源頼朝の肖像画 : 「教科書で見た頼朝像は別人」説を追った
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神護寺と頼朝像の関係
およそ40歳代以上の日本人が「源頼朝」と聞いて思い浮かべる肖像画が、「実は、頼朝ではない」として、書籍や雑誌が掲載を見送るようになっている。掲載する場合も、「伝源頼朝」と「伝」を付ける。「伝」とは、頼朝像と「伝わって」はいるが、定かではないという意味だ。
一般書籍でさえそうなのだから、学校教科書からはほぼ消え、代わりに甲斐善光寺(山梨県甲府市)所蔵の木造の頼朝坐像を掲載している。
そもそも「伝源頼朝像」と呼ばれる肖像画は、京都・高雄山神護寺(たかおさんじんごじ)の寺宝だ。同寺のウェブサイトには、こうある。
「建久三年後白河法皇崩御の後、その室内に掛けられていたのが有名な似絵である。『神護寺略記』によれば、中央に後白河法皇像、これに対して左右に源頼朝像、平重盛像、下座に平業房像、藤原光能像が、いずれも視線を法皇に向き、お仕えする形にされていた」
後白河法皇に対座した形で掛かっていたのが頼朝像である—と。
平重盛(たいらの・しげもり)像、藤原光能(ふじわらの・みつよし)像と合わせて「神護寺三像」と呼ばれ、国宝にも指定されている名高き肖像画だ。
神護寺について少し触れておこう。
同寺は天長元(824)年開基と伝わる古刹(こさつ)だが、平安時代末期には荒廃していた。それを再興したのが文覚(もんがく)である。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、市川猿之助さんが胡散臭い怪増として演じているが、歴史上の文覚は「高雄の聖」とも呼ばれ多くの弟子も育成した。
現在までのところ、ドラマでは源頼朝と折り合いが悪いが、次第にブレーンとして重用され、出番も増えるだろう。後白河法皇(演じるのは西田敏行さん)の庇護も受け、神護寺を再興する。法皇と頼朝の肖像画が所蔵されているのは、文覚と関係が深いゆえである。
「頼朝の肖像画」と伝わるものは、現在までのところ神護寺の画と、それを模写したと考えられるものしかなく、他に確認されていない。
「頼朝ではない説」を主張した美術史家
神護寺の頼朝像が「どうも別人を描いたものらしい」ということは、1980年代後半からささやかれていた。それまで頼朝像は歌人であり画家でもあった藤原隆信が鎌倉時代初期の12世紀末までに描いたと伝わっていたが、主に美術史の視点から、隆信が没した元久2(1205)年よりも後の13世紀に完成した作品ではないかという疑念が噴出していたという。
さらに1995年、美術史学者・米倉迪夫(よねくら・みちお)氏が「頼朝像は足利直義(あしかが・ただよし)である」というセンセーショナルな新説を発表し、大議論が巻き起こる。
米倉氏の新説は『源頼朝像 沈黙の肖像画』(平凡社 / バナー写真の左の書籍)に所収されている。ここで氏は画風、描かれた題材、彩色技法等を詳細に分析し、冠が鎌倉時代末期以降のものであることや、太刀が13~14世紀のものであるなどを根拠に、頼朝より後の時代の人物と主張したのである。
そして、描かれた人物は室町幕府の創始者・足利尊氏の実弟・直義であるとの結論に達した。
その根拠として、康永4(1345)年4月付の直義の文書(東山御文庫所蔵)に、「神護寺に2つの画を奉納した」と記されている点に着目。
直義の文書を要約すると、こうなる。
「足利氏は累代、神護寺を帰敬(きけい / 尊敬し信じる)してきた。そこで、兄の征夷大将軍・尊氏と自分の画を描いて奉納安置する」
つまり、前述した後白河法皇の左右に控える肖像は頼朝と平重盛ではなく、足利尊氏・直義の兄弟である可能性が高いというのである。
大英博物館の頼朝像画賛は明治時代に付け加えた?
米倉氏の新説を「論証にいささか問題は残るものの」と注釈を入れつつ、やはり頼朝像とは考えられない—と、歴史研究家の立場から論じたのが、上横手雅敬(うわよこて・まさたか)氏だった。
神護寺の肖像を「本人」とする根拠となっていたのは、実は、英国の大英博物館が所蔵する頼朝像だった。
大英博物館の頼朝像は神護寺のものを模写したと考えられており、しかも「征夷大将軍源頼朝云々」という画賛(絵に書き添えた文章など。描かれた人物の事績などをたたえる内容が多い)まで記している。
模写が「頼朝」と画賛しているのだから、本家の神護寺も頼朝だ—模写を根拠にするという、考えてみれば乱暴な理屈を、上横手氏は著書『権力と仏教の中世史』(法藏館 / バナーの右の書籍)「源頼朝像をめぐって」の章で、真っ向から否定したのである。
画賛は、頼朝の挙兵を「養和元(1181)年」と記しているが、実際の挙兵は治承4(1180)年だ。これは明らかな誤りであり、ケアレスミス。
また「征夷大将軍」と記しているが、当時の呼称は「右大将」であったことを指摘。
結論として、画賛は「明治以降に作られた文章という印象を受ける」とした。
つまり、制作年代すら不確かな模写に後から画賛を付け加えたのが英国にある頼朝像というわけだ。それを根拠としてきた説は、足下がぐらぐらと揺らぐことになった。
さらに『神護寺略記』に記された肖像、つまり頼朝と平重盛について、「伝重盛、伝頼朝等とは別のものであり、『略記』所載の諸画像は現存しない」と結論づける。こうして、歴史家からも重要な疑問が呈された結果、「頼朝である」との説はほぼ崩れ去ることになったのである。
神護寺はこれらの説に強く反論している。
特に前者の米倉説には辛辣で、米倉氏とは別の美術史家や有識故実専門家らの主張を引用し、「像主は頼朝の可能性が高い」と譲らない。
容認できないのも無理はない。何しろ国宝指定の画なのだ。
だが反論もむなしく、今や「頼朝ではない」とする説を支持する人々が、大勢を占めている。
通説や常識を疑う—これは歴史に限らず、どんなジャンルでも知的欲求の第一歩だろう。しかし、昭和世代にとっては、慣れ親しんだ肖像画が別人であるということがショックでないと言えばうそになる。
ショックといえば、鎌倉幕府の成立を「いい国つくろう=1192年」の語呂合わせで覚えたものだが、いまやこれも崩壊し、1185年成立が主流だ。1185年は、頼朝が軍事・行政官である守護、税を徴収する権利を持つ地頭を任命する権利を朝廷から得た年であり、このときに幕府は実質的に成立したとするもの。
このように変遷する歴史観に、大河ドラマがどう呼応していくかも、これからの見どころといっていいかもしれない。
バナー : 肖像画は頼朝ではない説を展開し、歴史を揺り動かす契機となった2冊。(左)『源頼朝像 沈黙の肖像画』(平凡社) / 『権力と仏教の中世史』(法藏館)