犬公方の大奥と女性関係は得体のしれないゴシップだらけ
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子どもに恵まれなかった「さようせい将軍」
まず、4代将軍・家綱について触れよう。ひと口でいえば影の薄い将軍だった。父の家光は慶安4(1651)年4月、将軍在職中に死去。4カ月後、長男・家綱が継承したのは既定路線だったが、この時、11歳。指導力を発揮できるはずもない。
政治を主導したのは老中たちだった。家綱政権の初期は、「寛永の遺老(いろう)」といわれた家光時代の宿老たちが実権を握っていた。さらに、寛文6(1666)年に大老となった酒井忠清(さかい・ただきよ)の存在が大きい。忠清の屋敷が江戸城大手門前の下馬札 (げばふだ) の前にあったことにちなんで、「下馬将軍」とあだ名されるほどに、実質的な最高権力者とみなされていた。
当の家綱はといえば、老中らの進言に「その通りにせよ」と言ってばかりいたので、「さようせい将軍」と揶揄(やゆ)されていたらしい。
一方の大奥では、家光が没したとき、女中3700余人に暇を出す人員削減が行われたという説がある。家綱が幼少の頃から大奥に入り浸りだったため、大奥を縮小したと、一部の百科辞典などに記載されているが、これは真偽不明である。
はっきりしていることは、家綱は将軍の座に30年近くいて、正室と2人の側室がいたが、子ができなかったということ。正確には側室は2度懐妊しているが、いずれも死産だった。
延宝8(1680)年5月6日、家綱は弟・綱吉を江戸城に呼び、「自分には世継ぎがいないので、養子になるように」と命じ、綱吉を江戸城二の丸に入らせる。こうして綱吉の5代将軍就任が確定した。
8日、家綱は死去する。
綱吉の母・桂昌院は悪評ぷんぷん
綱吉を5代将軍に決めるには、幕府内でも議論があったようだ。
家光には年齢順に、家綱、綱重、綱吉の3人の息子がいた。綱重は、兄・家綱よりも先に病没したが、息子・綱豊を残していた。つまり、家綱の後継者候補たりえたのは、弟・綱吉と甥(おい)の綱豊の2人である。
綱豊は当時、すでに19歳で幼年の域も脱していた。綱吉より年長の兄の嫡男であるため、将軍就任の優先順位は上だったと考えられる。
にも関わらず綱吉が将軍に就いたのは、当初は中継ぎであったことを意味していよう。先代の弟が中継ぎとして登板するのは、当時の慣例法『武家相続法』によく見られるケースだった(『徳川綱吉』福田千鶴 / 山川出版社)。
だが、綱吉の治世初期は「天和の治」と呼ばれる善政を行ったこともあって、結果として長期政権となる。綱豊が6代家宣として将軍に就くのは、約30年後に先延ばしされる。
一方、綱吉の母・お玉と、綱豊の祖母・お夏の対立を回避した折衷案という俗説もあった。お玉とお夏は、どちらも自分の血筋を将軍の座に就かせたがっていたため、犬猿の仲だったことは前回触れた。
息子=綱吉が将軍となったことでお玉が先に願いをかなえたことになるが、その次は、お夏の孫=綱豊となったので、引き分けといっていい。いかにも日本的な決着方法である。なお、この頃はお玉もお夏も髪を下ろしているので、系図にはお玉は「桂昌院」(けいしょういん)、お夏は「順性院」(じゅんせいいん)とも記す。
だが、とかく綱吉と桂昌院には悪い噂がたった。
浅野内匠頭が吉良上野介に切りかかった松の廊下事件は、綱吉の時代の出来事だ。事件があった日、朝廷からの勅使を迎える饗応役は、綱吉にとってとりわけ重要だった。朝廷より桂昌院が従一位の官位をたまわるための工作中だったからである。
従一位を授かるのは、徳川の女性では家光の母・崇源院(すうげんいん /お江)に次いで2人目であり、綱吉たっての希望だった。
そんなとき、よりによって饗応役の大名が大失態をおかしては、面目丸つぶれである。綱吉が激怒するのも当然だった。
将軍の桂昌院に対する思いを忖度(そんたく)した側用人・柳沢吉保は、暴挙に及んだ内匠頭だけに切腹を命じる。けんか両成敗のはずなのに吉良はおとがめなしだった。このことで、綱吉・桂昌院・吉保に対する世評は悪化する。
綱吉が母を大事にするあまり、マザコン気味といわれる所以(ゆえん)もここにある。
「生類憐れみの令」の黒幕が桂昌院は真実?
「生類憐れみの令」も、黒幕は桂昌院と噂された。
綱吉には嫡男がいた。名を徳松というが、数え5歳で夭折する。そこで、殺生を禁じれば君主としての徳が増し、世継ぎにも恵まれるという僧の話を桂昌院が鵜呑みにし、綱吉をそそのかした—「犬公方」の誕生には、そんな背景があるというのだ。
「生類憐れみの令」は、最新の研究では「生命あるもの全てに慈悲の心を持つ」ことを趣旨とする仁政と見る向きもあり、一概に悪法とは言い切れない。だが、民衆にとって迷惑だったことに違いはない。何しろ大規模な犬屋敷を建て、野犬を保護するのだから、それだけでも費用は膨大である。
そうした公金の浪費に対する民衆の不満が、綱吉と桂昌院に向いた。桂昌院が綱吉をそそのかしたという説は単なる当時の噂で確証はないのだが、ここでも彼女は悪役にされる。
そして、殺生を禁じようが、綱吉にはいっこうに男子ができなかった。
綱吉を巡る女性関係
大奥には、正室に鷹司信子(たかつかさ・のぶこ)、側室にお伝、京都から連れてきた大典侍(おおすけ)、新典侍(しんすけ)の3人がいた。しかし、誕生した男子はお伝が産んだ徳松だけで、その徳松も夭折してしまった。
綱吉時代の大奥はゴシップの宝庫といっていい。例えば—。
京都出身の信子とお伝が対立関係にあり、お伝と同じく身分の低い出の桂昌院がお伝に加勢した—。
信子はお伝に対抗するため、公家の右衛門佐局(うえもんのすけのつぼね)という女性を御年寄として味方につけ、右衛門佐局が新典侍を綱吉に斡旋—。
対抗して桂昌院も大典侍を綱吉に推薦—。
仮に新典侍と大典侍を側室とするのに信子や桂昌院の意向があったにせよ、それは「胤」存続のための政治判断である。
それを対立構図に見たてるのは典型的な覗き見趣味なのだが、将軍の母・正室・側室を巻き込んだゴシップは後を絶たなかったようだ。
そこに、綱吉に近侍する2人の側用人、牧野成貞(まきの・なりさだ)と柳沢吉保が絡んでくるから、ややこしい。
綱吉-成貞-柳沢にも、女性関係のゴシップが山盛りだ。
成貞の妻・亜久里(あぐり)と娘・お安に綱吉が手を付けた—。
または、吉保の側室・染子を、綱吉が柳沢邸に「御成」(おなり / 訪れること)した際に見初め、吉保が譲った—。事実なら、人間関係が破綻している。
もっとも、これらの話は大奥とは直接関係ない。綱吉個人の女性乱脈に関する噂であるのだが、ゴシップ好きの人々に、将軍の「胤」と大奥の争いに区別はない。
大奥が愛欲渦巻く場という印象は、この頃から世間に浸透していったようで、綱吉が死去したときは正室・信子に殺されたという俗説まで出てくる。
なお、側用人について補足すると、これは刃傷事件がきっかけで創設されたポストだった。松の廊下事件より前、貞亨元(1684)年8月28日、大老・堀田正俊(ほった・まさとし)が若年寄・稲葉正休(いなは・まさやす)に刺殺された事件である。
このときの殺害現場が、将軍の居室・御座所の近くだったため、以後安全を考慮し、老中たちと将軍の居場所を引き離す必要が生じた。その空いた距離を取り次ぐ役目として、側用人を置いたに過ぎない。
しかも、側用人は老中たちが主導する政治に深く関わらなかったことが明らかになっており、決して将軍を意のままに操るような存在ではなかったという(『徳川将軍側近の研究』福留真紀 / 歴史科学叢書)。
だが、長きにわたって浸透した通説・俗説は今も払しょくされていない。
綱吉については「理想主義者ではあるが、小心の専制君主」(『徳川綱吉』塚本学 / 吉川弘文館)という指摘があり、パラノイア的な性質を見てとる研究者もいる。「生類憐れみの令」もそうだが、犬・鳥・魚などに対して慈愛を持つことは理想ではあるものの、確かに偏執的だ。
そうした特異なキャラクターのせいか実像が伝わりにくく、いまだに不可思議な将軍として、霧の中に立っている。
大奥や女性に関するゴシップが、その霧をさらに深くしている。
そして、結果として綱吉に世継ぎができなかったことが、のちの将軍継嗣問題と大奥を左右していくことになる。
バナー画像 : 綱吉の御台所・鷹司信子を描いた『善悪三十六美人 浄光院』(部分)。浄光院(じょうこういん)は信子の院号。悪女に描かれているのは、綱吉の女性乱脈を恨み、夫を殺害し自らも自害したというゴシップが流布していたため。綱吉の周辺は信ぴょう性の薄い三面記事だらけ。東京都立中央図書館特別文庫室所蔵