「鎌倉殿の13人」が問う合議制の難題
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2代将軍・源頼家と頼朝の宿老たち
鎌倉幕府の創始者である源頼朝は建久10(1199)年1月13日、落馬が原因で死去したと伝わる。53歳だった。突然の死だったため、暗殺説も取りざたされたが、明確な根拠はなく、何かしらの疾患が引き金となって落馬したのではないかと見られている。
後継者は頼朝の嫡男・頼家となった。当時18歳。
頼家はすでに建久6(1195)年、頼朝とともに上洛し朝廷に参内しており、次期将軍としてのお披露目を済ませていたので、世襲は既定路線だった。
ところが、頼朝死去のわずか3カ月後の建久10年4月12日、鎌倉幕府は有力者たちによる集団指導体制「13人の合議制」を導入するのである。
13人の合議制・構成員
北条時政 | 伊豆・駿河・遠江守護、頼家祖父 |
梶原景時 | 侍所所司、侍所別当、播磨・美作守護(待所=軍事・警察、御家人を統括 所司=次官 / 別当=長官) |
足立遠元 | 公文所寄人(公文所=一般政務・財務を統括 、寄人=職員) |
安達盛長 | 三河守護 |
八田知家 | 常陸守護 |
比企能員 | 信濃・上野守護、頼家岳父 |
三浦義澄 | 相模守護 |
和田義盛 | 侍所初代別当 |
北条義時 | 時政息子、頼朝家子(家子=寝所を警護する親衛隊) |
大江広元 | 公文所初代別当 → 政所別当(政所=公文所が建久2年から政所に) |
三善康信 | 問注所初代執事(問注所=訴訟・裁判を統括) |
中原親能 | 公文所寄人 → 政所公事奉行 |
二階堂行政 | 政所家令・執事(家令=次官、別当に次ぐ地位) |
鎌倉幕府の史書である『吾妻鏡』はこう記す。
「諸訴論の事、羽林(うりん)直に決断せしめ給うの条、これを停止せしむべし。談合を加へ、計ひ(はからい)成敗せしむべし。その他の輩(やから)、左右無く、訴訟の事を執り申すべからざるの旨、これを定めらる」
「羽林」とは頼家のこと。訴訟の裁定を頼家が直に決断することを禁じ、13人の有力御家人の談合(合議)によって行うことを決定したと記されているのだ。
歴史小説家の伊東潤氏は、この変化をこう見る。
「この体制は、宿老たちが頼家の決裁権を禁止したうえで、政治を合議制で進めようとしたとみられていました。しかし、近年は研究が進み、『訴訟案件の取り次ぎを13人に限定した』というのが実像のようです」
ここでいう訴訟とは、主に土地の奪い合いを指す。発足して20年にも満たなかった鎌倉幕府では、武士の間で「ここはオレの領地」「いやワシの土地」と、いざこざか頻繁に起きていた。
これを裁定する権利は鎌倉殿・頼朝にあった。頼朝存命中は、鎌倉殿の専権事項だった。だが、その体制を整備し、後継者の頼家には訴訟を直接持ち込まず、13人の宿老が必ず「取り次ぐ」ことにしたのである。
梶原の景時が最初に粛清される
体制整備の背景には、幕府が抱えていた深刻な問題があったと考えられる。
第一は、土地争いといった重要な政治行政から、頼家を遠ざける必要があったこと。鎌倉殿に権力が集中しすぎていたのを、御家人たちが危険視していたのである。
そして第二に、これが後々まで最大の問題になってくる、御家人の権力闘争である。
13人は、頼朝に近かった宿老や文官だったが、とりわけ大きな力を持っていたのは頼家の祖父・北条時政と、頼家を育てた乳母を一族に持つ比企能員の2人である。それを、いったんは合議制という枠組に押し込み、権力闘争を回避しようとしたのである。
だが、こうした人員構成は、結局は権力を奪い合うのが常だった。
まず梶原景時(かじわら・かげとき)が粛清される。
景時は源義経と対立したことで知られる頼朝の側近中の側近であり、御家人の動静を監視する諜報機関の役割も担っていたので、疎んじられるのも無理はない。しかも頼朝死後は浮いた存在となっており、多くの御家人が連名で景時を弾劾する書状を提出した。
景時はあえなく鎌倉追放となったあげく、正治2(1200)年、一族もろとも殺害される。首謀者は北条時政だったと考えていい。
頼朝の信任が篤かった景時は、嫡男の頼家にとって後ろ盾の一人だった。しかし、頼家はかばいきれなかった。その前後には三浦義澄と安達盛長が高齢によって死去。13人から、3人が消えた。
比企の乱で孤立無援となった頼家
次は北条時政と比企能員の抗争だった。
能員は頼朝の乳母だった比企尼の猶子(本来は甥だったが比企尼と親子関係を結んだ)で、娘・若狭局を頼家の側室としていた。頼家と若狭局の間に生まれた一幡(いちまん)は、まぎれもなく次期将軍候補であり、比企尼の娘たちが乳母となって、比企家をあげて盛り立てようとしていた。
一方の北条には頼朝の正室であり、頼家の生母・政子(まさこ)がいる。頼朝の舅(しゅうと)の時政、義弟の義時もいた。そして何より、頼朝の次男・千幡(せんまん/後の実朝)を養育していた。
つまり、頼家の息子・一幡、頼家の弟・千幡か、どちらを次期将軍とするかで比企家と北条家が熾烈な闘争を繰り広げていた。
建仁3(1203)年7月、頼家は病に伏した。同月23日には危篤状態に陥ったと『吾妻鏡』は記す。幕府はまだ存命していたにもかかわらず、「9月1日、頼家病死、千幡が後を継いだ」との報告を出し、7日には朝廷に届けた(『諸隈関白記』)。
そして、頼家死去とのデッチ上げを発した翌2日、時政は比企能員を自邸に呼び出して謀殺し、返す刀でひと晩にして一族を根絶やしにしてしまうのだ(比企の乱)。
この時、幼い一幡も逝った。その死を『吾妻鏡』は乱の最中に死んだと記し、『愚管抄』は母と脱出した一幡を北条が探し出し、2カ月後に義時が配下の者に命じて殺害させたと書いている。
合議制は一人に権力が集中し途端に破綻する
危篤から脱した頼家が事件を耳にしたのは、比企滅亡の3日後だった。
烈火のごとく怒り、ただちに時政追討を命じるが…
- 頼家は政子の計らいで伊豆の修禅寺に出家『吾妻鏡』
- 政子がすがりついて止め、そのまま修禅寺に押し込めた『愚管抄』
と、ここでも詳細は異なっている。どちらにしても、時政と政子が電光石火の早業で、事実上修禅寺に幽閉したことに違いはない。
翌年、頼家死去。暗殺だったという。一説には陰囊(いんのう)をえぐり取られる無残な死に方と伝わる。
そもそも前年9月に自分は死んだとされていることさえ、知らなかったろう。
殺害の首謀者が誰かを、『吾妻鏡』は語らない。
その後も13人の生き残りたちは熾烈な抗争を繰り広げ、時政vs.政子&義時という骨肉の争いまで起きるのだが、ここでは割愛する。
というのも、この時点で「13人の合議制」は崩壊しているからだ。
前出の伊東潤氏は言う。
「合議制や宿老の集団体制というのは、勢力の均衡を前提としなければ成立しません。それが崩れてしまうと、誰か一人に権力が集中します。鎌倉幕府の場合は北条時政に集中します。同じような集団合議制で有名なのは、豊臣秀吉が設置した五大老五奉行制ですが、この時は徳川家康でした」
鎌倉幕府は義時の子・泰時(やすとき)の執権時代、連署(れんしょ)という執権補佐役や、評定衆(ひょうじょうしゅう / 裁判・政務を合議する者)を置き、集団指導体制を進めた。しかし、鎌倉後期になると、次第に北条得宗(とくそう / 本家の家督)を継いだ者の専制へと移っていく。
困った時は合議制——だが、内部分裂が起こり得ることは、歴史が証明している。
結局は失敗に通じる苦肉の策であることを、学んでいるだろうか。
[参考資料]
- 『源氏将軍断絶』坂井孝一(PHP新書)
- 『承久の乱』本郷和人(文春新書)
- 廣済堂ベストムックシリーズ『承久の乱』(廣済堂出版)
バナー画像 : 役者絵に描かれた義時。明治13年に上演された歌舞伎『星月夜見聞実記』のもので、演じたのは市川左団次だった。東京都立中央図書館特別文庫室所蔵