大奥を確立した春日局の狙いは3代将軍・家光の「胤(たね)」を存続させること!
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秀忠の代に登場した「奥」には側室がいない
大奥が歴史の表舞台に登場するのは、徳川2代将軍・秀忠の時代である。もっとも、この頃は「奥方」(おくがた)などと呼ばれ、「大奥」という名称が使われるのは、4代将軍・家綱の頃からだ。
奥方とは、「家の奥の方」「家政全般を行う場、または人」を意味する。城や大名屋敷の奥の方にあり、家政をつかさどる場所、あるいは人のことをそもそもは指す。平たくいえば貴人の「奥様(妻)がいる場所」だ。
徳川初代将軍・家康は慶長10(1605)年、征夷大将軍を息子の秀忠に譲ると、翌年から江戸城の大幅な増築に着手した。
この時、将軍が政務を行う「表」(おもて=職場)と、将軍の家族が住む「奥」(居住地)とを区切ったのである。これが大奥の原型といっていい。また、将軍個人の私的な場所「中奥」もできる。
奥方開設当時の支配者は、秀忠の正室・お江である。浅井長政(あざい・ながまさ)と、織田信長の妹・お市の間に生まれた三姉妹の末娘だ。
文禄4(1595)年に秀忠に再嫁(お江にとっては3度目の結婚)し、慶長9(1604)年に竹千代(後の3代将軍・家光)、同11年に国松(後の徳川忠長)を産んだ。
秀忠は正室のお江の他に側室を持たなかった——というのは表面上で、実は、出産を秘匿した男児がいた。ご落胤(らくいん)である。この人物が、後に会津藩初代藩主・保科正之(ほしな・まさゆき)となり、家光を補佐していくわけだが、それはさておき、隠したということは、この時代の奥方にまだ側室は住んでいなかったことになる。
ここに一人の女性が現れる。
竹千代の乳母となったお福——後の春日局である。
伝説に彩られた女性・お福
お福(バナー画像参照)が乳母として江戸に来るまでの経歴は、さまざまな説がある。
はっきりしていることは、明智光秀の重臣・斎藤利三(さいとう・としみつ)の娘であること。光秀が羽柴秀吉と戦った山崎の戦い(天正10 /1582年)に敗れると、利三も斬首に処されたこと。その後、お福は謀反人の子として流浪を重ね、ようやく結婚したものの夫が浪人の身に堕ちるなど、前半生は波乱に満ちている。
それが慶長9年、家康によって竹千代の乳母に抜てきされ運命が変わると、諸説入り乱れてくる。
そもそも乳母になった経緯も、公募に応じて家康の御めがねにかなった、幕府から推薦された、家康のお手付きだったなど複数の説があり、判然としない。
いずれにせよ、「京に在住経験がある」「教養がある」という乳母の採用条件に合致していたこと、また、たくましさ、粘り強さ、したたかさを併せ持った、稀有な女性だったこと——家康の目に、そう映ったのは確かだろう。
一方、竹千代と国松のどちらが将軍継嗣(けいし=跡継ぎのこと)にふさわしいか、幕府内で意見が割れた際、お福が家康に直談判し、「長幼之序(ちょうようのじょ)に従う」(長子こそが正統な後継者)という鶴の一声を引き出した——そんな話もあるが、この逸話は現在、江戸時代に創作されたものとされている。
秀忠とお江が、竹千代より国松を溺愛して次期将軍に推し、お福と対立したという話もあるが、これも信ぴょう性に乏しい。この話は『落穂集』などに記載されてはいるものの、裏付けがあるとはいえず、根拠はないとする研究者も少なくない。
しかし、逆にいえば、これらが「真説」として流布されるほど、お福という女性は重要な人物と見なされていたことになる。
将軍の「胤」の存続に執念を燃やす
では、何をもってお福を重要人物というのか——。
それは、単なる将軍継嗣の乳母にとどまらず、奥を制度として確立させた、江戸幕府初期の優秀な政治家だったからだ。
元和4(1618)年、奥に関する法度(はっと)が定められた。「男子禁制」「暮六つ以降は出入りを禁じる」など、現在我々が知る大奥の原則はこの時にさかのぼる。
元和4年制定の法度
一 | 奥の普請・掃除など御用のある時は、必ず天野孫兵衞、成瀬喜左衛門、松田六郎左衛門(※1)が人夫に同伴する。 |
二 | 男は立ち入ってはならない。 |
三 | 女であっても手形(許可証)なしに出入りしてはならない。 |
四 | 暮六つ(午後6時)過ぎの出入りを禁ずる。 |
五 | 走り女(※2)は然るべき理由があっても追い返すこと。 |
六 | 天野、成瀬、松田は一昼夜ごとに交代で御広敷に詰め、違反者があれば注進する。隠した場合は厳罰に処す。 |
(※1)天野孫兵衞、成瀬喜左衛門、松田六郎左衛門/御広敷役(奥の管理・警備)を担当した男性役人の名前と思われる。
(※2)外出した女中が門限きりぎりに駆け込んでくること。素性の知れない女が混じっていると警戒された。
竹千代が家光と名乗り将軍宣下を受けるのが元和9(1623)年だから、来たるべき家光の時代に備え、奥の基盤を整備したということだろう。
むろん法度である以上、時の将軍・秀忠の名の下で発布されているわけだが、お福の意向も強く働いていた可能性は低くない。
一方の家光は当初、子宝に恵まれなかった。
将軍宣下を受けた同じ年に、前関白・鷹司信房(たかつかさ・のぶふさ)の娘・孝子(たかこ)を正室に迎えたが、孝子とは不仲であり、夫婦生活は皆無だったという。
孝子は江戸城中の丸へと移り、結局、2人の間に子はできなかった。
さらに家光には、男色にふける性癖があったらしい。小姓として仕えた人物に寵愛する者が3人いたという。もっともこの時代、武士の男色は珍しいものではないが、乳母の立場にあるお福としては頭が痛かったろう。御台所とは不仲、寵愛(ちょうあい)する者が男では、子はできない。
将軍家の存続は、家光の「胤」(たね)を残すことにかかっている。幕府にとって、このことは重大な政治案件だった。
お福は、ここに執念を燃やす。
大奥の機能が完成
お福は、家光に美女を斡旋しはじめる。「胤」を存続させるための必死の工作だった。
お振、お楽、お玉という名の美女を連れてきては、奥入りさせた。最初に懐妊したのはお振だったが、生まれた子は女児だった。だが、家光はすっかり女性に“目覚めた”のか、さらにお夏、お里佐といった女中たちに、自ら手を付けていく。
名前・出身 | 概要 / 世継ぎ |
---|---|
お万 / 伊勢・慶光院の尼僧 | 家光に謁見した際に見初められ、還俗して側室に 子供なし。公家の娘であるため、幕政への干渉を危惧し堕胎したという俗説も |
お振 / 蒲生家家臣の血筋 | お福に見初められて大奥入りし、寛永13年に家光のお手付きとなる 女児1人=千代姫、後に尾張藩主の正室となる |
お楽 / 下野国の農民 | お福が浅草参りの帰路、美貌に目を留め大奥入り 男児1人=竹千代、後の4代将軍・家綱 |
お夏 / 京都の町人 | 正室・孝子付きの女中だったが、家光の手が付く 男児1人=長松、後の甲府藩主・徳川綱重 |
お玉 / 摂関家の家司 | お万の部屋子。お福の推薦で御中臈となり、家光のお手付きに。 男児1人=徳松、後の5代将軍・綱吉 / お夏とは犬猿の仲 |
お里佐 / 京都の官吏の娘? | 正室・孝子の侍女だったが、家光に見初められる 男児1人=鶴松、正保4(1647)年誕生、翌年に夭折 |
おまさ / 尾張藩家老の娘 | お福の計らいで大奥入り。家光のお手付きとなる。 男児1人=亀松、正保4年に夭折 |
各種資料を基に筆者作成
やがて側室が次々と男児を産む。2人は夭折(ようせつ)したが、竹千代(この名は徳川家の長子にしばしば使われる名で、家光も家綱も幼名は竹千代だった)は4代将軍・家綱、長松は甲府藩主・綱重、徳松は5代将軍・綱吉となる。
お福の計画は奏功し、将軍の「胤」を存続させる大奥という“機能”が完成する。
お福は「将軍様御局」と呼ばれ、この職がのちに大奥幹部の役職である「御年寄」として定着する。同時に御年寄は将軍の「胤」を管理・監督する立場として、老中をも上回る強大な権力を手中に収めていく。
寛永6(1629)年、お福は公家の三条家の猶妹(ゆうまい=義理の妹として縁組する)となり、宮中に参内する資格を得て、「春日局」の称号を授かった。寛永20(1643)年、病に伏した。家光が疱瘡にかかった時に平癒を祈願し、一切の薬を飲まないと誓っていたため、治療も薬も一切断わったが、心配した家光が自ら服薬させたと伝わる。
だが、その甲斐なく逝った。享年64。
死後、家光の将軍後継を巡り、火種がくすぶりはじめた。母の違う後継者が3人もいれば、争いは起きやすい。春日局没後に奥を取り仕切ったお万が「長幼之序」を説き、継嗣はお楽が産んだ竹千代(家綱)であることを言い含めた。
だが、同じく男児を産んだお夏とお玉は互いに強い対抗心を持っていた。特にお玉は、俗説では「玉の輿」の語源となったともいわれる女性で、権力志向が強かったと思われる。
お福が苦労して完成させた「胤」存続のシステムが、皮肉にも軋轢を生んでいくのである。
バナー画像 : 春日局 / 大河ドラマにもたびたび登場する徳川幕府創設期の重要人物の一人。大奥の基盤を整備したほか、参勤交代で江戸に留め置かれていた諸大名の妻たちを統括する役割も担った。東京大学史料編纂所所蔵模写