊主 | 4 | |
御広座敷 | 12 | |
御三の間 | 5 | *16 |
御仲居 | 4 | 4 |
火の番 | 18 | |
御使番 | 2 | *17 |
御末 | *14 | *37 |
*は各職制の「頭=リーダー」1人を含む
将軍付きの方が人数が多いのは、大奥が江戸城における将軍の「家庭」だからだ。「主(あるじ)」はあくまで将軍なので、将軍付きは人数も職制も分厚い。
そして、この他に幹部女中の世話をする部屋子(へやこ)と呼ばれる見習いや、下働きの女中が数多くいた。それらを合算すると、最大で総数は2000〜3000人にのぼるわけだ。
上﨟御年寄(じょうろうおとしより)と小上﨟(しょうじょうろう)は、京都から来た公家の女性で女中の最高位、いわば別格だった。なぜ公家の女性がいるかというと、将軍の御台所も一部の例外を除いて京都から下向した公家出身者だったため、話し相手が必要だったからだ。また有識故実(朝廷や武家における儀式や習慣)を知る貴族であり、その博識が重宝でもあった。
ただし、上﨟御年寄と小上﨟は大奥の実務・運営に、ほとんど関わらない。執り仕切るのは、御年寄だ。大奥に関するすべてを差配する女性こそが御年寄であり、この役職に就いた者が最高実力者で、上﨟御年寄・小上﨟以外の女中は、全員が御年寄の権限下にあった。
『奥奉公出世双六』に見る女中の姿
バナーの画像は、江戸時代に庶民の少女たちが夢中になって興じたゲーム『奥奉公出世双六』(おくぼうこうしゅっせすごろく)である。各マスには、女中の職制が絵付きで解説してあり、賽子(さいころ)を振り、マスに書かれている数字が出たら進む。「上がり=ゴール」は御台所。
大奥に入るのは町人の娘にとって憧れであり、せめてゲームの中で、自分が出世する姿を夢見ていたといえるだろう。
双六から、主だった職制を抜粋した。時代劇でお馴染みなのは老女(御年寄)、中老(御中臈)くらいで、それ以外はあまり知られていないが、冒頭の表と合わせてご覧いただきたい。
注目したいのは、最下位の御末(おすえ)である。御末は大奥の雑用係であり、そうじや水くみを担当した。
井戸から水をくみ、桶で運ぶ力仕事は、お嬢様育ちの武家の娘には務まらなかった。
そこで、御末には町人・農民出身者が採用された。彼女たちが、大奥の文字通り縁の下の力持ちだったことを、歴史学者の山本博文氏(故人)が指摘している。大奥は概して華やかさが強調されるが、数千人の女性が暮らす以上、決して華麗なだけだったわけではない。
御目見得以上と以下
とはいえ、大奥は身分・職制に縛られた厳粛かつ窮屈な世界でもあり、町人や農民の娘の誰もが、おいそれと“就職”できる職場でもなかった。
まず、女中は「御目見得(おめみえ)以上」「御目見得以下」に厳密に分けられていた。
「御目見得」とは、将軍と御台所にお目通り、つまり面会できる身分を指す。江戸時代は、御目見以上は旗本、以下は御家人を意味しており、奥女中も生まれた家柄によって、これに準じていた。旗本の娘は御目見得がかない、御家人の娘はNG——ここが境界線だったわけである。そして現代でいえば、御目見得以上は省庁のキャリア組、御目見得以下はノンキャリア組といえるだろう。御年寄がキャリア組のトップである次官、上﨟御年寄と小上﨟が名誉職というとわかりやすい。
武士でさえ、下級となると御目見得はかなわない。その原則に従えば、町人の娘が大奥に入るには、そもそも高いハードルがあったといえる。
町人の身分のまま運良く大奥入りし御末からスタートする者もいたが、武士の家との縁故(コネ)を使い、御家人の養女にしてもらってから入るケースなどもあったらしい。
そして、その後は実力でキャリアアップし、御目見得以上の地位を夢見る——理屈では不可能ではない。しかし、きわめて狭き門だった。
一方、上級の職制にある者は、原則として「一生奉公」である(前掲参照)。つまり、生涯を大奥で暮らす終身雇用が原則で、定年もなければ里帰りも自由にできない。
対して御目見得以下は、数年に1回程度の「宿下がり」(休暇)も制度化されており、願い出れば「暇」(退職)も可能だった。
一生を大奥に尽くすという覚悟がなければ、上級職は務まらない。町娘に、それほどの決意を持った者が、どれほどいたろうか。上級女中たちにとって、大奥は人生を捧げた職場だったのである。
住環境に見る女中たちの格差
職制によって、住む部屋も違う。東京都立中央図書館が所蔵する大奥造成時の建築図面から、その違いを見ていこう。
まず、『壱之側長局裏部屋矩計 いちのかわ ながつぼね うらべや かなばかり』である。
「壱之側」とは最も日当たりの良い南向きの部屋、「長局」とはいくつもの局(部屋)が連なった長屋式の建物、「矩計」は図面の意味だ。
つまり、この図面のような裏部屋(ロフト)付きの部屋が連なって、長屋を形成していた。
ただし、この部屋は上級女中だけが住むことを許された「個室」である。そして、ロフトには幹部の身の周りの世話をする部屋子(見習い)が常駐していた。
次に『三ノ側長局地繪圖 さんのかわ ながつぼね じえず』。三ノ側は御表使以下のランクの低い女中が住むエリアで、ご覧のように長屋が狭い部屋に区分されているのがわかる。各部屋に、職制によって1人〜複数で居住する。
そして最後が、『御半下部屋地繪圖 おはんしたべや じえず』。御半下(御末)たちが、大人数で共同生活を送る雑居部屋である。
待遇の違いと格差は一目瞭然。封建社会ではこれが当然だった。現代において、このシステムを維持しているのは大相撲の部屋制度くらいではなかろうか。
江戸時代の身分制度による格差は、大奥でも厳密に運用されていたのである。
バナー写真 : 江戸時代に少女たちが興じた『奥奉公出世双六』。賽子の目の数に合わせてコマを進め、上がりは御台所。女中たちの職制が絵に描かれている。(国立国会図書館所蔵)