誇り高き坂東武者・畠山重忠の素顔に迫る
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桓武平氏の流れをくむ畠山氏
重忠は1205(元久2)年、鎌倉幕府執権・北条時政に討たれ非業の死をとげた、いわば 歴史の “負け組”に属する。
だが、筆者が知る限り、相次いで刊行された鎌倉関連本で重忠をあしざまに書く研究者はいない。それどころか高く評する識者が多く、その中身も決して判官びいきといえない。
こうした見解は、歴史学者の清水亮氏(埼玉大学教育学部准教授)が自著『中世武士 畠山重忠』(吉川弘文館)で述べた次の意見に代表される。
「重忠が廉直な人物であったことは私も否定しない。(中略)家格・勢力ともにトップクラスの東国御家人である」
廉直——私欲がなく曲がったことをしない。また、そうした姿勢を貫き通せたのは、格式の高い家柄で、かつ強大な武力を備えていたからだと分析している。
そこで、まず畠山とはどういう氏族だったかを、ひも解いてみよう。
畠山氏は坂東平氏の祖といわれる平良文(たいらのよしふみ)の子孫だ。良文の父・高望(たかもち)は桓武天皇のひ孫にあたり、平姓を下賜されて臣籍降下。未墾の地だった関東に下向して土着し、勢力基盤を固めた。つまり、畠山氏は桓武平氏の血を引いた坂東の名門だ。
その後、良文の孫の平将恒(たいらのまさつね)が、武蔵国秩父郡(埼玉県秩父市)を拠点に、「秩父党」という強大な武士団を形成するのである。
秩父党はさらに秩父氏、河越氏、小山田氏、江戸氏、稲毛氏などに枝分かれした。畠山氏もその一つで、重忠の父である重能(しげよし)の代に秩父党の惣領(そうりょう)を狙える実力者となった。紛れもなく武蔵国の有力者の1人だった。
とはいえ、清水亮氏の著書にある通り、源頼朝が創立した幕府においては、「トップクラス」の御家人ではあっても、決して「トップ」だったわけではない。頼朝が反平家の旗印のもと挙兵した1180(治承4)年当時、父・重能は京都にいて、平家に帰属していたからだ。
武蔵国にいた重忠も父に従い、頼朝に参陣するのを見送った。そればかりか頼朝に味方した三浦氏の主要人物・義明(三浦義村の祖父)を討ちとっている。直後に頼朝に恭順し許されたものの、三浦と畠山の遺恨は残った。
重忠は源平合戦と呼ばれる治承・寿永の乱(1180〜1185)や、奥州藤原氏征伐(1189)で戦功をあげていく。順調な出世に見える。だが、「建前では頼朝に重用されながら、ある距離が置かれている」(『中世武士 畠山重忠』にある須藤敬氏の指摘)という。格式は高いが、鎌倉幕府の「宿老」といえる立場ではなかったのである。やはり挙兵当初の敵対行動が尾を引いたのだろう。
一方で畠山に接近する鎌倉御家人もいた。北条だ。
北条時政は娘と重忠の縁組を成立させ、関係強化を進めた。
重忠を取り巻く状況は複雑だった。
『吾妻鏡』などの史書に見る重忠像
『吾妻鏡』などは、重忠の清廉で堂々とした人物像を記している。
①『吾妻鏡』1180(治承4)10月4日条
この日、重忠は挙兵に敵対したことを申し開きし、頼朝に許しを得た。弱冠17歳。
頼朝は若く見映えのする重忠を、鎌倉入りの際の先陣に抜擢する。
②『延慶本平家物語』など1184年(寿永3)年1月
源(木曾)義仲との宇治川の戦いでは、濁流の中に真っ先に馬を走らせ、馬が敵の矢に射られて死ぬと、鎧(よろい)を着けたまま泳いで川岸までたどりついた。
③『吾妻鏡』1187(文治3)年11月21日条
梶原景時の讒言によって、重忠は頼朝に謀反を疑われていた。景時は、許しを乞いたければ起請文を提出するよう指示するが、重忠は「起請文を出せとは腹黒い者に対してする指示だ。自分に二心はないと、頼朝様に伝えてほしい」と、毅然と言い放った。
誰に対しても言うべきことは言う、重忠の矜持を思わせる。頼朝は不問のまま重忠に引見し、謀反の疑いは晴れた。
④『吾妻鏡』1189(文治5)年8月9日条
奥州藤原氏征伐にあたり、重忠は頼朝から先陣を仰せつかっていた。だが、三浦義村、工藤行光ら7騎が重忠を出し抜こうとした。
その報告を受けた重忠は、「(自分が)先陣を命令されたことに変わりはない。また、彼らを邪魔するのは武略の本意ではない」と、とがめなかった。
⑤『愚管抄』巻6
天台宗僧侶の慈円が記した重忠評。
「重忠は武士としての望みをかなえ、第一の者と評判されていた」
むろんこれらがすべて事実とは、証明できない。しかし、仮に創作だったにせよ、こうした事績を『吾妻鏡』が記したのは、編纂した北条氏が重忠を偉大なる武士と、認めていたからに他ならない。同時代を生きた御家人たちから見て、重忠は人格・武功ともに優れた男だったといえる。
特に北条義時とは年齢が1歳しか違わず、親しい間柄でもあったろう。それゆえ、北条との関係も当初は良好だったはずだ。
だが、両家の関係は突然暗転する。
北条時政が、武蔵を手中にしようとの欲に駆られ始めるのである。
1203(建仁3)年10月27日、時政は3代鎌倉殿・実朝に「武蔵国の者は遠州(時政のこと / この頃、遠江守に任じられていた)に二心を抱いてはならない」との指示を出させることに成功する。これは、武蔵の有力御家人たちが、時政の指揮下に入ることを意味した。
重忠には到底容認できる指示ではなかった。北条と畠山の確執は深まり、重忠が邪魔になった時政はだまし討ちする計画を立てる。
鎌倉史上最悪のだまし討ち
1204(建仁4)年には、京都に「時政、庄野次郎(重忠)に敗れ、山中に匿(かく)れる。(大江)広元もすでに誅殺された」との報せが届く(『明月記』1月28日条)むろん誤報だが、この時点で時政と重忠の関係悪化が京都にとっても懸案事項だったことが分かる。両者の諍(いさか)いは、抜き差しならないところまで来ていた。
この後、両者はいったん和解するが、1205(元久2)年6月、武蔵御家人・稲毛重成が重忠と嫡男の重保を鎌倉に招く。まず重保が武蔵を先に発ち、20日に鎌倉に到着。重忠も19日、わずか134騎を伴い鎌倉に向かった。
22日、重保が鎌倉・由比ヶ浜で三浦義村に討たれる。手勢を率いただけの重忠にも、北条義時・時房、和田義盛らの大軍が迫った。
稲毛重成は重忠の従兄弟であり、かつ妻(この時すでに故人)は北条時政の娘で、政子・義時の異母妹にあたる。
両家に縁のあった重成は北条に加担し、重忠と重保をわなにはめる道を選択したわけだ。動機は、重忠が持つ「武蔵国留守所検校職」(官人トップの座)を狙ったと考えられると、京都女子大学名誉教授の野口実氏が指摘している(『北条時政』ミネルヴァ書房)。
野口氏はまた同著で、三浦義村には畠山に祖父を討たれたことに対する、積年の恨みがあったのではないかと示唆している。
ところが息子の死を知り、さらに幕府の大軍を迎えても、重忠は一歩も退かなかった。
敵軍の先頭に安達景盛(頼朝側近・盛長の嫡男)の姿を見つけると、「彼は弓馬牧遊の旧友だ。その男が先陣を務めていることに、心を動かされない武士はいない」と言い、勇敢に迎え撃った。
重忠が「武士の鑑」と語り継がれる所以(ゆえん)は、ここにもある。
バナー画像 : 『芳年武者旡類 畠山庄司重忠』東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
参考文献
- 『中世武士 畠山重忠』清水亮 / 吉川弘文館
- 『北条時政』野口実 / ミネルヴァ書房
- 『考証 鎌倉殿をめぐる人々』坂井孝一 / NHK出版新書
- 『鎌倉幕府抗争史』細川重男 / 光文社新書