源頼朝の暗殺説はなぜ生まれたか?
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歴史学からみた頼朝の死
頼朝は暗殺された―このある種の陰謀論は、昔から大衆によって支持されてきた。古くは1695(元禄8)年に成立した『東鑑集要』に、
「頼朝の薨去(こうきょ/貴人が死去すること)を隠すと見へたり」
とあり、『吾妻鑑』が、何らかの理由で死を隠蔽しようとしたかのように、連想させる一文が見える。何らかの理由とは、=暗殺された。だから真相を隠した―そこからさらに黒幕は誰だ?といった憶測まで流れた。
だが、暗殺説はまったく根拠がない。鎌倉幕府について歴史家が著した関連書籍で、暗殺説を支持している本は、筆者が知る限り皆無である。
それらの一部から、頼朝の死の箇所を抜粋してみよう。
- 正治元年(1199)正月、その頼朝が死んだのである。(『頼朝の妻の父 近日の珍物か 北条時政』野口実 / ミネルヴァ書房
- 建久十年(1199)正月十三日、源頼朝が急逝した。政子の妹にあたる稲毛重成亡妻の追善のために相模川に架けた橋の供養に臨み、その帰途に落馬し、ほどなくして亡くなったという。(中略)詳細は不明である。(『史伝 北条政子』山本みなみ / NHK出版新書)
- さらに頼朝自身も建久十年一月に急死した。享年は五十三。(『鎌倉殿と執権北条氏』坂井孝一 / NHK出版新書)
- 頼朝は建久十年正月十一日に出家し、二日後の十三日に息を引き取った。(『源頼朝』元木泰雄 / 中公新書)
注)建久10年は4月に文治に改元しているので、著書には建久と文治が混在している。
いずれも頼朝の死については短く触れたのみ。その理由は、山本みなみ氏の著書からの引用にあるように、「詳細は不明」だからである。不明である以上、憶測で安易に「暗殺」などと断言できない。これが歴史学の立場である。
なお、頼朝が1199年1月13日に死んだと記しているのは、『猪隅関白記』(近衛家実著)、『明月記』(藤原定家著)、『愚管抄』(天台宗の僧侶・慈円著)など、いずれも京都の公家関係者の記録だ。
幕府正史の『吾妻鏡』には見当たらず、このことが後に述べるように、暗殺説という混乱を招く原因となる。
大衆は暗殺説を“創作”したがる
大衆はこう考える。
「断言できないなら、暗殺の可能性も“あったはずだ”」
このような大衆心理を、呉座勇一氏が『陰謀の日本史』(角川新書)で分析している。
- 単純明快でわかりやすい(ものに惹かれる)
- 状況証拠しかないのに、自分の思いだけで「きっとこうするだろう」「こうであったに違いない」など、憶測で話を作っていく(論理の飛躍)
- 歴史の真実を知っているという優越感
暗殺などの陰謀論は、得てしてこうした心理から作り出される。
呉座氏はこうもいう。
「本能寺の変や坂本龍馬暗殺などについて日本史学界は『ああいうので盛り上がるのは素人』という態度をとっている。(中略)専門家は陰謀論には近づかなくなる」
「ああいうの」とは、黒幕は誰だったのかなどの話を指す。史学と大衆心理の間には埋めがたい溝があり、その溝の底で、頼朝暗殺説も培われてきたと言っていい。
筆者は研究者ではないが、歴史ファン向けの雑誌を編集している関係上、読者から「頼朝は暗殺されたんでしょう? そうに決まっていますよ」とツッコミを入れられる。
そのたびに「うわさに過ぎません」と返すが、結局は説得をあきらめざるを得ない。
また、『吾妻鑑』には頼朝が死んだ1199年の箇所が欠損していることがよく知られているが、これを暗殺説の根拠に挙げる人も多い。
国立公文書館が所蔵する『吾妻鑑』は1590(天正18)年、小田原北条氏から黒田孝高(如水)に贈られ、のちに2代徳川将軍・秀忠に献上されたと伝わる写本で、現存する『吾妻鏡』としては良質な状態を保っている。
だが、第15巻が1195(建久6)年12月16日で終わると、第16巻は1199(建久10)年2月6日の条で、頼家に頼朝の跡を継ぐよう宣下があったという場面に、いきなり飛んでしまうのだ。
つまり、頼朝が死んだ1199年1月の記述はない。
なぜ、このような欠損が生じたかについても研究は進んでいるが、本稿で肝心なのは、死の詳細を記載しなかったのは知られてはいけない事件があったから―つまり、暗殺されたと疑う人々の「状況証拠」になってしまっていることだ。
さらに、『吾妻鏡』が頼朝の死に言及するのは1212(建暦2)年2月28日、実に13年後のことである。
ここで初めて、頼朝は落馬後に死亡したという記述が登場する。
ほとぼりが冷めた頃、こっそり記したに“違いない”と、これも暗殺説に体良く利用されてしまう。
視聴者は頼朝を殺してほしかった?
落馬に関しては、史料も諸説入り乱れている。
武家年表の『鎌倉大日記』によれば、相模川橋供養が行われたのは1198(建久9)年12月27日。となると、落馬した頼朝は御所に運ばれ、年が明けた1月13日に死んだということになるだろう。
また、『宝暦間記』は、義経や叔父の行家ら、頼朝が葬った源氏一門と、安徳天皇の亡霊が現れて頼朝を病に陥れ、それが原因で落馬したと記す。
似たような記載があるのが、『尊卑文脈』。供養に参加した帰路、落馬して病を得たことが原因としている。
近衛家実の日記『猪隅関白記』は、頼朝は「飲水病」(のみみずびょう)であったという。飲水病とは、やたらと喉が乾いて水を欲しがる症状のことで、糖尿病の合併症を指している。
これらの史料から導かれるキーワードは「病」。
むろん真相はやぶの中だが、死の原因は病気だった可能性が高いことを示唆しているだろう。
こんなことを言う人もいる。
頼朝は享年53。後白河法皇は66歳、平清盛は63歳まで生きた。
頼朝の出自である河内源氏も、処刑された父・義朝などを別にすれば、祖父や先祖には60歳近くまで生きたと伝わる者もいるのに、53歳は早すぎる。
関係者・近親者の死亡した年齢を並べて、若すぎる死の原因を「暗殺」と怪しむ。
『鎌倉殿の13人』の放送が開始されて以降、大泉洋が演じる頼朝は女性にだらしなく、自分本位で身勝手で、かつ弟たちを殺していった。その姿は、視聴者の「頼朝憎し」の感情を高揚させていった。
そこに、梶原善が扮する暗殺者・善児がにわかに脚光を浴びたことで、「頼朝は善児に殺される」から「殺されてほしい」「殺されるべき」と、ストーリーを自由に妄想する視聴者も少なくなかったようだ。
頼朝が善児に殺される展開など、あるはずがない。
一方、いざ頼朝が落馬すると、今度は「頼朝死なないで」と懇願する視聴者が急に増えた。この時点では、頼朝はまだ死んではいない。意識不明の状態で7月3日の放送回にも登場するはずだ。
果たして、最期はどう描かれるのか?
バナー写真 : 『前賢故実』の頼朝。江戸時代後期〜明治にかけて画家の菊池容斎が描いた。国立国会図書館所蔵
参考文献
- 『頼朝の妻の父 近日の珍物か 北条時政』野口実 / ミネルヴァ書房
- 『史伝 北条政子』山本みなみ / NHK出版新書
- 『鎌倉殿と執権北条氏』坂井孝一 / NHK出版新書
- 『源頼朝』元木泰雄 / 中公新書
- 『陰謀の日本史』呉座勇一 / 角川新書