鎌倉幕府の嫌われ者・梶原景時とはどんな男だったのか?
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66人が弾劾する書状に連署
梶原景時は、これまでは源義経を陥れた悪役として描かれることが多かったが、『鎌倉殿の13人』ではクールで冷静沈着、主君に忠実な男として注目されている。
源頼朝からの信頼が厚く、2代鎌倉殿・頼家からも頼りにされていた。だが、1199(正治元)年10月末〜翌年正月20日の約3カ月のあいだに、アッという間に権力の座から陥落し、非業の死を遂げる。
この3カ月の推移を、『吾妻鏡』は次のように記す。
10月25日、御家人の結城朝光(ゆうき・ともみつ)が、武士は「二君に仕えず」と発言する。朝光は頼朝の家子(いえのこ / 親衛隊ともいえる側近。家子専一=筆頭が北条義時)だった。
これを、「頼朝には仕えるが、頼家には仕える気がない」と解釈したのが景時だ。
この発言を頼家に讒言(ざんげん / 告げ口)しようとしていると、北条政子の妹の阿波局が朝光の耳に入れる。阿波局は大河ドラマでは「実衣」の名で登場、7月17日の放送回で、実衣が朝光から琵琶(びわ)の手ほどきを受けるのは、この伏線だろう。
慌てた朝光から相談を受けた三浦義村は、これを機に景時を殺害してしまおうと策略を巡らし、御家人の和田義盛らを仲間に引き込んで景時を糾弾する弾劾状を作成。頼家に提出することを思いたった。
弾劾状の書面は、「鎌倉殿の13人」の1人である中原親能の家臣で文士官僚の中原仲業(なかはらのなかなり)が作成を快諾した。
彼らの動きは素早かった。「二君に仕えず」発言の3日後の28日には、鶴岡八幡宮の回廊で66人の御家人が弾劾状に署名。千葉常胤、三浦義澄、小山朝政、足立遠元、比企能員、八田知家、畠山重忠らもいた。
景時が御家人たちに、いかに嫌われていたかが分かる。
大江広元を介して、弾劾状を頼家に渡すことに決まったが、広元は景時に配慮し、保留の態度を示す。だが、結局は御家人たちに押し切られ、頼家に渡すことになる。主だった御家人が大勢で要望する案件だけに、やむを得ず頼家も景時を処分する他なかった。
11月13日、頼家の命によって景時は鎌倉を後にし、本領の相模国一宮(神奈川県高座郡の一宮=寒川神社のある地)に謹慎する。
12月9日、鎌倉で正式に景時追放が決定。
九条兼実の日記『玉葉』の1200(正治2)年正月2日条は、「恨みを買った景時が鎌倉を追放された」と記している。
こうなると、鎌倉から追討軍が攻めてくるのは明らかだった。
戦うか、逃げるか、景時に決断が迫られた。
教養も備えた文武両道の人材だった
そもそも景時を生んだ梶原氏は、東国に根づいた桓武平氏武士団「鎌倉党」の一族だ。
鎌倉党の最大勢力は大庭氏であり、景時も大庭景親の軍の一員として、1180(治承4)年の頼朝挙兵に対峙(たいじ)している。その際、石橋山の戦いで敗れた頼朝が山中に隠れているのを見逃す姿が、大河ドラマでも描かれた。
大庭の元を離脱し、頼朝に従ったのが同年末頃だった。『吾妻鏡』の1181(治承5)年正月11日条に、「平三景時、仰せによって初めて御前(頼朝)に参ず」とある。
弁説に優れた景時を頼朝は気に入り、即座に家臣に加えた。同年3月には、甲斐源氏の武田信義が頼朝に反抗しない趣旨の起請文を提出する際、三浦義澄らとともに同席している。2カ月のあいだに、頼朝側近の地位を築いたといえよう。
頼朝に従った当初は侍所所司(次官)だったが、1192(建久3)年に和田義盛に代わって別当(長官)にも就いている。また、木曾義仲と戦う源義経の軍に従った後、戦いの報告を詳細に行うなどする一方で、頼朝と即興で和歌を交わしたという。上総介広常を誅殺するなどの武功もあげた。
天台宗僧侶の慈円が著した『愚管抄』は、その文武両道を「鎌倉の本躰(ほんたい)の武士」と称賛しているほどだ。
藤原北家(ほっけ)支流の「徳大寺家へ出仕し、文筆にも優れていた」(『図説 鎌倉北条氏』野口実著 / 戎光祥出版)という。
「洗練された器量と教養は、質朴単純な東国武士のうちで、ことのほか目立った存在」(『歴史研究』2022.7月号『梶原景時の台頭と鎌倉党の没落』湯山学著/戎光祥出版)でもあった。
景時は御家人たちを監視するスパイの役割を担っていた。『吾妻鏡』は、頼朝が存命していた1187(文治3)年11月15日条に、畠山重忠が謀反を計画していると景時が鎌倉殿に告げ口した件を記録している。この時は事実無根であることが分かりトラブルに発展しなかったが、景時にはこうした行動があった。
このため、他の御家人からはすこぶる悪評。だが、さまざまな場面で役に立つ景時を頼朝はことさら重用した。それがまた、御家人の嫉妬にさらされるという悪循環を招いた。
頼朝に忠実で汚れ役をいとわなかった人物ともいえる。
草創期の鎌倉幕府は御家人の結束も弱く、不満も多かったろうから、景時のような人材は不可欠だったに違いない。
景時殺害を主導したのは誰なのか?
鎌倉から討伐軍が来ると予想した景時は急きょ、京都への上洛を選択する。
旧知の京都の公家を頼ろうとしたのか、西国の武士と合流して鎌倉と戦おうとしたかは、定かではない。
『吾妻鏡』正治2年正月28日条には、景時が甲斐源氏の一派と示し合わせ、鎮西(現在の九州)の武士団を糾合して鎌倉と一戦交えるつもりだったと記しているが、真偽はわからない。
だが、仮に挙兵計画があったにせよ、実現はかなわなかった。景時は京都に向かう途中、駿河国で在地武士たちと激しい戦闘に及び、討死にするのだ。
この戦いは、景時が郎党を率いて駿河を通過する際、同地の武士たちとの間で偶発的に起きたとする見方もあるが、景時が京都に向け出発したのと時を同じくして、北条時政、大江広元、三善康信が協議のうえ、討伐軍を鎌倉から派遣している。
軍の先頭には三浦義村、比企能員の嫡男らがいた。
山本みなみ氏は『史伝 北条義時』(小学館)で、義村を北条の関係者と見なした上で、「これは(比企)能員と(北条)時政が梶原氏追討に関与した痕跡」と分析している。
比企と北条にとって景時は共通の敵であり、追討に関しては利害が一致していたというわけだ。
一方、細川重男氏は『鎌倉幕府抗争史 御家人抗争の二十七年』(光文社新書)で、「(景時殺害の地)駿河守護が北条時政であったことから、時政が駿河武士たちを待ち伏せさせていたとする説がある。だが、景時を滅ぼしたのであれば大手柄であり、ことさら隠す必要はない。(中略)時政黒幕説には従い難い」と述べる。
野口実氏は『図説 鎌倉北条氏』で、「三浦義村、頼家の舅・比企能員らが積極的に動いており、事件の背後にはさまざまな対立や矛盾があったと考えられる」としている。
景時殺害の背景は、研究者のあいだでも見解が異なっている。
筆者は山本みなみ氏の見解を支持したい。大河ドラマでは描かれていないが、実は景時も頼家の乳母夫だった。
景時が乳母夫となったのがいつなのかは不明だが、比企能員の妻も頼家の乳母である。景時と比企は頼家を巡ってパワーゲームの渦中にあり、関係が悪化していたというのが山本説の根拠だ。そこに、景時の存在が目障りな北条が乗った―十分にあり得ることではないだろうか。
こうして、頼朝の信任を得ていた梶原景時が消えた。
生き残った一族はわずかにいたものの、梶原氏の復権はもはや不可能だった。
次に滅ぶのは誰か?
鎌倉の内紛はさらに続く。
バナー : 『本朝百将伝』に描かれた梶原景時/国立国会図書館所蔵
参考文献
- 鎌倉幕府抗争史 / 光文社新書
- 歴史研究2022.7月号 / 戎光祥出版
- 史伝 北条義時 / 小学館
- 図説 鎌倉北条氏 / 戎光祥出版