源平の残像とニッポン

源義経:壇ノ浦の戦いと腰越状の真実

歴史 エンタメ

寿永4(元暦2/1185)年3月24日、壇ノ浦の合戦での勝利を源義経の絶頂期とすれば、同年5月、鎌倉入りを兄・頼朝に許されず腰越に留め置かれたとされる一件は、没落の始まりだった。わずか2カ月の間に起きた栄光と挫折—。そして、壇ノ浦と腰越はさまざまな伝説と虚構を生んだ。現在、この2つの出来事はどこまで真相究明が進んでいるのだろう。

潮の流れは戦況には影響なかった

壇ノ浦の戦いは、伝説と史実が交錯した一戦だ。

伝説は義経の八艘飛びをはじめ、平時子が幼き安徳天皇にかけた最期の言葉、「波の下にも都のさぶらふぞ」(海の底にも都はございます)など。史実はこの一戦で平家が滅亡し、三種の神器のうち宝剣が失われ、生き残った平家の者は棟梁の宗盛をはじめ生け捕りにされたこと―などである。

また戦況については、関門海峡の潮の流れが勝敗を分ける要因となった、さらに義経が非戦闘員である水手(かこ/水夫)や舵取(かんどり/操縦する者)を矢で射殺す掟破りの戦法を用いたなど、さまざまな説が入り乱れている。

そもそも約800年前の戦を正確に知る由もないのだが、真相を知りたいという歴史ファンは今なお多い。それはとりもなおさず、この戦いが源平合戦のクライマックスだからだ。

ここでは、まず戦況を見ていこう。

明治〜戦前の歴史家・黒板勝美氏が提唱した、潮流の変化が戦いの趨勢を決したとする説が有名である。

この説は、『平家物語』に基づく。壇ノ浦には海上東に義経率いる源氏軍、西に平家軍の船があったが、「門司、赤間、壇ノ浦はたぎりて落つる塩(潮)なれば」とあるように、潮の流れが速く方向も安定しなかった。

黒板氏は著書『義経伝』(昭和14年)で、壇ノ浦の潮流は午前11時頃、最も激しく西→東にあり平家に有利だったが、次第に緩流となり、午後3時頃から東→西へと向きが変わり、3時40分には最も激しくなったと論じた。義経はそのことを事前に知っていて、潮流が変化すると一気に逆襲に転じたとの見解を示したのである。

しかし、これは今やほぼ否定されている。

国学院大学栃木短期大学教授の菱沼一憲氏は、山口県の研究家・中本静暁氏著『元暦二年三月二十四日の壇ノ浦の潮流について』で示された推定データに基づき、

「合戦が本格化したのは1ノット程のゆるい東流(流れは西→東)となり、合戦の終了する午後4時頃は1ノット程の西流(東→西)であるらしい」

と指摘している(『源義経の合戦と戦略』角川選書)。

1ノットは、時速1.852km。1時間に約1.8kmしか進まない程度の潮流であり、黒板氏が論じた「最も激しく」とは違う。戦況の変化に大きく影響したとは考えにくい。
海洋・船舶史の立場から同様の指摘もある。

壇ノ浦の戦い当日の正午から16時の戦況を簡略化した地図。潮流は東から西へと緩やかに流れていたが、源氏の船に勢いをつけるほどのスピードではなかったと考えられる。地図作成/アトリエ・プラン
壇ノ浦の戦い当日の正午から午後4時の戦況を簡略化した地図。潮流は西から東へと緩やかに流れていたが、源氏の船の勢いを妨げるほどのスピードではなかったと考えられる。地図作成 / アトリエ・プラン

戦闘が行われた時間帯も重要だ。諸説あるが、

  • 公卿・九条兼実(くじょう・かねざね)の日記『玉葉』は「午正(うまのしょう/正午)から晡時(ほじ/申の刻=午後4時)」
  • 『吾妻鏡』は「午剋(うまのこく/午前11時~午後1時頃)におよびて平家敗績(負けた)」と記すのみ
  • 『平家物語』は時間の推移にほとんど言及していない。

この中で『玉葉』の時間帯は、後白河法皇のもとに義経が「飛脚を以て申し上げ」たものである。義経が法皇に報せ、その報せを法皇が兼実に伝えたわけで、最も信頼できると菱沼氏はいう。

戦闘は正午から午後4時頃だった可能性が高い。これを前出の中本説と照合すると、潮の流れは一貫して西→東にあり、源氏にとってはむしろ不利だったが、1ノット程度の速さのため、大した影響はなかった―と、そう結論付けていいのではないだろうか。

源氏の水軍戦力は平家を上回っていた

水手・舵取の殺害に関しても、影響は小さかったと見る研究者は多く、今では一般的になりつつある。反則といわれたこの行為を義経が行ったなら、平家も同じように応戦したはず―と、海事史家の金指正三氏が1980(昭和55)年にすでに指摘しているのだ。
つまり、これも勝敗を分けた決定打にはなり得ない。前出の菱沼氏も、この説を支持している。

京都大学名誉教授の元木泰雄氏はやや異なるものの、「平氏側の船に乗り移った源氏側の武将が、勢い余って邪魔な乗組員を殺害したもので、当初から非戦闘員を狙った義経の卑怯な作戦というわけではない」との見解を示している(『源義経』吉川弘文館)。

では、源氏の勝因は何だったのか―それは、単純に戦力の差だろう。
参考までに諸説ある壇ノ浦の両軍戦力(船の数)を一覧表にまとめた。

壇ノ浦の戦いの両軍戦力の諸説

史料 源氏(艘) 平家(艘)
吾妻鏡 840余 500余
平家物語(延慶本) 3000余 700余
平家物語(覚一本) 3000余+熊野水軍など350余  1000余
源平盛衰記 700余 500余

出所 : 各種資料をもとに筆者作成 / 数字は概数

義経は決戦に備え、着々と水軍を増強していた。紀伊(現在の和歌山県)の熊野水軍や瀬戸内海の渡辺党、伊予(現在の愛媛県)の河野水軍などである。

熊野水軍には、源氏と平家のどちらに与(くみ)するかを紅白の闘鶏によって占い、白が勝ったので源氏に付いたという言い伝えもある。だが、実は源頼朝の挙兵(治承4年8月)と歩調を合わせるように、反平家の立場を打ち出し兵を挙げている。平家旗色悪しと見て、事前に平家から離反していたのである。

さらに『平家物語』『源平盛衰記』は、平家方だった阿波(現在の徳島県)の民部大夫成良(みんぶだゆう・しげよし)が戦いの最中に突然、源氏に寝返ったのも大きかったと記しているが、屋島の戦い以降、四国はすでに源氏の支配下にあったのだから、内部崩壊の兆しも顕在化していたろう。

平家は、一ノ谷、屋島の敗戦後、壇ノ浦に追い詰められ内部崩壊も起きていた。武器なども海上をさまよっていて補給が十分でなかったはずで、壇ノ浦の合戦当日は早々に矢も尽きたのではないだろうか。

一方の義経は水軍を取り込み、平家の内部崩壊を待つなど、周到な準備を怠らなかった。閃き(ひらめき)で動く天才軍事家というのはあくまでイメージであり、入念に作戦を練り上げていたのではなかろうか。開戦前、平家の敗北はすでに決まっていたといえよう。

腰越状は「偽作」か?

平家を滅ぼし意気揚々と京都に凱旋した義経は、捕虜となった平宗盛を移送するため鎌倉へ下向する。だが鎌倉入り直前、頼朝に不興を買っていることを知り、弁明の書状を出す。世にいう腰越状である。

不興を買った理由は、

  • 梶原景時が義経の独断専行を頼朝に讒言(ざんげん=告げ口)していた
  • 頼朝の許可なく後白河法皇から検非違使の官職を受けた
  • 三種の神器のうち宝剣の奪還に失敗

などと伝わっている。

壇ノ浦の戦いを控え、先陣争いを巡って義経と梶原景時が同士討ちしそうになる場面。右から4人目の赤い甲冑が義経で、三浦義澄が止めている。景時は左から4人目の後ろ姿の人物。その前に土肥実平が割って入っている。『奈良絵本 平家物語』巻十一/明星大学図書館所蔵
壇ノ浦の戦いを控え、先陣争いを巡って義経と梶原景時が同士討ちしそうになる場面。右から4人目の赤い甲冑が義経で、三浦義澄が止めている。景時は左から4人目の後ろ姿の人物。その前に土肥実平が割って入っている。『奈良絵本 平家物語』巻十一/明星大学図書館所蔵

平宗盛・清宗の父子を移送して鎌倉に向かった義経だったが、腰越で鎌倉が派遣した軍に行く手を遮られた。この後、義経は頼朝に書状を出す。『奈良絵本 平家物語』巻十一/明星大学図書館所蔵
平宗盛・清宗の父子を移送して鎌倉に向かった義経だったが、腰越で鎌倉が派遣した軍に行く手を遮られた。この後、義経は頼朝に書状を出す。『奈良絵本 平家物語』巻十一/明星大学図書館所蔵

だが、腰越状はかえって頼朝の怒りを増幅させる結果となり、京都へ戻ることを余儀なくされる。「関東に怨みをなす者は義経に属すべし」と捨て台詞を残したと、『吾妻鏡』は記す。

さて、問題は腰越状である。この書状の真偽は定まらないが、「偽作説」を支持するのは元木泰雄氏だ。その理由として、上記の頼朝の不興について一切触れず、ただ自分の生い立ちや戦の苦労話を並べるだけで、何ら弁明になっていない「あまりに能天気な書き方」(『源義経』吉川弘文館)であり、義経の考えを書面にしたものとしては不可解としている。

腰越状について詳細に触れているのが『吾妻鏡』という点も、注意が必要だ。

「芳免(ほうめん)に預かれば、積善の余慶(よけい)を家門に及ぼし、永く栄花(えいが)を子孫に伝えん」

腰越状の一部だ。逆にいえば、「オレを許さないと子孫は安泰じゃないぞ」というわけだ。このことは、頼朝の血が3代で途絶えるのを示唆していると元木氏。『吾妻鏡』の編者は、源氏断絶後に鎌倉を支配した北条氏だ。まるで源氏が途絶えたのは頼朝が冷酷だったためで、それゆえ北条が執権として指揮しているとでも言いたげなのだ。

腰越状には複数の写しがあり、これは明治3(1870)年に出版された『初学古状揃万宝蔵』(しょがくこじょうそろえばんぽうぐら)から。最も有名なのは満福寺(神奈川県鎌倉市腰越)に保管されているもので、こちらは弁慶が下書きしたと伝わっている。国立国会図書館所蔵
腰越状には複数の写しがあり、これは明治3(1870)年に出版された『初学古状揃万宝蔵』(しょがくこじょうそろえばんぽうぐら)から。最も有名なのは満福寺(神奈川県鎌倉市腰越)に保管されているもので、こちらは弁慶が下書きしたと伝わっている。国立国会図書館所蔵

検非違使と伊予守の兼任はNG

一方の検非違使の任官について菱沼一憲氏は、「頼朝の同意を得た、またはその意思を含んだ処置であった可能性が高い」(『源義経の合戦と戦略』)との説を展開し、歴史家の呉座勇一氏も、「(任官は)頼朝側近の大江広元の協力が確認される」(『陰謀の日本中世史』角川新書)との見解を示している。

頼朝がことさら任官を問題視していたとは、言い難いとする研究も進んでいるのである。

また、注目すべきなのは検非違使任官後、頼朝が義経を「伊予守」に推薦している点だろう。元木泰雄氏は、伊予守は当時、播磨守と並ぶ最高峰の受領(ずりょう/国守のこと)だったと指摘。頼朝は義経の功をきちんと評価し、高い恩賞を受けられるよう働きかけているのである。

ただし、伊予守への任官は検非違使を辞任することが前提だった。受領と検非違使は慣例上、同時に就けなかったからだ。

頼朝は当然、検非違使を辞めると思っていたはずだが、義経はこの慣例を破る。後白河法皇が許可したとしか考えられない。

元木氏は、頼朝が問題視したのは検非違使への「就任」ではなく、この「留任」だったという。検非違使より上位の官職を用意したにも関わらず、義経は二兎を追ってしまった。これでは法皇と癒着していると見られても仕方ない。

残った懸念―宝剣の喪失は頼朝にとって想定外だったろうが、両者決裂の決定打は、「検非違使留任」―そうであるなら、腰越状はまったく的外れの問題をツラツラと書き連ねていることになる。

いかにも判官贔屓(ほうがんびいき/義経への同情)を引き起こすために、後世に創作したかのような書状なのである。

なお、義経は腰越に足止めされて頼朝と対面できなかったというが、『平家物語』で最も古い成立とされる『延慶本』は、両者が対面を果たしたことを記している。もっとも頼朝の態度が冷淡であったため、義経は落胆し京都へ帰還する。

いずれにせよ、対立は不可避となった。

最後に、頼朝が義経を遠ざけたのはなぜだったか、1つの説についても触れておきたい。
義経は平家討伐にあたり西国諸国、特に水軍とのパイプを強めた。彼らを主力として率い平家を滅ぼしたことによって、東国御家人たちは自らの存在価値が低くなることに危機感と不満を持ったのではなかろうか。

それは、頼朝には看過できなかったかもしれない。

[参考文献]

  • 『源義経の合戦と戦略』菱沼一憲(角川選書)
  • 『源義経』元木泰雄(吉川弘文館)
  • 『陰謀の日本中世史』呉座勇一(角川新書)

バナー画像 : 天保年間(1830〜1844年)制作と推定される壇ノ浦の戦いの錦絵。右上部、洋上を飛び越えているのが義経。伝説の八艘飛びを描いている。『源平壇浦大合戦之図』東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

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