伊豆修善寺 : 源範頼と頼家惨劇の痕跡を歩く
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北条とゆかり深い地・修善寺
「此の里に かなしきものの 二つあり 範頼の墓と頼家の墓」
1892(明治25)年、正岡子規は修善寺を訪れた際、こう詠んだ。
夏目漱石も、修善寺温泉に投宿した時、次の句を詠んでいる。
「範頼の 墓濡るゝらん 秋の雨」
範頼と頼家の2人が流された地・修善寺は、伊豆有数の観光地だ。
伊豆半島の北部にある。
伊豆は北条時政の本拠地だ。修善寺から約10キロメートル北の守山(現在の伊豆の国市)に館があった。義時の領地である江間(同)もほぼ同じ距離にあり、北条とゆかり深い地である。
地名は「修善寺」だが、同地にある古刹は「修禅寺」と表記し、どちらも「しゅぜんじ」と読む。この地名と寺の名、および北条の勢力圏だったことの2点を踏まえ、同地の歴史を簡単に見ていく。
そもそもこの地に寺院が開基されたのは807(大同2)年、創建したのは弘法大師空海とされる。つまり、真言宗の寺だった。
当初は周辺に流れる桂川にちなんで地名は「桂谷」、寺の名も「桂谷山寺」であったとの説がある。
現在も門前には、空海ゆかりの観光名所「独鈷(とっこ)の湯」がある。病で苦しむ父親の身体を、息子が川の水で洗っていたのを見た空海は、水では冷たかろうと煩悩を打ち砕くという仏具の独鈷杵(とっこしょ)で岩を打った。すると温泉が湧き出たという伝説が起源だ。
寺はその後、建治年間(1275〜1278)に中国・宗からの渡来僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう/鎌倉・長建寺を開山)によって臨済宗に改宗する。蘭渓は鎌倉幕府第5代執権・北条時頼(義時のひ孫)が帰依した僧である。
さらに1489(延徳元)年には、今度は曹洞宗に改宗する。後北条氏の祖・伊勢宗瑞(いせ・そうずい/後の北条早雲)が禅師・隆渓繁紹(りゅうけいはんしょう)を招いたのだ。
上記の過程のどこかの時点で、寺は「修善寺」と呼ばれるようになった。正確な時期は不明だが、一般には鎌倉時代初期とされる。『鎌倉殿の13人』では、時政・義時の時代の寺の名は修善寺であり、「善」が「禅」に置きかわり、地名が「修善寺」、寺は「修禅寺」となったのは禅宗が全国に普及してから後という説をとっている(『NHK大河ドラマ・ガイド 鎌倉殿の13人 後編』)
幕府と北条は、禅宗と関わり深い。前述の蘭渓道隆と時頼の関係以前にも、臨済宗の開祖・栄西が鎌倉に下向し、頼朝が死んだ1199(正治元)年には不動尊供養の導師を務めた。その後も政子・時政と栄西は深くつながっている。栄西の建仁寺(京都)創建を支援したのも2代鎌倉殿の頼家だ。
つまり、この頃からすでに北条と臨済宗のコネクションは強く、修善寺は北条と禅宗の影響下にあったと考えていい。
なお以下、一部の例外を除き、地名も寺の名前も原則として「修善寺」と表記する。
範頼の暗殺には不明な点も多い
源範頼の配流先が、なぜ修善寺だったかは分からない。だが、後に頼朝嫡男・頼家もこの地に流されたことから見て、鎌倉幕府が「幽閉の地」としていた可能性はある。
推測に過ぎないが、範頼や頼家を遠隔地に幽閉すると、監視が行き届かないデメリットが生じたからではないだろうか。
北条は、頼朝が京都から遠く離れた伊豆に流されたことで、監視の目を巧みにかいくぐった事実を目の当たりにしている。そうしたことを避けるため、あえて目の届く範囲に幽閉したとも考えられるだろう。
範頼の配流が決定したのは1193(建久4)年8月17日、すぐに修善寺へ連行された。いきさつは、『宝暦間記』に記されている。それによると、曽我兄弟の頼朝暗殺未遂の際、範頼と北条政子の元に「頼朝死す」との誤報が届く。範頼はそれを鵜のみにし、自分が鎌倉殿の後継となれば幕府は安泰と述べ、頼朝はこの言動を謀叛の心ありと受けとった。
また『吾妻鏡』は、範頼が「謀叛を起こす気はない」と弁明する起請文を差し出したと記すが、頼朝の嫌疑は晴れなかった
幽閉された後の範頼の消息は不明だが、殺害されたというのが定説だ(明確に死を記した史料がないため、落ちのびたという眉唾な異説も、あるにはある)。
修善寺には幽閉地と墓の伝承がある。
幽閉地は修禅寺八塔司(はったす / 禅宗における寺内寺院)の一つだった信功院で、跡地は現在、修禅寺から徒歩1分の日枝神社にある。
境内には範頼の庚申塔も立ち、解説板は「梶原景時五百騎の不意打ちにあい防戦の末自害」と記し、ここでは景時が殺害したとの説をとっている。
一方、墓は修禅寺の門前通りである修善寺戸田線を西へ300メートルほど歩き、山側に入って急峻な坂を100メートルほど登った場所に立つ。
もともとは範頼の墓と伝わる祠(ほこら)が近隣にあった。そこから1879(明治12)年に骨壺が発掘され、範頼が没した地との伝承を裏づけるとして、1932(昭和7)年に新しく墓が立てられ、現在に至る。
南雲正朗氏著『修善寺より 歴史と風土』(角川書店)はこの祠について、「古い文書に『石祠は八幡宮と称し八月十五日にお祭りする。鎌倉をはばかって八幡に擬祭した』」と記している。
鎌倉から見れば謀叛人のため、公に祀ることができず、修善寺の民は「八幡様」に擬装し、秘かにその死を悼んだという。
墓の周囲に民家はあるものの、人影はない。山腹にあるカフェで話を聞くと、大河ドラマの影響で観光客は増えたものの、普段は訪れる人はまれだという。
源頼朝の弟として源平合戦を戦い抜いた武将の墓にしては、あまりにわびしく、寂寥感に満ちている。
政子が建てた頼家鎮魂の経堂
『鎌倉殿の13人』では今後、2代鎌倉殿・頼家の悲劇も描かれるだろう。頼家の死については本シリーズ『「鎌倉殿の13人」が問う合議制の難題』で触れた。
頼家の墓は、範頼の墓と桂川を挟んで反対の鹿山の麓にある。修善寺の名所・竹林の小径にほど近いが、少し外れているので、普段はやはり寂しい場所だ。
土産ショップと雑貨店の間にある路地に入り、石畳を歩く。その先の階段を昇ると、横死した息子のために政子が寄進した経堂・指月殿(しげつでん)に出る。
伊豆で最古の木造建築物といわれ、小さいながらも風格あるお堂だ。堂内に釈迦如来坐像が鎮座している。
指月殿に向かって左に歩を進めると、頼家の墓がある。正面に供養塔があり、その裏に小さな五輪石塔が2基。五輪塔が墓で、供養塔は1704(元禄16)年、当時の修禅寺住職が500回忌にあたって建てたと伝わっている。
範頼の墓と比べると立地的に便のいい場所ゆえ今は観光客も多く、墓の奥まで土足で入り写真撮影する者もいるらしい。
すぐ脇に、幽閉中の頼家を支えた13人の家臣たちの墓も立つ。頼家暗殺の6日後、一斉に殺害されたという。実際に13人が殺されたかは不明で、民間信仰として全国にある「十三塚」の一例との説もある。
毎年7月、頼家と13人の家臣、頼家の妻・若狭の局、2人の間にできた子・一幡に扮(ふん)した人々が行列を組んで歩く「修禅寺頼家祭り」が開催され、頼家の墓に参る。町おこしの一環だが、今も同地で親しまれていることを思わせる。
修善寺は頼朝の血を引く2人の殺害という血塗られた歴史を持つ、痛ましい地でもある。『鎌倉殿の13人』はエンタテインメントであると同時に、令和を生きる者にその悲劇を伝えている。
参考文献
- 静岡県民も知らない地名の謎(PHP文庫)
- 静岡県の歴史散歩(山川出版社)
- 重源と栄西(山川出版社)
- 修善寺より 歴史と風土(角川書店 / 絶版)
バナー写真 : 源範頼の墓。民家の間を縫うように歩くと出会う。小高い丘に立つため眺望はいいが、人影はない (撮影 : 小林明)