「比企能員の乱」とは実は北条のクーデターだった!
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窮地に陥った北条の逆襲
北条時政・義時の父子と比企能員の3人はNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のタイトルにある幕府宿老13人に名を連ねる人物だが、両家の関係、とりわけ時政と能員の関係は険悪だった。
比企は頼朝の嫡男で2代鎌倉殿・源頼家の乳母夫(乳母の女性の夫)を務めた家であり、また、頼家は比企の娘・若狭局との間に息子・一幡をもうけていた。
一方の北条は、頼朝の次男・千幡(後の3代鎌倉殿・源実朝)の乳母夫の家である。
将軍(頼朝)の長男と、そのまた長男を擁した比企と、次男を養育した北条が、次期将軍を誰に推すかで主導権を争うのは必然だった。
長子相続の正当性を重んずれば、比企の優位は明らかだ。しかも、千幡の乳母だった時政の娘・阿波局の夫で僧侶の阿野全成が、頼家に謀反を企てた罪を着せられて死罪となる。1203(建仁3)年6月23日のことである。
当時の事件を記した歴史書『六代勝事記』は「讒に帰して叔父あの(阿野)ゝ全成を殺害」と記す。
「讒」、つまり頼家に全成の謀反を讒言(ざんげん / 告げ口)した者がいたわけで、それが能員だったと考えられている。
北条は旗色悪く、このままでは後継者争いで比企に敗れ去る危機に直面した。
ところが、全成の死からわずか1カ月足らずの7月末、頼家が病で倒れる。回復不能とみられるほど重篤だった。重臣たちは8月27日に評議を開き、頼家の後継者を誰にするかを話し合った。
ここで北条が逆襲に打って出る。
『吾妻鏡』によれば、頼家の息子・一幡に武家の棟梁である「日本国総(惣)守護」の座を譲り、同時に一幡が関東28カ国、千幡が関西38カ国の地頭職を相続する「分割案」をぶちあげたのである。
一幡がすべてを相続し、その後ろ盾として御家人の頂点に君臨しようと目論んでいた比企には、到底受け入れられなかった。
能員が案をのまないことなど、北条も分かっていた。これは比企を挑発する策といっていい。
比企一族とは何者か?
比企一族には謎が多い。現在分かっているのは、京都の官人・比企掃部允(ひきかもんのじょう)が祖であること。この人物は藤原宗兼(遠宗という説も)の名もあり、そもそもは平安時代の武将・藤原秀郷の流れを称していた。事実なら名門の軍事貴族である。
掃部允の妻が比企尼。源頼朝の乳母だ。
2人の間に生まれた比企朝宗が、北条義時に嫁いだ姫の前の父である(朝宗は比企尼の弟説もあり、研究者の間でも見解は異なっている)。
能員は比企尼の猶子で、こちらは明らかに実の子ではない。生まれは『愚管抄』によれば阿波国(現在の徳島県)。異説として『愚管抄』の著者・慈円が「安房」を「阿波」と誤記し、本当の誕生は現在の千葉県ともいわれるが、阿波出身ととらえる研究者が多い。
京都時代の頼朝と掃部允がどのように結びついていたかは詳しくは分からないが、頼朝の父・義朝の配下であり、その縁から妻が頼朝の乳母になったという。
平治の乱(1160年)で義朝が平清盛に敗れ、頼朝が伊豆へ流罪となると、掃部允夫妻も関東へ下向。武蔵国比企郡(現在の埼玉県)を請所(うけしょ / 荘園領主から一定額の年貢納入を請け負い、年貢徴収などを任される)とした。そして、武蔵から伊豆の頼朝を、20年近くにわたって援助し続けるのである。
比企郡から頼朝の流罪地まで、距離は約180キロメートル。援助は米などの物資の輸送を伴ったから、困難だったことは容易に想像できる。比企一族歴史研究会の西村裕・木村誠両氏の編著『探訪 比企一族』(まつやま書房)は、
「敗者義朝の家臣比企氏が勝手に比企郡を請所として東国に下ることはできない。(中略)比企氏に頼朝の面倒を見るようにしたのは平清盛と考えざるを得ない」としているが、詳細は不明だ。
ともあれ、比企は年貢を徴収する利権を持ち、カネもあった。頼朝は鎌倉に御所を構えると、長年の恩義に報いるべく鎌倉に呼び、屋敷も与えた。京都から下向し藤原氏の末裔を名乗っていた比企は、坂東武者たちにとって明らかによそ者だった。
『吾妻鏡』では1194(建久5)年12月10日条を最後に、朝宗が姿を消す。歴史家の細川重男氏は『鎌倉幕府抗争史』(光文社新書)で、「朝宗はこの時からそう遠くない時期に没し、能員が比企氏を継いだと推定される」という見解を示している。
能員は源平合戦に参加し、1189(文治5)年の奥州藤原氏討伐では北陸道軍の大将軍を務めるなど順調に出世。上野(こうずけ / 現在の群馬県)、信濃(同長野県)の守護に任じられる。朝宗が治めていた越中(同富山県)など北陸も比企の支配下だったと考えられる。御家人の中でも最大の勢力圏を持つ。北条としても看過できる存在ではない。
比企の支配圏に隣接した土地を治める御家人にとっても、目障りな存在だったはずだ。京都女子大学名誉教授の野口実氏は、「特に畠山重忠はその所領である男衾(おぶすま)郡が比企郡と接していたから、とりわけ緊張をはらむものがあったようだ」と述べている(『北条時政』ミネルヴァ書房)。
足立遠元、稲毛重成など武蔵の御家人も同様の危機感を抱いていただろう。
権勢を誇る比企は、周囲を敵に囲まれていた。
比企滅亡! だが北条も多くを失う
さて、北条が提案した一幡・千幡による分割相続案をはねつけた能員は1203(建仁3)年9月2日、頼家の側室である娘の若狭局を通じて、頼家に時政殺害を訴え出て認められる。
この密談を政子が立ち聞きし、時政に報告する——『吾妻鏡』の有名なエピソードだ。
もちろんこれは後世、北条が“創作”したものだろう。
だが、このデッチ上げの逸話を記すことによって、「先に仕掛けてきたのは比企」であり、北条は阻止するために比企討伐を決断したという大義名分が立つ。
『吾妻鏡』は北条に都合のいいように曲筆が多いことで知られるが、これなどはその典型といっていい。
時政は能員誅殺を決し、完成したばかりの薬師如来像の供養を政子の臨席のもとで行うので列席してほしいと、能員を屋敷におびき出す。
能員は武装もせず、「郎等二人、雑色五人」だけ引き連れてやって来た(『吾妻鏡』)。武装すれば騒ぎになる、時政は将軍職後継の相談をしたいのだろうと、楽観視していたようだ。
だが、時政邸に入った能員を、まず天野遠景が羽交締めにした。次に仁田忠常が刀を突き刺した。
能員はあっけなく果てた。
間髪入れず、「御台所の仰せにより」、御家人たちが比企一族が立てこもる「小御所」(一幡の邸宅)を襲撃したと『吾妻鏡』は記す。
北条義時・泰時の父子、畠山重忠、三浦義村、和田義盛、平賀朝雅、小山朝光らが軍勢を率いた。「御台所の仰せ」、つまり政子の命令によって、小御所襲撃は幕府公式の軍事行動となったわけだ。
鎌倉歴史文化交流館の山本みなみ氏は『史伝 北条政子』(NHK出版新書)で、「頼家・一幡を犠牲にしようとも、比企氏を殲滅する。これが頼朝の後家政子の判断だった」という。
大軍に攻められた小御所は炎上し、能員の妻と若狭局らがことごとく討たれ、瞬く間に比企は滅亡した。
政子にとっても孫にあたる一幡は、襲撃翌日に幼児の小衣が発見されたことによって焼死を確認したとする『吾妻鏡』と、若狭局とともに逃げたが11月に入って義時の配下に発見され殺害されたとする『愚管抄』とで、記述が異なっている。いずれにしろ、死んだことに違いはない。
こうした一連の流れを見ると、偶発的に起きた事件とはとても言い難い。北条は8月27日、分割相続の評議の時点で、いや、それ以前から比企の殲滅を計画していたといえよう。比企に権力が一元化していた現状を打破しようとした北条のクーデターであり、そこには時政・政子・義時3人の強固な意志が働いていた。北条は一族の力を結集し、比企を破滅に追いやった。
そうした意味から、この事件を「比企の乱」と呼ぶのは決して正確とはいえない。山本みなみ氏は、事件の発端が北条であったことを指摘した上で、「『宝暦間記』に見える小御所合戦の名称こそ、乱の実態に即したものである」(『史伝 北条政子』)としている。
だが、この合戦で北条も大きな代償を払うことになる。
回復不能と見ていた頼家が、なんと事件直後に意識を取り戻し、比企滅亡と若狭局、一幡の死を知り、怒りを爆発させるのだ。
頼家をどう収めるか? 政子は厳しい対処を迫られる。
比企から姫の前を妻に迎えていた義時も、離縁を決意せざるを得なかった。姫の前は京都の貴族に再嫁する。
比企の滅亡によって、北条も多くを失うのである。
[参考文献]
- 『北条時政』野口実 / ミネルヴァ書房
- 『鎌倉幕府抗争史』細川重男 / 光文社新書
- 『史伝 北条政子』山本みなみ / NHK出版新書
- 『探訪 比企一族』西村裕・木村誠 / まつやま書房
バナー写真 : 『星月夜顕晦録 二編 巻之二』より。仁田忠常と天野遠景に殺害される比企能員。国立国会図書館所蔵