頼朝の恐妻・北条政子が起こした亀の前事件
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頼朝に寵愛された謎の女・亀の前
亀の前は、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では「亀」の名で登場する。演じているのは江口のりこさんだ。ドラマでは、頼朝が石橋山の合戦(治承4 / 1180年)に敗れて安房国(現在の千葉県南部)に逃れた際に同地で見初めた女性で、夫を持つ人妻という設定だった。
一方、鎌倉幕府の史書『吾妻鏡』では、亀の前は寿永元(1182)年6月1日条に初登場し、良橋太郎入道(よしばしのたろうにゅうどう)の娘とされている。良橋太郎入道の詳細は不明だが、「入道」は在家僧、「良橋」は地名と考えられる。
となると、下総国(現在の千葉県北部と茨城県西部)にあった「吉橋郷」が候補の1つにはなるだろう。そこで、千葉県で頼朝と出会う設定にしたのかもしれない。
また、『吾妻鏡』はこう記す。
「自豆州御旅居奉昵近(中略)去春之比御密通」
豆州(ずしゅう / 伊豆)に御旅居(ごりょきょ / 御所のこと。この場合は御所に住む人物、つまり頼朝を指す)がいた頃からの昵近(じっきん / 側にいる)であり、寿永元年の春から密通していた。
頼朝とのなれ初めは、史料ではこのように記されるだけだ。つまり、出自など正体は判然としない女性といっていい。
どのような素性であるにせよ、寿永元年の時点で、頼朝が彼女を妾(しょう)として寵愛していたことは事実らしい。もちろん政子は知らなかった。
亀の前の隠れ家を襲撃させて破壊
亀の前の存在を政子が知るのは、同年11月10日。
「此間御寵女(亀前)住于伏見冠者廣綱飯嶋家也而此事露顕」(『吾妻鏡』11月10日条)
亀の前は、頼朝の右筆(公式文書を作成する文官)伏見冠者広綱(ふしみのかじゃひろつな)の屋敷にかくまわれていた。だが、このことが政子に露顕、つまりバレた。
政子に告げ口したのは、北条時政の後妻で政子の義母にあたる牧の方だった。ドラマでは「りく」と呼ばれ、宮沢りえさんが演じている。
都育ちの牧の方は、京都では正室が妾に対して「後妻打ち」(うわなりうち)という制裁を加えることがあると話す。そこで政子は、牧の方の父(ドラマの設定では兄)の牧宗親(まきのむねちか)に指示し、伏見冠者広綱の屋敷を襲撃させ、家屋・家財道具を徹底的に破壊してしまった。ここまで苛烈(かれつ)な後妻打ちは、京都では例がなかったようだ。
亀の前は逃げ出し、別の人物の家に隠れた。愛妾への暴挙を知った頼朝は、烈火のごとく怒ったが、御台所の政子に罪を負わせるわけにいかない。
その結果、実行犯の牧宗親がお仕置きを受ける。頼朝は公衆の面前で宗親を叱りつけ、なんと髻(もとどり / まげの頭頂部分)を切り取ってしまう。
『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』(朝日新書)の著者・細川重男氏が同著で解説するこの場面が、面白いので引用したい。
まず、『吾妻鏡』の記述。
「奉重御臺所事者尤神妙但雖順彼御命如事者内々盍告申哉」
次に細川氏による書き下し文。
「御台を重んじたのは結構なことだ。だけど、御台の命令に従うといっても、こういう時はまずこっそりオレに知らせろよ」
妻に浮気が発覚したなら、まず自分に知らせるのが筋だろというわけだ。古今東西、女癖の悪い男はどうして、かくも身勝手なのか。
一方、妻の父・宗親を辱められた時政は、頼朝に対して怒り心頭だった。時政は無断で鎌倉を離れ、領地の伊豆へ戻ってしまう。頼朝を見限ったといっていい。
慌てふためいた頼朝は、すぐに時政の子・義時の動向を見に行かせた。
義時は父に同調せず、鎌倉に留まっていた。義時に対する頼朝の信任は、これによってさらにあつくなった。
これが亀の前事件の顛末(てんまつ)である。
都育ちの頼朝と伊豆育ちの政子の違い
事件を通じて分かるのは、頼朝は女好きであり、対する政子は嫉妬深い激情型ということ。そして、頼朝は政子のそうした性格を知っていながら、女癖が治らない。都生まれの貴種(高貴な家柄)・頼朝からすれば、妾を持つなど当たり前だったからだ。
だが、伊豆で育った田舎娘の政子は、夫が妾を囲うなど許せない。
大河ドラマの時代考証を担当する坂井孝一氏は『鎌倉殿と執権北条氏』(NHK出版新書)で、「(北条)時政クラスの坂東武士がいちどきに複数の妻を持つことはなかった」と指摘している。時政を父に持つ政子には、頼朝の女好きは度を越えていると映ったのだろう。
さらに、政子が頼朝の嫡男・頼家を出産したのは同年8月12日だ。ということは、頼朝は妻の妊娠中に亀の前と関係を結んでいたことになる。気性の荒い政子の導火線に火が点いたのもうなづける。
事件に関わった者も、誰もが頼朝より政子の悋気(りんき / 嫉妬)を怖れていた。頼朝は懲りずに浮気を繰り返し、頼家の4つ下には御所の侍女に産ませた男児・貞暁(じょうぎょう)がいた。貞暁が7歳になった建久3(1192)年に乳母を決める際、政子の嫉妬を怖れてことごとく辞退され、人選に苦慮している。
時は鎌倉時代初期である。頼朝は当時の軍事貴族の当然の習わしとして妾を持っただけなのに、妻・政子が常軌を逸した振る舞いをしたのだ。
恐妻・政子、ここにありといえるだろう。頼朝は妻をコントロールできず、周囲は政子を恐れた。そして、政子の恐妻ぶりはその後、さらに増幅し、猛女・悪妻といった評価につながっていく。
しかし、近年は単なる恐妻と論じることもできない。
『北条政子〜尼将軍の時代』(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー)の著者・野村育世氏は、新聞社のインタビューにこう答えている。
「頼朝が存命中は頼朝と御家人をつなぎ、戦乱の中で残された女性を保護するなど、政子は幕府運営に関わりました。頼朝没後は家長権を行使する後家として表舞台に登場。武士を支配し、一つの政権としてまとめていく。彼女は『将軍』だったのです」(朝日新聞DIGITAL 2022.3.20)
『吾妻鏡』は3代将軍・源実朝が死去してから6年間、政子を鎌倉殿、つまり将軍と明記している。
将軍を恐妻・悪女として描く意図など、あろうがはずない。亀の前事件をあえて記したのは、むしろ後妻打ちは道理にかなっていて、後の尼将軍・政子の正当性を主張するためだったと見るのが妥当だ。
亀の前事件は、決して政子をおとしめるために記録されたわけではないだろう。今後、政子=恐妻のイメージは変わっていくかもしれない。
バナー写真 : 鎌倉市の安養院に所蔵されている政子像。頼朝の死後に出家した姿。(c)TOMOMI SAITO/SEBUN PHOTO/amanaimages